盲目の生贄

入川 夏聞

   1   

 玄関の呼び鈴が鳴った。


 近くに転がっている目覚まし時計を見ると、まだ十時を少し回ったところだった。

 正直なところ、勘弁して欲しい、と思う。

 誰が好き好んで、土曜の惰眠をむさぼる絶好の機会を放棄すると言うのだろう。

 僕の気持ちとしては、むしろ、夕方までも寝ていたいという気持ちだった。何しろ、明け方近くまで、具体的には、新聞配達のバイクの音が外で響く時分まで、僕は就職戦線を渡る戦士だったのだ。それも、孤独な戦士。味方はもちろん、自分一人だけだ。

 一般論として。

 大手企業のような大規模な戦場は、当然、避けている。時間の無駄だ。だいたい、入り口からして怪しげなサイトへ個人情報を全てぶちまけて、大喜利よろしくトンチの効いたエントリー情報を作成しないといけない。そんな苦行をしたところで、生き残るのは生まれも育ちも、『ザ・貴族』とタイトル付け出来るような連中ばかりだ。僕のような片田舎から出てきた地味な三流大学生に、生き残る道は初めからあるわけが無い。しかも、晴れて内定と言う栄誉を勝ち取るのは、ネット上で見聞きする限りでは『留学・国家資格・表彰歴』を並々と備えた怪物ばかり、と言うではないか。僕の今月初頭の努力を、返していただきたい。本当に。

 とは言え。

 戦況は芳しくはない。何しろ、規模を落とした戦場にもライバルは多くひしめいているし、『ザ・貴族』共は、必ずどこの戦場にも現れてはぺんぺん草一つ残らない有様までフィールドを荒らしていく。もちろん途中で戦死させられた僕には、実際に内定した人間のことなんてわからないが、これは決して大袈裟な妄想などでは無い。いや、きっと、そうだ。そうとしか思えない。

 だって、僕の元には今日の今日まで、一件も、面接のお誘いが、来てはいないのだから。

 かといって、今の時代、在宅からリモート勤務出来る環境すら無いようなお粗末なところへは就職したくない。実家の母親も、それだけは心配しているのだ。

 それを思うと、頭の両側面辺りが奥の方からジリジリと焼かれるような感覚を覚える。

 これが、寝ずにいられようか。


 だが、また、玄関の呼び鈴が鳴った。


 仕方なく、布団から這い出し、自分の立ち姿を軽く、鏡で確認した。

 くしゃくしゃとした髪はいつも通りのカミナリ様で、目元のやる気のなさ、細い二の腕の頼りなさは、むしろ、これから相対する人物の思い通りの姿なのだろう。

 二間のアパートで一人暮らしをする身としては、この冬の季節に叩き起こされることは生死を問われるに等しい。適当に辺りの畳へ散らかる雑誌やらコミックスやらが足に当たると冷たいので避けて通りたいが、この寒さではそれも、上手くは避けられそうもない。結局、フラフラとした足取りのまま、途中でコンビニの弁当を丸めたゴミ袋に足が引っかかって、そのまま倒れ込むように玄関のドアノブに体を預けたところ、再度の呼び鈴が鳴るのだった。

 予想はしている。が、一応、ドアの覗き穴から来訪者の姿を確認した。


『N放送協会 おさふね』


 やはり、と思い、僕は息を真下の空間に吐き捨てた。

 ”おさふね”殿だ。

 覗き穴の魚眼レンズから僕の視界に見えるのは、大写しとなった男性の胸部。そこにぶら下がった、よれよれのプラスチックに包まれたネームカードだけだった。

 彼は、かなりの長身だ。そして穴から見える様子から、どのようにドア向こうで待機しているかが伺える。

 海外のニュースなんかでよくあるように、王族の通る門前などで警備している高帽子を備えた兵士か警官かよろしく、アゴをしゃくり気味にして、いくらか胸を張った上で、ピシっと直立不動でもしているのだろう。


(さすが、しつこいな)


 ともかくも、このまま放置してもお互いに時間の無駄であるし、彼はピタリ一分周期で呼び鈴を鳴らしくることは前回までに学習済みだ。

 かなり、鬱陶しい。


「はい。何か、御用ですか」


 僕が玄関ドアを開けると、彼は大きく何度もお辞儀をしながら叫んだ。


「こんにちは! 料金のお支払い、ぜひ、いただきたく! こんにちは、山崎さんっ!!」

 

 酔っ払ってるのか、こいつは。相変わらず、へぼい軍隊を描写したコメディ映画の中から飛び出したようなやつだ。たすき掛けにした謎の機械のせいで、スーツが見苦しくよれている。

 その暑苦しい声に、このあとの面倒なやり取りを過去の記憶から拾ってくると、僕の表情にはあからさまな嫌悪感が滲み出た。

 僕はもう、こいつの相手をするのは、三度目なのである。


「あ、すみません。僕、N協は視てないんで」


「でも、テレビ、持っていらっしゃいますよね?」


「いや、壊れてるんで」


 ネットで得た知識で、とりあえず先制攻撃を試みる。ちなみに我が家のテレビはもちろん、壊れてなどいない。実家から持ってきた、古くて小さな液晶テレビだが、まだまだ現役だ。


「壊れていても、持っていらっしゃいますよね?」


「いやいや、何言ってるんですか? 壊れていたら、N協、視れないでしょ」


「視れるかどうか、のお話しではないんですよ! 山崎さんっ!!」


 突然、大きな声を出したかと思うと、おさふね殿は長身をいささか前屈みに、顔を近づけてきた。面長と言うより馬面がしっくり来る人間の吐く息の温もりが感じられるほどの近さに自分がいる、と言う恐怖を思い浮かべてほしい。


「テレビとはっ! テレビとは、放送を受信可能な装置なんです。受信可能な状態なら、とにかく受信料を払っていただく。それが、ルールなんです」


「いや、だから、そのテレビが、こ・わ・れ・て・る・の! わかります? 壊れてるんだから、受信不能でしょ?」


「それじゃあ、山崎さんはっ! お天気とか、ニュースとか、どうやって調べているんですか!」


「そんなもの、スマホかパソコンで調べますよっ!」


 実際はそんなもの、全く見ないのだけれども。

 そこまでの話をして、しまった、と僕は思った。たしか、最近じゃネットが見れる環境でも、ダメなんじゃなかったかしら。つい、勢いで口走ってしまった。

 だが、意外にもおさふね殿は、ネット環境については何も追求をして来なかった。


「テレビ有り……テレビ有り……受信可能……受信可能……」


 何かをぶつぶつと呟きながら、たすきに掛けた謎の機械を操作している。が、明らかにその様子が辿々しい。以前から感じていたが、おさふね殿は、どうやら機械の類はすこぶる苦手なようだ。

 とすれば、僕は運が良いのかも知れない。

 N協の集金人には、その話術に得手、不得手があるようで、ネット環境をほとんど触ったことが無い人間も、少なからずいると言う。この現代社会でちょっと信じられないが、ともかく彼らはその苦手分野を回避するために、マスクを付けて毒ガスウイルスだらけの外を歩き回る危険な職業を選択するほどの強者たちなのだ。ある意味、覚悟が違う。

 それだけに、ネット関連の話題のスルースキルは高く、おかげで僕はその恩恵に与れる、と言う訳だった。

 

「このハガキをですね、必要事項記載して、出していただきたいんですよ」


 おさふね殿は、たすき掛けした謎の機械の操作を終えると、その反対側に、これまたたすき掛けしたボロボロの革鞄をゴソゴソして、湿っていそうな印象の少し歪んだハガキを引っ張り出してきた。


(よし。来たか)


 このハガキを、受け取ってはいけない。とにかく。


「拒否します。そのハガキの受け取りを、僕は拒否します!」


 こう言う時、ハッキリと意思表示をしなければいけない、らしい。僕がお世話になっているネットの記事には、そう書いてあった。

 僕は、おさふね殿の目を見ずに、顔をぷいっとはるか彼方、アパートの階段方向から小さく見える、公園の中にひっそり立っている時計の方へと向けた。彼のでかい図体を避けるには、それくらいのあからさまな動きが必要だった。多少申し訳ないとは思うのだが、昔から、否定的な発言をするのに、あまり相手の方を見ることが出来ない質なのだ。


「大丈夫なんですかね?」


 おさふね殿が、ぽつり、と言う。

 その声の響きがあまりに不安を感じさせるようなものだったので、思わず彼の方に視線を戻すと、おさふね殿はガックリと下を向きながら、プルプルと肩を震わせている。右手には、先ほど取り出した手紙がクシャり、握られたままだ。


「……この人。テレビ、持っているのに。受信出来る、状態なのに。これ、見逃すなんて、ダメ、なんじゃないですかね? 大丈夫、なんですかね? この人……」


 その発言の対象が、すでに誰に宛てて発せられているのか、僕にはもうわからなくなった。

 おさふね殿はプルプルと震えながら、僕の顔を見るでもなく、我が家の玄関前でひたすら床面を見つめながら、ぶつぶつと恨み言めいたものを呟いているのだ。

 たしか前回も、こんな感じだっただろうか。覚えていない。おそらく、気持ちが悪かったので、いつものようにさっさと忘れてしまったのだろう。


 とりあえず、おさふね殿には失礼します、と別れを告げて、僕はアパートの扉をそっと閉じたのだった。

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