~第八章 命懸けで……~

 稔は急ぎ足で道場へ向かっていた。

「ヤバい、ヤバい。遅れそう」

 季節は夏。

 街路樹に留まった蝉の声が響いている。しかし、蝉の声に混じり聞き慣れない声が聞こえた。

『ピーヨ、ピーヨ!』

(どこからだろう?)

 耳をすました。

 音の方向は……公園の中からだ。音を頼りにしゃがみ込んで、声の主を探した。

「こいつだ……」

 ムクドリだろうか。鳥の雛が、公園の木の下の芝生の上で懸命に鳴き声を振り絞り、親を呼んでいた。木の上の枝には、その雛のものと思われる巣があったのだ。

「どうしよう……」

 何もできずに、ジッと雛を見つめていた。その時。

「みのるちゃーん、何してるの?」

 白い道着に白袴の杏が、コンビニから寄り道したのだろうか、スポーツドリンクの入った袋をぶら下げてやって来た。

「杏姉貴、稽古は?」

「私は重役だから、途中からでいいの。あんたこそ、遅刻よ。それより、そいつ、どうしたの?」

「多分、あの巣から落ちたんじゃないかな……」

 稔は目を細めて上を向く。すると、杏は袋を地面に置いた。

「落ちたんじゃないかな、じゃないわよ! 早く戻してやらなきゃ」

「えっ?」

 ぼやっとする稔を置いて、杏はスルスルと木に登った。

「いや、姉貴。危ない……」

「ほら、そのコ、渡しなさい」

 ある程度まで登った杏は、下へ手を伸ばす。稔は仕方なく、雛を拾って渡した。受け取った杏は、今度は上の木の枝に掛かっている巣へ、雛を持った手を伸ばした。

(あと少し、あと少し……よし、入った!)

 雛を巣に戻した杏は、安心して一瞬気を抜いた。その時。

「あわわわっ!」

 足を滑らせて転落したのだ。稔は、咄嗟に受け止めようと動いた。

『ドシーン!』

「いたたたた……」

 木から落ちた杏は、稔が下敷きになっているのに気付いた。

「わわっ、ごめん、ごめん。大丈夫?」

 慌てて稔から離れる。

「はい。大丈夫です」

 稔はどうにか起き上がり、尻についた土をパンパン払った。

「あんた、もしかして、私を受け止めようとしてくれた?」

 杏は悪戯な笑みを浮かべる。

「別に、そんなんじゃないですよ。それより、無理しないで下さい」

「無理しないで?」

 杏は切れ長の目をキッと稔に向けた。

「あんた、剣道やって、強くなって、何を守れるようになった? 本当に強い奴は、どんなに小さな命でも命懸けで守るの。それができないようじゃ、あんた、本当に強くなったって言えないわよ」

『ザワッ……』

 突如吹いた風が、公園の木々の枝を通り抜ける。それと同時に、稔の中を得体の知れない胸騒ぎが駆け抜けた。

 杏姉貴は、やっぱり立派だ。

 でも、何だかよく分からないけど……胸騒ぎがする。この立派さのせいで、姉貴が遠くへ行ってしまいそうな、漠然とした不安……。

「でも……やっぱり、あんま無理しないで下さい。だって、俺、あなたのことが……なんだから」

 消え入りそうな声で言った。

「なーに、しんみりしてるのよ。それに、何? 最後の方が聞こえなかった。もう一回、はっきし言いなさい」

 髪に葉っぱを付けながらも元気な杏を見て、稔は赤くなって目を逸らす。

「それは、次の……秋の大会で優勝できたら、もう一度はっきりと言います。それと……道着、早く直して下さい」

 杏の道着は、木から落ちた時の反動で胸元がはだけていた。

「何、あんた。生意気に年頃? こんなの、減るもんじゃなし、どんどん見ちゃいなさいよ。まぁ、あんまないけどね」

「やめて下さい」

 面白がってからかう杏に、稔はさらに真っ赤になって目を逸らした。


 その日の道場の稽古。

「メンヤァアー!」

『バクゥッ!』

 杏の『面』にますます磨きがかかっていた。

 それもそのはず。杏は夏の県大会を土曜日に控えていたのだ。

 杏は男子も含めて地区中学生の中で最強の少女剣士だ。恐らく、県大会の中学生女子の大会でも優勝できるだろうと思われた。

 杏の練習を見ている稔は、ドキドキと落ち着かなかった。

 さっき会った時は渡すどころじゃなかったが、稽古後にでも渡したいものがあった。だって、桜から聞いたんだけど、今日は……。


 稽古後の掃除終了後。

「杏姉貴!」

 稔が杏の元へ走り寄った。

「これ……」

 黒くて小さいケースを渡した。

「何?」

 杏はケースを開けた。そこには、ジルコニア製の人工物と思われるルビーのネックレスが入っていた。

「あんた、これ……」

「姉貴、今日、誕生日だったんでしょ。俺、お金持ってないからジルコニアしか買えなかったんだけど……プレゼントです」

「いや、ジルコニアっつっても高かったでしょ? 本当にいいの?」

 稔は頷いた。

「姉貴、剣道も強いけど、凄く綺麗だから……そういうのつけたら、めっちゃ似合うと思うんです。それと、さっき姉貴に伝えたかったこと……絶対に俺、秋の大会で優勝して、姉貴に伝えます」

 稔は真っ赤な顔で、それでも真っ直ぐに杏を見つめた。

『ドクン……』

 杏の胸の中に、今まで響いたことのない鼓動が響き渡る。

(うそ、やだ。何これ? 私、もしかして……)

「だから、姉貴も。絶対に県大会、優勝して来て下さい!」

 トマトのように真っ赤になった稔は、道場の外へ走り去った。

「伝えたかったこと……」

 杏はネックレスを見た。

 ここまでされたら、大鈍感な杏も流石に気付く。あいつの気持ち……。

「全く、私としたことが……。自分の育てた『鬼』に食われるとはね」

 杏は頬を赤らめる。しかし、今までで一番美しい純粋な笑みを浮かべて、そのネックレスをつけたのだった。


 県大会当日。

「じゃあね、桜。行ってくるわ」

 杏は竹刀と防具袋を持って玄関を出た。

「うん。気をつけてね」

 桜が笑顔で見送ると、上機嫌な杏は振り返り言った。

「絶対に優勝して帰ってくるからね!」

 首元にルビーを輝かせた杏は、鼻歌交じりに出掛けた。

「全く、分かりやすいんだから」

 桜はそんな杏を見て微笑んだ。杏はネックレスをつけたその日から、ずっと上機嫌だったのだ。

「私にも……いつか、そんな相手現れるかな」

 桜は、そっと呟いた。


 快晴の青空の下。防具を担いだ杏は浮き足立っていた。数分おきに首に掛かっているネックレスを触り、微笑む。

 じんわりと込み上げる、温かい気持ち。

 私がこの大会で優勝して、あいつも秋の大会で優勝したら……私の気持ちも打ち明けてやろう。顔が自然にほころんだ。

 しかし、幸せを噛み締めながら歩道を歩く杏は気付いた。隣の車道を茶色くて小さいものが横切ろうとしている。

(仔犬……あんな所に?)

 その時だった。横からトラックが、猛スピードで突っ込む!

(危ない!)

 思うより早く、体が動いた。

 即座に防具を置いて車道へ出て、瞬時にその仔犬を抱きかかえた。その瞬間!

『ダァァーン!』

 杏は仔犬を抱かかえたまま、物凄い衝撃と共に宙に浮いて、そして……地面に叩きつけられたのだ。


(何が起こった?)

 体中が痺れて……痛いのかどうかさえ分からない。目が霞んで……何も見えない。でも……

「クゥーン」

 自分の抱える腕の中で、小さな命が懸命に自分を舐めているのが分かった。

(そっか、あんたにトラックが突っ込んで、そんで……

あんたは無事なんだ。良かった……だけど……)

 舐められている感覚は消えてゆき……さらに霞みゆく視力に、意識だけは苦笑いした。

(私の方は……ダメっぽいけど)

 微かに残る意識が遠くへ吸い込まれてゆく。しかし……

(お願い、もう少しだけ……)

 必死にそれに縋り付いて最期の言葉を想う。

(お父さん、お母さん……私、小さい時から迷惑かけてばかりだったけど、でも……こいつを見捨てること、できなかったんだ。ダメな娘だったけど……許してね)

(桜……あんたは私よりずっとしっかりしてるから心配ないけど……いつまでも私のことを引きずらないで、ちゃんと前を向きなさいよ)

 そして……まだ辛うじてある首元の感覚から、ルビーの感触を感じる。

(稔……)

 ゆっくりと目を閉じた。

(私、できるなら……あんたが『最強』の金メダル、かける瞬間が見たかったな……)

 目の前にぼんやりと、金メダルをかけた稔が映り……徐々に薄くなってゆく。

 杏の目から涙が頬を伝い……意識は遠のき、快晴の青空の奥へと吸い込まれていった。


「稔、どうした?」

 道場での基本稽古を突然中断した稔に相手が聞いた。

「いや、何か、呼ばれたような気がしたから」

「え、誰も呼んでないぞ」

「そうか……」

 不思議に思いながらも、稽古を再開した。しかし、得体の知れない胸騒ぎ……数日前に感じたそれが、あの時よりはっきりと稔を襲い、言い様のない不安に駆られる。

 その時だった。

「大変だ! 春山の姉ちゃんが……」

 報せを聞いた門下生が青ざめ、動転して駆け込んだ。稔の体中を、冷たいものが通り抜ける……。


 杏が運び込まれた病院への道。稔と桜は、必死に走っていた。

(嘘だ! あんなに強くて、綺麗で、無敵の姉貴が、死んだりするはず……)

 道着姿のまま、汗だくの二人は病院の階段を駆け上がり、病室に駆け込んだ。

 そこには……白いベッドの上に寝かされた少女がいた。そして、その顔の上には白い布が被せられている。その前では見覚えのある……あの時会った、桜の母親が顔を手で覆っている……。

 信じられない……いや、信じたくなかった。

 でも、白い布を被せられた顔の下……首元にあるネックレス。それは、確かにあの、プレゼントしたネックレス……。

「お姉ちゃん! やだ、起きてよ。お姉ちゃん!」

 桜が青ざめて白い布を取り……体を揺すった。

 白い布の下の顔は、所々に痛々しい生傷がついていたが、それでも美しく、綺麗な杏で……いつものような生気や温もりは全く感じられず、作り物の『人形』のようだった。

「お姉ちゃん、やだよ! やだー!」

 杏に縋り付き、泣き叫んだ。


 稔は、磨りガラスごしに見ているかのようだった。

 その現実……杏が『いなく』なった、いや、すぐそこに『いる』のに、もう二度と会えない……そのあまりの現実味のなさ、そしてそれを認めたくない想いが、稔と家族との間に見えない磨りガラスを形作っていた。それは、テレビか何かの映像のようで……いや、できればそう思いたかった。

 しかし……桜の声や母親のすすり泣き、それらが徐々に磨りガラスを溶かしてゆき、生身の稔をその残酷過ぎる現実に暴露する。

(嫌だ、嘘だ。だって……俺、まだ、姉貴に気持ち伝えてなかったじゃんか。まだ、俺の気持ちを……)

 虚ろな足取りで歩んだ。ベッドの杏に近付くにつれて、稔の目から涙が溢れ出す。

「姉貴……嫌だ、起きてくれよ。姉貴……」

 杏の腕に触れた。しかし、それは人形……。稔の知る温もりはなく、硬い……。

「姉貴……」

 稔は杏に顔を押し付け、声も上げずに……ただ、ひたすらに目から溢れ出る涙を押し潰していた。


 病室に入る足音。院長先生が、曇った表情で段ボール箱を抱えていた。

「本当は、病院に入れてはいけないんだけどね。お嬢さんが……命懸けで守った、小さい命だから」

 段ボール箱の中では、茶色の小さな……本当に小さな仔犬が、片隅で震えていた。

(本当に強い奴は、どんなに小さな命でも命懸けで守るの)

 稔の中に、あの時の杏の言葉が木霊する。

(やっぱり、そうなんだ。姉貴は……姉貴は、最後まで、本当に強かったんだ……)

 稔の目から、涙が溢れて止まらなかった。


 翌日の通夜には、『剣信館』の皆が訪れた。道場で最大と言ってよいほど偉大で美しく、強かった女剣士の最期に涙を流さない者はいない。読経の間中、ずっと嗚咽とすすり泣きが響いていた。誰もが涙を堪えることのできないまま日が沈む。

 稔はかすれた声で桜の母親に尋ねた。

「あの……僕も今晩、お姉さんの側にいていいですか?」

「あなたは……」

 真っ赤な目の母親は、稔をまじまじと見つめて……そして、静かに微笑んだ。

「いいわよ。今晩、杏の側にいてやって」

 稔は桜の家族と一緒に、杏の棺桶の部屋に泊まった。


 みんな寝静まり……杏の死からずっと泣き続け疲れたのであろう桜も眠りについた時、稔は起き出した。薄明かりの中、棺桶の窓をそっと開けた。化粧で傷を隠され、長い睫毛の目を閉じて……人形になってしまった杏は、それでもやはり美しくて……稔は見つめ続ける。

「綺麗だよ、姉貴。本当に……」

(でも……ネックレスつけてくれた笑顔が見たかったな……)

 稔の目に、また涙が込み上げた。その時。

「稔くん……だよね?」

 振り向くと、母親がいた。

「あなたが、杏にネックレスくれたんだよね」

 稔の横にしゃがんだ。

「本当に、こんなに一途に想ってくれるコを置いて逝っちゃうなんて、何してるんだろうね」

 杏の面影を持つ母親は綺麗で、でも少しやつれていて……でもやはり、悲しいくらいに気丈だった。

「でもね。杏は小さい時、『死』を身近に感じていたから……だからこそ、きっと、小さい命を見捨てることができずに自分の命を投げ出してでも助けたかったんだと思うの」

「『死』が身近だった……?」

 母親は、頷いた。

「あなたが見てきた杏からは想像もつかないかも知れないけど……杏は小さい時、命が危なくなるほど喘息がひどくて入院してたの。いつ激しい喘息発作に襲われるかとびくびくして……発作が襲うたびに『死』が自分を連れ去ってしまうんじゃないかって……自分のことを弱くて小さい存在だと思って震えてた。丁度、小学三年生くらいの頃だったかな。体調が良くなって、強くなりたいって剣道始めて、『弱い奴を守りたい、だから誰よりも強くなりたいんだ』って、いつも言ってて。それまでの人生を取り返すくらいに必死で打ち込んで、本当に誰よりも強くなって……でも、杏の中にはいつでも『弱くて小さい自分』がいたから、『弱くて小さい命』が消えようとするのを、どうしても見捨てることができなかったのよね」

(知らなかった……。あの元気いっぱいで、誰よりも強くて綺麗な姉貴の中に『弱くて小さい姉貴』がいただなんて……そして、その『小さい姉貴』は『死』を身近に感じていただなんて)

 でも、稔は思い出した。あの日のこと。

(どんなに小さな命でも命懸けで守るの)

 杏の言葉が反芻する。

 母親は噛み締めるように、ゆっくり言った。

「短かったけど……本当に短かったけど、杏は杏なりに、命を燃やして、精一杯輝いていたのよね」

 稔は熱い涙を流した。

 稔の知っている杏……それはいつでも、元気いっぱいで、誰よりも強くて、眩いばかりに輝いていた。そして、その輝きは杏の中に『弱くて小さい自分』がいたから……だからこその輝きだったんだ。

「だから……あなたも、輝いて」

「僕も、輝く……?」

 母親は頷いた。

「稔くん……あなたと出会ってから、杏、ずっとあなたのことを話してた。『あいつはどんどん強くなる、私が最強の剣士に育てるんだ、絶対に全国優勝の金メダルをかけさせるんだ』って、桜にも、私にも。だから……」

 母親は、いつも杏がそうしていたように……真っ直ぐ稔を見つめた。

「これからも、剣道を続けて……杏よりも、誰よりも、強くなって。それが、杏の夢だったんだから」

 稔は瞳にじんわりと涙を浮かべ……しかし、奥に決意を秘めた瞳で頷いた。


 葬式では、稔は泣かなかった。

 杏は『いなく』なる……もう二度と会えないけれど、自分は杏の夢を背負ってるから……大好きな人の夢そのものだから、いつでも強くなければならないんだ。

 棺桶の杏の美しい顔の横にネックレスを贈って……ずっと、ずっと、この世で一番大切な人を見続けて……永遠に想い続けると誓ったのだった。


 葬式から帰った稔は、張り詰めていた力が抜けた。

 部屋のベッドでぐったりと横になった。数日のうちに色々ありすぎて……この世界で一番大切な人を失って、その悲しみにくれて、そして……より強くなると決意して。小学五年生の少年に対しては重すぎる出来事の連続で……もう何も考えることができずに、いつの間にか意識が遠のいていた。

 気がついた時には日が変わっており、もう昼過ぎだった。夢から覚めた稔は、また重く悲しい現実に引き戻されて体が重くなり、ベッドに横たわった。

 でも、何か忘れているような気がする。何だろう?

 ごちゃごちゃになっている頭を働かした。

(杏姉貴は死んだんだ。どうして……?

 小さな命を守ったから。小さな命……杏姉貴が命懸けで守った小さな命……。

 そうだ、仔犬だ。あの仔犬、一度、桜の家に預けられることになって、でも、桜の家はマンションで…………あの仔犬、どうなるんだ?)

 稔は突然気になって起き上がり、外へ出た。

 桜の家への道を急ぐ。川の土手、青々とした芝生の上を小走りで進んだ。その時、ふと向こうの川岸で段ボールを持った少女が佇んでいるのを見つけた。

 あれは……桜! そして、持っているあの段ボールは……。

 桜はそっと段ボールを川面に置き、流そうとした。

「桜、何してる!」

 稔は叫んだ。土手を下りて川岸へ、桜のもとへ走り、段ボールを拾いあげた。

(やっぱり……)

 段ボールの中では、茶色い仔犬がソワソワと動き回っている。

「こいつのせいよ」

 桜は真っ赤な目で段ボールを睨んだ。

「こいつのせいで、お姉ちゃんはいなくなった」

(こいつのせい……。確かにそうだ。

 こいつがいなかったら、杏姉貴が死ぬことはなかった。でも……)

 稔はゆっくりと桜の目を見つめた。

「なぁ、桜。そんなことして、姉貴が本当に喜ぶと思うか?」

 ぐっと下を向いた桜は、首を横に振った。

(どんなに小さな命でも命懸けで守るの)

 心の中に、杏の言葉が反芻する。稔はそっと目を瞑った。

「桜の姉貴はな、本当に強かった。どんなに小さい命でも、命を懸けて守った。だからな、俺達、強くならないといけないんだ。姉貴の分も、誰よりも。そうしたら……姉貴、絶対に喜んでくれるよ」

 開けた稔の目には涙が滲んでいたが……それでも、桜にしっかりと杏の遺志を伝えた。ぎゅっと目を瞑っている桜の顔の先の地面に、大粒の雨がポトポトと落ちた。


「なぁ、桜」

 川沿いを歩きながら、少し落ち着いた様子の桜に稔が言った。

「こいつ、俺が引き取るよ」

 段ボールの中を見た。さっきまで動き回っていた仔犬は、少し安心したのか片隅で丸まって眠っている。

「そんで、俺が立派に育てる。だって、姉貴が命懸けで守った命だもん」

 桜は黙って頷いた。

 それぞれの想いを胸に、二人はオレンジ色の夕陽の差す土手道を歩き続けた。しかし、稔はふと思い立って口を開く。

「そうだ、桜。俺達、これから戦わねぇ?」

「戦う?」

「そう。今から道場行って。何だか、無性に体動かしたい気分なんだ」

「え、でも……私、そういう気分じゃ……」

「いいから、いいから。行こうぜ!」

 半ば強引に道場へ向かった。


 道場の玄関の隅っこに置かれた段ボール箱の片隅では、仔犬がすやすやと眠っていた。しかし……

「ドゥアアァー!」

「ヤァァアー!」

 凄まじい気迫のぶつかり合いに飛び起き、そわそわと段ボールの中を歩き回った。

「メン、コテェ!」

「メンヤァアー!」

 道場の予備ではあったが、長い間着けてなかったようにも感じられた防具をつけた二人は、激しくぶつかり合う。

(やっぱり……)

 稔は微笑む。

(そういう気分じゃない、なんて言ってても、やっぱりお前も生粋の剣士……戦いたくて堪らなかったんじゃないかよ)

 瞬時に間合いを遠ざけて離れた。そこからの、桜の怒涛の連続技!

「コテ、メン、メントォ、ドォオー!」

 桜の華麗な『剣舞』。稔の『目』をもってしても、ついてゆくのがやっとだ。

(楽しい!)

 稔は思う。

 最初に試合をした時よりもさらに速さに磨きをかけ、さらに強く、鋭く……動きの全てが理に適っている。でも、理に適っているからこそ、稔には『読める』。しかし、『読まれる』ことを補っても余りあるほどに桜の『剣舞』は加速する……!

 辛うじて動きに付いていっていた稔は、隙をついて再度、間合いを遠ざけた。

 剣先をしっかりと桜の中心に向ける。体勢を立て直した桜も、すっと稔の中心を取る。

(そうだよな、桜)

 稔はニッと笑った。

(お前も、『尊敬し合う相手』との『真剣勝負』の時には、絶対に『面』のぶつかり合いで勝負するんだよな……)

 静寂が包む、緊迫した空気の中。『面』の奥から、互いの空気を感じ合う。

 その刹那!

 二人は飛ぶ。二本の竹刀は真っ直ぐに、そして同時に『面』を捉える!

『バクゥッ!』

『パァァーン!』

 『面打ち』の音も同時に響き渡る。互いに、真っ直ぐ残心を取った。

「……私の負けね」

 振り返った桜は『面』の奥で微笑む。

「そうだな」

 稔も爽やかな笑顔を浮かべた。

 完全に同時の『面』。恐らく、試合の審判も十人中九人は『相打ち』の判定をするだろう。

 それは、二人にしか分からない勝負……二人にしか分からない、僅かな『重さ』、僅かな『剣速』の差だったのだ。


「なぁ、桜」

 『面』を外した二人は、道場に寝転んでいた。

「ん?」

「やっぱ俺達ってさぁ。何があっても、剣道やめられねぇよな。だって、こんなに楽しいんだもん。姉貴が……真剣に相手とぶつかり合うことの楽しさを教えてくれたんだもん」

「うん」

 桜は目を閉じて頷いた。瞼の奥には、さっきとは違う温かい涙がじんわりと浮かんでいる。

 稔はゆっくりと体を起こした。

「俺さ。絶対に秋の大会、優勝する。そんで……姉貴に、俺の気持ちを伝える。だって……姉貴と、そう約束したんだから」

 桜は心の奥から熱い気持ちが込み上げて、何も答えられなかった。ただ、閉じた目から一筋の涙が頬を伝う。

(稔……ありがとう)

 何も言わない桜の胸を熱くするその想いは、稔の胸の奥にも確かに伝わった。

 もう薄暗くなっていた道場には、ぼんやりと満月の白い明かりが射し込んでいた。

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