第25話 置き去りの恋心
あの後何とか暗くなるまでに買い物を終わらせて、気のいいおばちゃんがいる宿も見つけられた。
遅い時間になると酒場になってしまうからと、早めの夕飯を勧められて。そこで美味しくご飯を頂いて、借りた部屋でようやくひと段落したころには外はもう真っ暗で。貴重な油を使ったランプの明かりを小さく絞って、ぎりぎり部屋の中が見える薄暗さを保つ。
これが私たち平民にとっての普通なのに、お城の中では昼も夜も関係なく明るくて。ランプではなくて、もっと明るい…きっとあれはお城の魔術師の方たちが、何か魔法で照らしているんだと思う。ただ触れればいいだけの明かりたちなんて、どう考えても普通じゃないんだから。
「殿下……」
もうこんなにも遠くなったのに。思い出すのは、あの淡いブルーの瞳。
殿下が、セルジオ様が。私ではない誰かを新しく採用すると決めたのなら。もう私が要らないというのなら。当然あそこに居場所なんてなくて。
「……違う…」
最初から、あそこに私の居場所なんてなかったはずだった。
私は平民で、殿下は王弟殿下で。セルジオ様だって殿下の側近として常に傍にいられるほど高位の貴族で。
なんて、遠い世界だったんだろう……
宿の窓から見えるお城は、夜なのに点々と灯りが見えていて。
私はあの中のどのあたりが殿下の執務室だったのかも、私が使っていた部屋があった場所なのかも、今になっても分からないまま。
でも仕事人間の殿下は、私が午後の休憩時間が終わってお茶を下げた後も、こんな時間になるまで仕事をしていたのかもしれないとふと思って。
そう。それはもしかしたら、今も……
「なに、考えてるんだろう……」
もう戻ることのない場所。戻ることのできない場所。
だって戻ろうとしても、それは許されなかったから。最低限の荷物の中には、殿下がくれたものなんて何一つ入っていなくて。
「当然、だよね…。あれは、私個人のものじゃない……殿下の、側仕えのための、ものだから……」
レシピを書き留めるために使っていたガラスペンも、非公式なお茶会で宮殿に行くために殿下から贈られた服や靴も。
全て、私個人の所有物なんかじゃなかった。
「あ、でも……手紙だけは、私宛だったから…。持ってきたら、よかったかな…」
……いや、それもきっとダメなんだろう。
だってあれは、殿下の直筆だから。しかも名前まで書かれていた。
何に使えるかは分からないけれど、少なくとも王弟殿下の筆跡を真似るために盗まれる可能性だってあるわけだから。犯罪に使われるくらいなら、誰かに盗まれて読まれるくらいなら。いっそ、最初から手元になんて置かない方がいい。
だから。
「本当に、何も……なくなっちゃった……」
私が殿下の傍にいたのだという証は、何一つ残っていない。
でもきっと、本当はこれが正しい形のはずだから。本来の在り方に戻っただけ、だから。
だから……
「ぅっ……ふっ……」
こんなにも胸が苦しいのは、悲しくて涙が出てくるのは、きっと何かの間違いなんだ。
虚無しか残っていないのは、今までが本当に、夢みたいな生活だったから。あまりにもあそこに、慣れすぎてしまっていたから。
そう、思えたら。どんなに良かっただろう。
本当はもう、とっくに気づいていた。
気づいていて、知らないふりをしていただけ。見ないふりをしていただけ。
だってそんなこと、許されるはずがない。願っても叶わない想いなんて、持っているだけ無駄、だから。
だけど……
「で、んかぁっ……」
好きだった。
王弟殿下だからじゃない。
王族だからとか、そういうことでもなくて。
私が作ったお菓子を、美味しそうに食べてくれるあの人が。
甘いものが苦手で、チーズが好きで。新しいものには目がないのか、いつも新作を出すたびにキラキラと子供のように目を輝かせていたあの人のことが。
「でん、か…殿下っ…」
名前なんて、呼べるわけがない。そのくらい遠くて、本来だったら直接会話することすら叶わないほど雲の上の人。そのくらい身分の差があるはずの人。
そのはず、だったのに。
私の名前を優しく呼ぶから。
柔らかく淡い瞳を細めて笑うから。
ずっと、傍にいたくなった。
それ以上なんて望まない。望む資格すら持ち合わせていない。そんなことは言われなくても重々承知している。
だからただの側仕えとして、王弟殿下のお茶くみ係として、あの人の傍にいられればそれでよかった。それだけで、よかったのに。
「ぅっ、ぁ……ぁぁああぁっ……」
それすら、許されなかった。
当然だって、分かってる。
私みたいな平民が、なんてことを思っているんだって言われても仕方ないことだって、ちゃんと理解はしているんだ。だから文句なんて一つも言えないし、言ったところでどうにもならない。
目の前にある事実はただ、私はもう殿下にとって必要なくなったというだけで。
だから割り切らないといけない。流れる涙も今日だけ、今夜だけで。明日からは前と同じ自分にちゃんと戻れるように。
この先どうするかなんてまだ何も考えられないけれど、今だけはただ感情のままに泣かせてほしい。
そうしたら忘れるから。
ここですらない、あの場所に。もう入ることすら出来ないお城の中に。
私の恋心を、置き去りにして。
そうしてやっと、私は"明日"に辿り着けるはずだから。
泣きつかれてそのまま眠ってしまうまで、私はひたすらに声を殺して涙を流すのだった。
翌朝。
流石に泣きすぎて重くなってしまった瞼を濡れタオルで冷やしながら、これからのことに思考を向ける。
泣いてしまえば意外とすっきりとするもので。まだ多少心の中にモヤモヤとしたものはあるけれど、最初から身分違いだと分かっていたからか受け入れられないほどショックではなかった。
あとは本当に、きっとお城の中に恋心のほとんどを置いてきてしまっていたのかもしれない。ガラスペンも服も手紙も、何もかもがあの場所に残ったままだから。何一つ持たない私は、あれは一時の夢だったのだと自分に言い聞かせることが出来るから。
「でもすぐには無理だけどね…」
かすれた声がより気分を落とさせるけれど、それでも一切やる気が出ないわけではないからきっとこれでいいんだろう。
それよりも私はこの先どうするのか、どうやって生きていくのかを考えないといけない。
一応私はまだ成人していなくて、働こうと思っても雇ってくれる場所はそうそうないだろうから。でもだからといって、教会の孤児院に戻ろうとは思っていない。だってどうせ来年には出ていくつもりだったのだし、それなら今から自立してもいいじゃないかと結論付けたから。
お金はある。ありがたいことに、王弟殿下のお茶くみ係というのはかなりの高給取りだったから。
今までは使い道なんかなかったけど、これからはこれを使って生活していけばいい。少なくとも成人するまでのあと数か月であれば、これの半分どころか何分の一という少なさで生活していけるから。
そういうところ、庶民でよかったなぁと思ってしまった。
「ただどうせなら、一度王都から出てみようかな」
ここにいたら、もし万が一王弟殿下の噂が流れてきたときにその内容が何であれ、平常心を保てるかどうかは確証がないから。
それに。
「せっかくならもっと紅茶に合うお菓子、作ってみたいし」
そのためにはまず、紅茶そのものを知る必要があると思う。
お菓子と紅茶の組み合わせ。それも甘いものではないお菓子で。
きっとまだ、誰も確立させていないはずだから。
私自身が二度と殿下やセルジオ様に会えなかったとしても、どこかで私が考案したお菓子とお茶の組み合わせが二人に届けば。
今はもう、それだけでいい。
「目標は高く!!」
そうと決まれば、まずは王都を出る手配をしなければ。
確か役所で申請をして、それが通れば出られるはずだから。ちょうど年齢的にも就職先を探すためという理由で大丈夫だろうし、何よりただの平民の移動にそこまで吟味する内容もないはずだから、きっと数日で許可が下りるはず。
「……そしたら、一度教会に挨拶に行こうかな…」
お世話になったお礼も言いたいし、ちゃんと王都を出て就職先を探すことにしましたって報告もしたい。
でもそれならなおさら、ちゃんと申請をしておかないと。できれば許可が下りてから、王都を発つ前日にでも行けば丁度いいだろう。お墓参りもしていきたいし。
「よ、っし!それなら必要なものを揃えに行く必要があるし、申請した帰りに色んなお店を見てみよう」
昔よりはドゥリチェーラ王国はずっと治安が良くなったと言われているけれど、だからって全く危険がないわけではないのだから。何かあった時のために、身を守るための道具もちゃんと購入しておきたいし。何より非常食は必ず必要だろう。
「そうと決まれば即行動!泣いてる暇なんて、私にはないんだから!」
空元気と言われてしまえばそうなのかもしれない。けれどそれでも、何か目標を立ててそれに向かって歩き出せばきっと本当の元気になるはずだから。
置き去りの恋心のことは、きっとまだ時々なんて頻度じゃなく思い出すだろうけれど。
それでも私はちゃんと自分の足で立って、未来を見据え始めていたのだった。
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