第49話 ヒロインと屋根の上で

 夜風が肌を掠めていく。

寝衣のまま出てきたせいか少し肌寒い。腰掛けている屋根の瓦もひんやりしていて、何か羽織って出てくればよかったと少し後悔した。

けれど、今日は星が綺麗に瞬いて月の光が温かい。

 月に向かって手を伸ばした。あの時は届きそうで届かないことに絶望していたのに、今は届かないはずなのに届きそうなことを喜んでいる。


「夢みたい...」


私の世界が目紛しく変化していく。辛い日々こそ毎日が鮮明で冴えているのに、喜びを胸いっぱいに詰め込んだ日々はホワホワしていて、幻想のようで...何だかちょっと、不安定。

 あの出来事から三日が経った。私はまだルナールに帰れないでいる。沢山の手続きと、療養を兼ねてまだ王都に居なければならない。だから今は王城敷地内にある客人用の離宮で休ませてもらっている。とてもありがたいことなのだけれど、全てが至れり尽くせりすぎて田舎娘の私はちょっとだけ窮屈に思ってしまった。


「夢だと思いたいのは僕の方だよ」


 突然の声に跳ねた肩を温かい何かが優しく抑え包み込んだ。微かな葉巻の匂いとお酒の匂い、そしてまだ慣れない大好きな人の匂い。包み込んでくれたものに手を添えれば上質で滑らかな肌触りで、襟元では隣国皇族の紋章がきらりと光った。私が着るにしてはどうにもぶかぶかで、けれど、寒さを凌ぐ為に丸めた体をすっぽりと覆ってくれる温かさがどうにも嬉しくてジャケットの端をキュッと握った。


「ネム、葉巻吸うんだね」

「吸わないよ、会食で大臣達がね」

「そうなんだ」

「それよりなんでこんなところにいるの?休んでいるように言ったはずだけど?まだ、本調子じゃない君が夜風に当たって体を冷やしてるなんて、僕は夢だと思いたいよ」

「ネム、お母さんみたい」

「お、おかぁ...さん?」

「まぁまぁ、一緒に座ろ?」


 隣をぽんぽんと叩けば、少し眉を寄せて不本意そうな顔で渋々隣に座ってくれた。



「ねぇ、寒くないの?」

「うん。ネムのジャケットのお陰で温かいよ。ありがとう」

「どういたしまして」

「それよりネムは?借りちゃったけど、寒くないの?」

「酒を飲んだからね、酔い覚ましにはこれくらいが丁度いい」


 そう言いながらタイを緩める仕草は艶美で少し恥ずかしくなりつつも、見惚れてしまう。

ネムはタイを緩めると後ろに手をついて上を見上げた。はぁと息を吐き、揺れる喉がとても艶やかでこりゃ大変だと何が大変なのかも分からず胸が小騒ぎを起こしている。


「えっちな目で見ないでくれる?」

「なっ...

ネ、ネムがあまりに綺麗だったからちょっとだけ胸がザワザワしただけだもん...」


 とっさに出た言葉が、アレこれ間違えたと自分でも分かって辛い。急いで貸してもらったジャケットを頭まですっぽり被って顔を隠す。穴があったら入りたい。穴がないなら被るしかない。


「あはは、ほんと君は嘘がつけないね」


 恥ずかしすぎて顔から火が出そうだ。


「まぁ、だから、君と居ると心地いいのかな」


頭から被ったジャケットの襟の隙間から覗けば、ネムは月に向かって手を伸ばしていた。さっきの私みたいだなとクスリと笑いがこぼれる。

ジャケットを肩に掛け直して月に翳された手に手をそっと重ねる。開かれた指はとても長くて綺麗で、けれど男の人なのだと感じるくらい大きくて今は私の手よりちょっと温かい。

触れたかった。そんな思いがどんどん欲張りになって指と指の間にゆっくり割り込んでいく。そうして、ネムの手を後ろから握るかたちとなった。


やっぱり大きい手だなぁ。


と、思ってはっと我に帰る。


わ、わたしいきなり何してるんだろう...


 無意識のうちに自分の欲に従順な体は、己を満たす為に行動し、実行した後は全部丸投げで意識を戻してくるのだ。全部自分のしたことなのだけれど...ど、どうしよう。恥ずかし過ぎて横が見れない。

どうしようかどうしようかと震えていると、くすくすと隣で笑う声がする。


「ご、ごめん、つい...」


謝る。こうなった時はこれに限るのだ。


「どうせなら、ちゃんと繋ごうか」


そう言って名残惜しく離れていった手は、くるりと向きを変えて空で迷子になった手を迎えに来てくれる。すっぽりと交じり重なり合った手から温かさが伝わり胸が満たされていく。


「ねぇ、明後日には帰っちゃうの?」

「一旦ね、また迎えに来るよ」

「...うん」


はぁ

だめだ。体も弱ってると心も弱くなるみたい。隣にネムが居るのに無性に寂しくて仕方がない。たった今繋いだ手からもらった温かさで満たされたはずだったのに。きっと治ったはずの火傷がまだチクチクと微かな痛みを訴えてくるせいだ。


ううん。それだけじゃない。

欲張りになっているのだ。今までは会えるだけで満足していたのに、触れられた喜びはあまりにも刺激が強すぎた。



「ねぇ、...また明日の夜もここで会える?」


 そう聞けば、ネムは難しそうな顔をする。


「やっぱり忙しい?」

「そうじゃない。病み上がりの君が明日もこんな所で夜風に当たることが好ましく思えない」

「お母さん...」

「お母さんじゃない」


眉間の皺をさらに深く刻んだネムの顔が面白くてクスクス笑っていると、急に体に違和感を感じた。


「え、う、うわっ」


 いきなりふわりと浮かんだ体はそのままゆらゆらと横に流される。こうして降ろされた場所は瓦よりも柔らかくてふんわりと温かい


「え、え、ネム、?」


降ろされた場所は彼の膝の上で、横を向けばネムの顔がすぐ側にあった。膝の上に座っているおかげでネムの顔を少し見下ろすかたちとなり、見上げられるとなんだか無性に恥ずかしい。行き場のない手を恐る恐るそっと彼の肩に添え、彼の大きな手は優しく私の腰を抱いてくれる。


「ど、どうしたの?」


あわあわと口をパクパクさせながら何とか質問を口にする私を見てネムは微笑んだ。


「さみしい?」


甘く低い声で囁かれる声に背筋を何かが駆け抜けていく。胸が高鳴り顔が熱い。あぁ、今の私の気持ちだってきっと彼には筒抜けだ。


「...さみしいよ。すごくさみしい。本当はもっと一緒にいたい。けれど、ネムが忙しいのも知ってるから...だからね、今こうやって会いに来てくれたことがすごく嬉しい。嬉しくて嬉しくてなんか、すごく寂しくなっちゃった。

あはは、変だよね。今こうやって会ってこんなに近くにいるのに、もっと近づきたいって思っちゃう。ねぇ、好きだよ、ネム。大好き」


話してしまえば止まらなくてついつい全部言いたい事を言ってしまう。けれど、言ってしまった後で急に恥ずかしくなって、顔を見られたくなくて、ネムの肩に顔を埋めた。

はぁ、恋とは恐ろしい。ついさっきも心に任せて手に触れ、我に返りアタフタしたのに、また同じ事を繰り返してる。恋とは学習出来ないものなのだろうか。


あぁ、胸のドキドキが治らない。言ってしまったことに加えて自らネムに触れていることがさらに恥ずかしさと嬉しさと緊張を膨らませていく。このままじゃあ、鼓動がネムにまでーーーー


ド...


ネムにまで聞こえて


ドッド...


しまいーー


ドドドッ...


ん?


ド、ド、ドドドドドドドッッッ


「え、ネム大丈夫!?」


ネムの胸のあたりから太鼓を鳴らすような鼓動が高速で聞こえてくる。慌てて肩から顔を離してネムの様子を伺うけれど、肝心の本人は両手で顔を覆ってびくともしない。


「ネム!?大丈夫!?調子悪いの?あぁ、そっか。お酒飲んだって言ってたもんね...っ熱い」


慌てて彼の額に手を当てるとかなり熱くなっている。耳まで真っ赤だ。

私ったら自分の気持ちばかりに気を取られてネムの体調の変化に気が付かないなんて。どうしよう...すぐ寝かせてあげたい。

アタフタしていると、ビクとも動かないネムから、チガウ、キミガ、、トツゼン、ソンナココト、、イウカラ、、、ズルイ

なんてよく分からない事を言ってうなされ始めてしまった。これはかなり重症かもしれない。

こうなってしまってはなりふり構ってられない。


「ネム、失敗したらごめんね」

「?」


人を連れては初めてだから、上手く行くか分からないけれど、ネムを運ぶにはこれしかない。一応ネムに一言断りを入れて彼の頭を抱き込んだ。

そして、目的地を思い浮かべて力を込めた。


ぽふっ


柔らかな感触が体を包み込む。

質のいい滑らかなシーツには最近やっと慣れてきたところだ。


「は?」


ネムは顔を覆っていた手を少し離して、目を大きく見開いている。指の隙間から見える顔がきょとんとしていて可愛い。

頭を抱えたまま私のベッドへ瞬間転移したため、そのまま横になってネムに腕枕をしている状態だ。


「ごめんね、ネムの部屋へ行ったことないから送ってあげれなかったの。だから今は私の部屋で我慢してね。調子が良くなるまで寝てていいよ?」


抱えている頭を撫でながらそう言えば、ネムはまた顔を覆って動かなくなってしまった。ただ、速い鼓動だけが伝わってくる。本当に大丈夫だろうか。

それにしてもネムの髪の毛がサラサラでツヤツヤで柔らかくてずっと触ってたい。そういえば初めてネムの髪に触れたかもしれない。なんて考えてたら今度は私の鼓動が速くなってひとりでちょっと恥ずかしくなった。

しばらく二人でベッドに潜ってじっとしていると、ネムの鼓動がだんだん穏やかになってきた。良かった。これで元気になってくれるといいのだけれど。


「ネム、落ち着いた?」

「...落ち着いたけど落ち着かない」


どういうことかよく分からないけれど、落ち着いたみたいでよかった。なんだか、恨みがましい目でこちらをみてくる気がするけれど、まぁ気のせいかな?それにしても...


「不謹慎なのは分かってるんだけど...こうしてネムと一緒に居れるの嬉しい」

「君は...本当にズルい」


また手で顔を覆ってしまったネムを抱きしめる。今まで触れれなかった反動なのか、触れたい衝動が抑えられない。こんなところアリーに見られたら、はしたないと怒られちゃうな。


「君が存外、大胆なところがあることを忘れてた」

「そうかなぁ...あぁ、そうかも」


そういえば強引にキスしちゃったっけ...

今思えばとんでもないことしてたな、私。顔が熱い。


「嫌...だった?」

「いいや、むしろーーー」


その瞬間視界が回っていつの間にかネムに抱き込まれ、今度は私が彼の腕の中にいる。


「僕も負けてられない」


二度目のキスは柔らかな熱を帯びて唇に降り注ぎ、私を満たしていく。愛しさで涙が溢れた。このキスはお別れじゃない。これからを誓うものだ。静かに離れる唇が離れ難くて仕方がなかった。








ーーーーーーーーーーーーーーーー



リカル「えぇ!!キスだけで帰って来ちゃったんですか!!陛下ってば案外ヘタレですねぇ」



陛下「.....うるさい」





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悪役令嬢に追放されたヒロインは眠れる森の美男と戯れる むい @muumuumuu

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