第44話 皇帝陛下 中編
リカルの言った通り、彼女は王城を支配した。気がつけば、今までに見た事のなかった彼女の表情に鳥肌が立っている。光を失った瞳に儚さと妖艶さが灯り、暗い闇に堕ちる。月光の淡い光に照らされ花の上に咲く彼女に魅せられていた。悲しみの中で足掻いている彼女を美しいと思ってしまう僕はもうどうしようもなく彼女に堕ちているらしい。
婚約者が倒れたにもかかわらず、別の男に寄り添ってくるこの人への不快感など、どうでもよかった。宰相も感嘆の声をあげているし、十分だろう。はやく彼女を解放して僕に閉じ込めてしまいたい。
こんなにも人に執着するなんて思ってもみなかった。やっぱり彼女は僕の特別だ。
だから怪我をしたら許さないと忠告したのにデワイス嬢は彼女の腕に傷を負わせた。そして、その焼け爛れた痛々しい手首を握った瞬間気が付けば動いていた。皇帝としてこの場にいる以上、他国の事情には口出し出来ないと必死に耐えていたのに、一瞬でそんな事も忘れて彼女の手をその罪塗れの穢れた手から引き離していた。傷が痛まないようにその細い手首を掴んだけれど、火傷を負った腕は熱をもっていて、やけに自分の手が冷たいなと感じた。
そして、彼女は下手くそな口付けを落として行ってしまった。あんなに怯えていた瞬間転移まで使って。僕もすぐに追いかけないと。これ以上彼女をひとりで泣かせるわけにはいかないから。
「皆様、見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ありません。部屋の準備が整っておりますので、本日はどうかごゆっくりお過ごしください。警備を強化しておりますのでご安心を。父上も、どうぞ今は休まれてください」
ケント王子が他国の王をバルコニーから部屋へと誘導する。
僕が動かないからか、他国の王もなかなか動こうとしないけれど、フォレスティア王だけはすぐさま部屋へと戻っていった。どうやら具合が悪いらしい。
「私はもう少しここにいます」
そう言えば王達は先に部屋へと戻って行った。それとすれ違いに侍女が戻ってくる。
「陛下、ただいま戻りました」
「おかえり、リコル」
珍しく彼女は泣いていない。
「で、彼女と会えた?」
いつもたくさんの感情で揺れている彼女の瞳が真っ直ぐ僕を見つめている。何か言葉を必死に飲み込んでいるみたいだ。
「すぐに、お迎えの用意を致します」
返事になっていない返事が返ってくる。そんな彼女を微笑ましく思いながらも首を横に振った。
「それは、別の者にまかせるよ。君とリカルには別の仕事を頼みたい」
リコルはまっすぐ真剣な眼差しで、後ろに控えていたリカルは好奇心を灯した瞳で礼をとる。
「「かしこまりました」」
二人は息の揃った返事をすると廊下へと出て行った。見た目も性格も性質も違う二人だけれど、こういうところはさすが兄妹だなと思う。
そして、二人の出て行った扉からまた新たに別の人物が入ってくる。
今、この場にいるのは僕と宰相、ケント王子とデワイス嬢、控えている数名の護衛。そして、今入ってきた人物だ。
床に座り込み顔を伏せている人はまだその存在に気が付いていない。彼は今どんな心境なのだろう。人の心がここまで気になったのは初めてかもしれない。けれど、その中に触れる勇気は僕にはない。
中に入ってきた人物は座り込んだ人物の目の前まで行きその歩みを止めた。彼女の視界に靴先が見えたのだろう。それに気づきゆっくり顔を上げて現れた瞳は驚愕に染まっていった。
「ク、クリス...」
そう呼ばれた人物の背中は真っ直ぐ伸びていた。彼は今、どんな心境なのだろうか。裏切られた憎しみか、それとも絶望か。
「サブリナ。こんなところにいては風邪をひいてしまうよ。さぁ、中へ入ろう」
「.....どうして」
彼女の唇が、震えた微かな音を紡いだ。
「ん?それは、どうして私が動けているのか、か?それとも、どうして薬を盛った自分を責めないのか、かい?」
手を差し出されてもその手をとろうとはしない彼女にいつまでも手を差し伸べる彼。
けれど、問いにも答えない婚約者を見かねたのか手をとることを諦め、肩を抱き立ち上がらせた。下を俯く彼女を見守る男の背中は何を語っているのだろうか。
そして、もう一人の訪問者が現れた。
淑女の鏡のような美しい礼をとった女性はバルコニーへと、足を踏み入れた。なるほど、たしかに寸分の狂いもなく完璧だ。彼女にとって良い手本だっただろう。話しながらも器用に震え上がる愛しい人の可笑しい表情を思い出して思わず頬が緩んだ。
「陛下、何か良い事がありましたか?」
隣で宰相が僕に問う。
「いや、ちょっと会ってみたかった人物に会えて嬉しいだけだよ」
そう会話していた僕たちの耳にパシンッと威勢の良い音が届いた。これはかなり痛そうだ。音のした方へと顔を向ければ頬に手を当てて相手を睨むデワイス嬢と振り切った手は指の先までピンと伸び、その姿も完璧な彼女の友人の姿があった。
「アリーナ様。何をなさるのです!」
ミューリアの友人であるデラーレ嬢は指先まで綺麗に伸びた手を下ろし、静かに相手を睨みつけた。そして、穏やかな声で話し始めたのだ。
「サブリナ様、私は愚かだったのです。今までどのような悔しく憎い出来事があろうと、御家の為、領民の為と歯を食いしばって耐えて参りました。けれど先程の騒動で己の望む行動を躊躇っていた私に父はそれが間違いであると叱りつけたのです。"私を見縊るな。お前の信念を貫く為ならば私は喜んで盾となろう。お前だけではない。家も領民も私の愛すべきもの全てを守り切ってみせる"と。私はなんて愚かな娘だったのでしょう。父の強さを信じず、唯一無二の大切な友人を一人にしてしまった。
だから、私は今ここに来たのです。伯爵家の娘ではなく、ミューリアの友人であるただの娘として。
サブリナ様、私の大切な友人を己の私利私欲の為だけに利用した貴女を私は絶対に許さない」
猫のような鋭い視線が相手を捉えて離さない。それに捉えられた人物は顔を赤くして震えている。けれど、そんな彼女の肩を抱いているクリス王子は何も言わず只々凪いだ表情でミューリアの友人を見つめていた。
「アリーナ!サブリナに何てことを!!」
沈黙はすぐに破られ、バルコニーはさらに賑やかになった。サブリナ嬢の記憶の中で見かけた事のある三人の男が何の礼もなく現れ向き合う女性達の間に立ち塞がる。その内の二人は先程ミューリアに捕まっていた二人で服装は乱れてボロボロだ。もう一人の眼鏡を掛けた男は戦闘に参加していなかったのか着衣は乱れていなかった。
「アリーナ、見損なったぞ。サブリナは殿下の婚約者だぞ!?手を上げていいと思っているのか?君はもっと賢い女性だったはずだ」
騎士服を着た彼は確か、デラーレ嬢の婚約者だったか。
彼女の肩を揺すって責め立てている。貴族の男としての行動とはとても思えないな。
「そんな彼女に手を出そうとしていたのはどこのどなたでしたか?彼女は殿下の婚約者ですよ?」
「な、なに...ッ」
「それと、気安く触らないで頂けますか?私とあなたはもう婚約者では無いのですから」
「...なっ!?なんだと?」
デラーレ嬢は扇で口元を隠して楽しそうにコロコロと笑う。
たしかにこれはなかなか楽しそうな展開だ。隣の宰相を見れば、つまらなそうに遠くの空を見ている。
あ、欠伸を噛み殺した...
彼は本当に興味の無いことにはとことん無関心だなと苦笑した。
「先程、両家当主に許可を得て参りました。これで私達は正真正銘の赤の他人で御座います。呼び方も改めてくださいませ」
「な!?どういうことだ!俺はそんな話聞いてはいない!当事者の許可が無いのにそんなものは無効だ」
「元々この婚約は、承諾したとはいえ、当事者の意思とは関係なく成立したもの。ならば、解消も当事者の意思などなくとも良いのではありませんか?そもそも、私達の間に愛だ恋だなどはありませんでしたでしょ?」
「恋情は無くとも、俺とお前の間に友情はあったはずだ。それに俺はお前のことを気に入っている。お前の気高さは騎士の嫁として申し分ない。夫婦にはなれずとも、良きパートナーにはなれるはずだ」
「あら、それは残念なことですわ。私は貴方が大変気に食わないのです。たしかに、学園に入学する前の私達でしたら、そのような関係になれたかもしれませんが、今の私達では到底無理な話。私は貴方が大嫌いです。憎い程に」
「なっ...お前は、何様だ!王族になるサブリナに手を上げておいて、タダで済むと思っているのか!私と手を切ればお前はただの愚かな重罪人だ」
「そんなこと覚悟の上でございます。それとも、貴方の婚約者ならば、それも赦されると?まぁ、自惚れもそこまでくるといっそ清々しいほどですね」
「なんだと?」
「痴話喧嘩はそこまでにしろ」
激しく散った火花を消したのはクリス王子だった。彼は穏やかに、けれど厳かにその場の空気を自分のものへと支配する。彼は未熟であり、女に惑わされた哀れで一途なただの男だったけれど、確かに王族だった。
「デラーレ嬢。すまないが、今日のところは部屋へ戻ることを許して欲しい。彼女を休ませてあげたい。明日、改めて謝罪をさせてもらいたい」
「...殿下。それはなりません。婚約者であるサブリナ様に手を上げた私の罪は重いと承知しております。ですから謝罪をするのは私であり、王族である貴方様が臣下に頭を下げるなどあってはならぬ事です」
彼の表情はどこまでも穏やかだった。
「それでも、僕は君に私の過ちを詫びなければならない。君の友人にも」
そうして彼は一つ微笑みを残し、彼女から体の向きを変え、婚約者と共にこちらへと歩み寄ってきた。
「皇帝陛下。お見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ありません。今日のところは先に戻ることをどうかお許しください」
「構わないよ」
彼は深々と頭を下げ、婚約者の肩を抱えたまま廊下へと出る扉に向かっていく。けれど、肩を抱えられた人の足取りは重いらしくなかなか進まない。扉でも婚約者でもなく僕自身を見て何かを訴えてくる。それを読み取る事はできる。ただ答える気はさらさらない。そして、それに気が付いているクリス王子は切なさと諦めを織り交ぜたように苦笑している。
ああ、彼はどうしてこうなった今でもその背を曲げずにいられるのだろう。
「クリス王子」
そう呼び掛ければ静かにこちらへと振り返る。感情を隠し穏やかな檻を纏って。
「なんでしょうか」
「君は真実を知りたいかい?」
「えぇ」
少しの沈黙を置いて帰ってきた言葉はとても短く簡潔だった。
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