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 その日、僕はとても、運が良かった。

 なにせ、その日は僕にとって、最初の面接日だったから。

 僕自身もかなり驚いたのだが、なんとあの東国鉄ひがしこくてつ株式会社から書類選考通過のお知らせが届いていたのだ。


 この前の土曜日、おさふね殿の気持ちの悪い立ち姿を二度寝によって忘れた後、僕は念のため、今後の対策を考えていた。毎度、土曜午前の惰眠を遮られてあの恨み節を聞かされたのでは、さすがの僕でもそのうち寝覚めが悪くなってしまいそうだった。

 薄い布団の上であぐらをかいて辺りを見回した僕は、すぐに名案を思いついた。


(そうだ。テレビを捨てちまおう)


 このテレビさえ無ければ、おさふね殿の”電波受信論”なるクソ理論も、その効果を発揮出来まい。彼が次に訪ねてきた時、僕が扉を開けて開口一番、『お生憎だったな、あのテレビは捨ててやったぜ』と宣言してやった時の景色を想像すると、俄然がぜん、やる気が出てきた。

 中学の時に買ってもらった思い出のテレビだったが、ここは涙を忍んで、非情に徹するべきだろう。そもそも最近は、大して見る場面も無いし、世の中は見逃し配信と言うサービスもあるのだから、パソコンで見れば良い。モニタの大きさも同じくらいであるし、不便は無いだろう。むしろ、おさふね襲来の脅威を回避できるのならば、この古い戦友は喜んで我が身を捧げてくれるはずだ。

 すぐにアパート外のゴミ捨て場に持っていこうと思ったが、そう言えば、何週間かずっとそのゴミ捨て場に、”粗大ゴミはきちんと捨て方を守って!”などと大家さんの神経質な赤マッキーで書かれた張り紙をされた、背もたれが限界まで倒れきった椅子が有ったことを思い出した。おそらく、テレビもダメなんじゃなかろうか。

 そこで、僕はスマホから粗大ゴミの捨て方を検索したのだが、区のホームページはどのページもスマホで見るにはゴチャゴチャと細かくて、しかも所々ボタンが欠損しており、とても参照に耐えるものではなかった。なので、僕は諦めて、とりあえず寝転びながら何とはなしにメールアプリに触れた。

 ところ、『面接日程のご案内』なるメールを見つけたのだ。これには、心底、驚いた。しかも、中身を確認すると、ダメ元で適当にエントリーしていた頃に応募していた天下の大企業、東国鉄からではないか!

 僕は恐ろしくなって、悪質なイタズラを疑った。だが、メール本文のほとんどは、僕が東国鉄へのエントリー専用ページに登録した際に送られてきた、豪華な飾りのあるものと同一で、宛名にもきちんと『山崎やまざき れん 様』とあるし、送信元のアドレスも問題は無かった。『マイページ』とハイライトされたリンクをクリックすると、きちんと僕がエントリーしていたページへアクセスできた。そして、恐るおそる、僕は『日程の確認はこちら』とあるリンクをクリックしてみると、飛んだ先のページでは、書類選考通過の旨が丁寧な文章で記載されており、選択可能な日程が三つ選べるようになっていた。

 今になってみると、あまりに弱気だった。僕はその段になってもなお、何かの詐欺を疑っていた。いずれの日程もヒマであったが、なおも僕はスケジュールアプリを何度も確認し、念のためここ最近のチャットアプリの履歴さえも確認した。登校予定も、友人との約束も、直近では何の予定も無い。空っぽな人生だ。とにかく、混乱に近い恐慌を呈していたが、試しに一つの日程にチェックをつけて、送信ボタンを叩いた。

 詐欺ならば、きっと「信用情報を確認するため」とか何とか適当な理由をつけて、すぐにカードの番号を入れろ、だとか、そういった類の小窓が開くはずだ。

 が、そんなことは起こらず、ただ入力を受付けた旨のシンプルなページだけが現れた。

 そのあと僕は、「ああっ、ううっ……」と唸りながら布団をかぶって自分の胸の内を暴れ回る正体不明の感情に打ち震えていたが、すぐにメールアプリに着信のアイコンがついた。迷惑メールならばアイコンは付かないのだから、急いで確認したところ、着信したメールは果たして、東国鉄からであり、『人事本部人事課 胡蝶こちょう まい』なる人物からの『面接当日のご案内』であったのだ。そのメール本文は全体を通して柔らかな印象で、僕を心から歓迎してくれていることが十分に伝わる内容だった。面接については、昨今はリモートでの開催が多いが、今回の募集ではどうしてもあなたに直接お会いしたいのだ、と言うことで対面の面接に対する熱い思いがビッシリと書いてあった。

 これは、本物だ、と思った。文字通り舞い上がった僕は、この素敵な恋文に近いとすら言えるメールをくれた『胡蝶 舞』なる人物——間違いなく、女性だろう。それも、かなりの美しさであろう——とお近づきになる情景すら思い浮かべて、大企業に選ばれし民の優越感をたっぷりと満喫したのだった。


 『その日』、つまり面接の当日、僕はテレビを持って、アパートの階段をえっちらおっちらと降りた。

 僕が両手で持って歩けるほどの大きさだから大した重さではないが、電源ケーブルが途中で何度も地面に落下するので、かなり辟易へきえきした。

 コートが地面に付くので電源ケーブルなどそのまま引きずって行きたかったが、何だか格好が悪いし、アパートを出て最寄り駅に向かうための曲がり角を曲がってしまうと、すぐに商店街になってしまう。面接の時間は絶対に遅刻しない十四時を選択したものだから、僕が通りかかった時の商店街はちょうど昼前で、人通りも多かった。その中で無様に電源ケーブルを引きずった姿など、晒すわけにはいかない。

 そうして四苦八苦しながらテレビを運び込んだのは、リサイクルショップだ。舞さん——少し馴れなれしいので、今日お会いしたら、きちんと胡蝶さんと呼ぶつもりだ——からもらったメールのおかげで頭が冴えていた僕は、この商店街の端っこにリサイクルショップがあることを思い出したのだ。

 やる気のなさそうな店員にテレビを渡すと、即座に「無料でお引き取りとなります」と言ってきた。いくらかお小遣いを期待していた僕が要領を得ずに問い直すと、突き出た腹をしたエプロン姿の店員は急に不機嫌な顔になり、リサイクルに関する小難しい何やかやを語り出した。そして最後に、「なので、むしろ無料でのお引き取りは運が良いっすよ。お客さん」と付け加えた。


「じゃあ、それで」


 故郷から持ち出してきた、青春時代の苦楽を知る戦友が、このチビデブにタダで奪われるのは多少シャクではあったが、舞さんに会う前の気分に水を差してしまうよりも、この店員の言う通り「運が良い」と言う言葉を飲み込むのが良いだろう、と自分に言い聞かせて、引きつった笑顔と共に僕はその場を後にした。


 こうして運の良い僕は、面接会場として指定されたS区にあるビルの三階を訪ねた。

 S駅に降り立つまでの電車内では、(ああ、この環状線も、その内、僕の立てた運行計画で走るのかな、いや、総合職は在宅でまったり事務仕事か?)などと幸せな妄想で胸がいっぱいだった。待ち合わせまでの時間を潰した駅前のビルにある本屋に隣接するカフェから一望できるS駅と、駅前広場、交差点に群がる人々の流れ全て、僕がこれから就職するかも知れない会社の鉄道の利用客だと思うとワクワクが止まらず、そのために喉が乾き、思わずカフェラテを六杯も頼んでしまった。


 S駅から少し離れ、人通りもまばらな坂道の一角にあったそのビルは、妙に各階の天井が低い、鄙びた建物だった。

 高さも五階までしかなく、エレベーターのような物は見当たらず、仕方なく階段を登った。不安になって何度も行来した入り口には『貸し会議室有り□(四角に斜線)』などとあり、顔の見えない受付らしき窓口に覗く、血管の浮き出た右手に一度勇気を出して聞いてみたところ、場所は、一応、合ってはいるようであった。だが、”東国鉄”の名を出すと、各階の予約者についてのことは直接そこへ行って確認するように、と言うことだった。どうも、セキュリティ的な決まりで、窓口の人間は口を閉ざしている様子だった。さすが、大手企業だと面接会場もそれなりのセキュリティ要件を備えているところを用意するのだろう。

 だが、どことなく恐ろしい雰囲気もあった。ビルの中は全体的に薄暗く、老朽化しており人の気配だけはぼんやりと感じるものの、実際の人を見ることは無く、人影の片鱗すら視界に写らない。もし楽天的に考えるのならば、僕にとっては初めての面接であったから、その緊張感もあったのだろう。

 三階までの階段を恐々と登りきり、変な花柄のような左右対象の模様が彫られている擦り切れたビニールタイルで埋まった狭い廊下をキョロキョロしていると、すぐ近くの部屋扉の前に置かれた長椅子に、小柄な男性が真っ黒のスーツ姿で静かに座っているのが見えた。

 向こうもこちらに気づき、なぜかお互いピンと来て、その場で軽い会釈を交わした。

 僕は頼もしい友軍を得た思いですぐにその長椅子に滑り込み、彼との情報交換に勤しんだところ、どうやら、目の前にある部屋が、今回の面接会場で間違いないようであった。


 とりあえず、ここまでが『その日』、僕の運が良かったところの全てだ。

 そして、同じ面接を受けに来ていたそのキツネ目の童顔男の氏名や言動をちゃんと記憶しなかったことを、僕は後日、死ぬほど後悔した。


「もう、お越しですね。少し早いですが、面接を始めましょう。部屋にお入りください」


 急に部屋の扉が開いて、中年のおじさんが僕らにそう声をかけると、キツネ目君はすかさず「はいっ!」と変な裏声で直立した。

 僕も慌ててそれに続き、先に部屋に入っていったキツネ目君に習って、カクカクしつつも「失礼しますっ!」などと声を張って、忘れずに、後ろ手で、僕は面接部屋の扉を閉じた。

 中には、パイプ椅子が二つ用意されていて、中年のおじさんはその前に置かれた長机について、僕らへ着席を促し、そして、心臓の鼓動しか聞こえていないような混乱の中にいる僕を無視して、ただ静かに、面接の開始を告げたのだった。

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