~第六章 あなたを見てる~

 校庭では桜がヒラヒラと舞い、春の陽の暖かさの染み渡るその日。いつもの会場校で、春季中学剣道大会が開催された。

 立明中学の男子剣道部は準決勝まで進んだ。

 準決勝の相手は成光中学……元々、山口 稔のいた学校。稔が引退した今でも、相変わらず強豪校だ。

「メン、コテメントォオー!」

 終始攻める相手に、立明中学の先鋒は苦戦している。常に間合いは遠く取り……攻め続ける相手を躱し続けた。

 立明のそんな剣道に、会場はざわつき始めた。

「おい……」

「立明中学の剣道ってこんなんだったか?」

 そこかしこから上がる疑問の声……そんな異様な空気の中、先鋒は引き分けた。次鋒の加川に襷は繋がれる。

「お前も引き分けを狙え」

 土井がそっとその言葉を耳打ちした。しかし、加川は首を横に振って、凛とした目で彼を見据えた。

「引き分けになることもあるかも知れないけど、俺は『自分の剣道』で闘う。土井……お前の指図は受けないよ」

「え、いや、お前。自分の剣道って……」

 土井から投げかけられる言葉を無視して、加川は自分のチームの大将として座る楓と目を合わせた。楓がグッと拳を突き上げると、加川も微笑み『小手』を被せた拳をグッと握る。

(楓キャプテン。俺……このチームを『守って』みせます!)

 その想いを胸に目の前の相手……成光中学の次鋒、木下と向かい合って蹲踞した。

「はじめ!」

「ヤァァアー!」

 木下は真っ直ぐに加川に向かって気迫を発した。終始前に攻める……それが、成光中学剣道部の方針なのだ。

 そのことは、加川もよく知っていた。だからこそ、自分はチームを守らなければいけない……絶対に!

「メェェーン!」

 木下の初太刀の『飛び込み面』……それを加川は冷静に捌いて右に移動し、剣先をすっと木下の喉元につける。

「クッ……メントォオー!」

 木下は体勢を立て直して加川に再度『面』を放つ。しかし、加川はそれも捌いて左に移動し、剣先を木下の中心に向ける。


 木下は終始前に攻めている……はずだった。誰が見ても、前に出て攻撃していたのは木下だった。

 しかし、試合時間が経過するにつれ……自分の打ちを躱しながらも気持ちを切らさずにすっと剣先を中心に向けてくる加川に押されていった。

(クソッ……何なんだ、こいつは!)

 気が付いた時には、木下は場外すれすれ……一歩も後ろに下がれない場所にまで追い詰められていた。しかし、加川はまるで迫り来る壁のように微動だにせずに剣先を自分の中心に向けている。

(クソッ……)

「メェェ……」

 木下が苦し紛れに『面』を打とうとした、その瞬間!

「メントォオー!」

「パァァーン!」

 加川の竹刀が木下の『面』を捉えた。

「面あり!」

 見事な『面』……それを決めた瞬間に竹刀を握る手から全身に流れ込む『痺れ』は、加川に自らの『初勝利』を痛いくらいに実感させた。


 そしてそれは、今では観客席で観ていた桜をも驚愕させた。

「嘘……加川くん、あんな剣道するんだ」 

 桜が知る……中学現役時代に対峙した加川はいつも勝負せずに逃げ回ってばかり。引き分けを狙うそれは『剣道』とは言えないものだった。

 それが、今ではあんなに堂々と『面』を決めたのだ。

(でも、これが……)

 桜はグッと手の平を握り締める。

(今の加川くん……いいえ、立明中学の次鋒!)

 自分が楓に託した『守る』剣道。

 いつでも、大切な人への想い……そして、自分を大切にする気持ちを忘れない。それが、楓を通じてさらに後輩に引き継がれたことを、桜は再確認したのだった。


 その後の次鋒戦は、木下が焦って取り返そうと打ち込むも、加川が冷静に対処して捌き……二本目が今にも決まりそうになったところで試合が終了した。加川は一本勝ちで、対外試合初勝利を飾ったのだ。

 加川の勝利……それは、立明中学男子部にとって嬉しいもののはずだった。だが、土井は内心で舌打ちをした。

(クソッ……どうして、俺の言う通りに動かないんだ)

 それは、部員を自分のコントロール下に置けないことへの苛立ちだった。そして、楓に向かってガッツポーズをする加川を見て、土井はさらに苛立ったのだった。


 しかし、すぐに中堅戦……土井自身の試合が始まる。だから彼はすぐに気を取り直し、目の前の相手……美波と向かい合って蹲踞をした。

 対峙するその相手をじっと見据える土井の目の端には、祈るように試合を見守る加奈の姿が映った。

(加奈先輩……見てて下さい。俺、絶対に『自分の剣道』で勝ってみせます)

 土井はすっと目を瞑った。

「はじめ!」

「ヤァァアー!」

「シャァァー!」

 試合開始……両者は最大の気迫を発した。

 美波は三年連続で成光中学のレギュラーとして戦っている選手……経験も実力もある。剣道に対する姿勢も真剣そのもので、引退した稔も後輩として一目置いていた。

 稔も遅れてであるが観客席……桜の横に座り、固唾を飲んでその試合を見守った。

 両者、ジリジリと剣先の触れ合う間合いで攻め合う。次の瞬間!

「メントォオー!」

「コテェ!」

 美波の『面』に対し、土井は『小手』で合わせた。

 審判のうちの一人は美波の旗、一人は土井の旗を上げたが、もう一人は下で旗を交差させる。相打ち……。

「惜しい……」

 立明中学側からも成光中学側からも、その声が漏れた。

(だが……)

 その試合を見守る稔は、ニッと口角を上げた。

(美波の奴、結構いい動きしてる)


 お互いに残心をとり……振り返り様に両者、力の限り踏み込む!

「メェェーン!」

「メントォオー!」

 即座に放たれた『合い面』は、完全に同時にお互いの『面』を捉えた。審判は全員、『相打ち』の判定だ。

(楽しい……!)

 土井も、対峙する美波もそう感じた。

 去年の秋の大会でも対戦した二人……その時も互角の勝負を繰り広げたが、今ではその時よりさらに、相手の成長も自身の成長も肌で感じられた。土井は束の間、『勝たなければならない』という気負いを忘れ、目の前の相手との勝負を全身で楽しんだ。


「メェェーン!」

「コテェ!」

 試合も中盤に差し掛かり、両者の戦いはより熱を帯びた。それは完全に拮抗し、そのまま引き分けで幕を閉じるかに思えた。

 だが……

「やめ!」

 急遽、試合は中断……土井の旗が斜め下に下ろされた。

「反則、一回!」

「えっ……」

 土井はその瞬間、自らの足元を見た。試合に熱中するあまり、左足が場外についてしまったのだ。

 剣道の試合では、場外に出る、竹刀を落とすなどの行為があると、『反則』を取られる。『反則』は一回では試合結果に何ら影響を及ぼさないが、二回認定されてしまうと相手に一本取られてしまう。

(しまった……!)

 そのことが、突如、彼を現実の空間に引き戻してしまった。

 自分はこの試合、何が何でも勝たないといけない。しかし、まだ一本も取っていない……それどころか、反則を取られてしまった。土井の内心は焦りに包まれた。

「はじめ!」

「ドゥァアー!」

 試合が再開されると同時に、土井はありったけの気迫を発した。


 しかし、観客席の加奈の顔は引き攣った。

(ダメ!)

 自らの試合経験から、彼の危機を察する。

(そんな不用意に出てしまったら……)

「メェェー……」

「コテェ!」

『パコォ!』

 その瞬間。会場に響いたのは、美波の竹刀が土井の『小手』を打つ音だった。

「小手あり!」

 主審のその声とともに、三人の審判全員が美波の旗を上げた。


(なっ……)

 土井は茫然とした。

 自分は絶対に勝たなければいけない……加奈も見ている試合だった。それが、楓以外の相手に一本取られた……。

 背筋には冷や汗が流れて、頭はまるで鈍器で殴られたような衝撃を受け、真っ白になってゆく……その時だった。試合を観戦する立明中学側から、しっかりと鋭い……しかし、まるで彼を包み込むかのように温かく優しいその声が放たれた。

「土井くん、落ち着いて!」

 その声に土井は我に返り、観客席を見た。

「あなた、私と約束したでしょ! 勝たなくてもいいから……あなたは『あなたの剣道』をやりなさい」

(加奈……先輩)

 そう。周りの目も気にせずに、声を張り上げていたのは加奈だった。

 真っ白になりそうだった自分を、必死に落ち着かせようとしてくれている……そんな彼女の姿に、土井の胸は熱い想いで溢れそうになった。


 そしてその必死で声を上げる彼女の姿は、観客席の桜を驚かせた。

(あいつ……)

 加奈にもこんな一面があったんだ。ここまで熱くなった彼女は見たことがなかった。しかし……

(そっか。あいつも……)

 きっと、あいつの大切な人って……。加奈の行動の真意に気付いた桜の頬は、緩んだ。


「二本目!」

 中堅戦が再開された。

「メェェーン!」

「メントォオー!」

 気迫を充実させた両者の『面』は一片の迷いも一瞬のズレもなく、全く同時にお互いの『面』を捉えた。

 土井の心には、もう焦りはなかった。

 勝てなくても……負けてもいい。ただひたすらに自分の剣道を貫いた。そして……

『ドクン……』

 その試合を見る加奈の胸では、熱くて高い鼓動が鳴ったのだった。


『リーン……』

「やめ!」

 ベルが鳴り、試合が終了した。

「勝負あり!」

 上がったのは美波の旗だった。

 負けた……しかし、全力で『自分の剣道』を貫いた。そんな清々しさを土井は感じていた。

 試合終了の蹲踞を終えて部員達の元へ戻る。そんな土井の肩を、大きくて温かいその手がポンと叩いた。

「土井、よくやった! いい試合だったぞ!」

 楓がニッと白い歯を見せた。

「でも……俺、負けてしまいましたよ」

 全力で戦った清々しさの中にも、心に引っ掛かる後ろめたさを土井は吐き出す。しかし、楓は口角を上げ、爽やかな笑顔を浮かべた。

「そんなの、気にすんなって。絶対に僕が取り返してやるから」

 すっと相手校を見据える楓は、試合開始前の真剣な表情に戻った。


 その頼もしさ溢れる楓の振る舞いに、土井の鼓動も鳴った。

(悔しいけど……)

 土井はグッと右拳を握りしめた。

(この人になら……いや、この人だからこそ、俺達のチームを託せる)

 立明中学側……自分の場所に座り、団体決勝戦副将戦を見守る。副将戦は引き分けで大将戦……楓の試合に、チームの勝敗が委ねられた。

 大将戦開始前の互いの蹲踞……その緊張の中、主審が鋭い声を放つ。

「はじめ!」

「ヤァァアー!」

「ドゥリャアァー!」

 開始の声とほぼ同時に、相手校大将の気迫を楓の最大の気迫が飲み込んだ。その圧倒的な気迫に相手がたじろいだ……その刹那! 

「メェェエーン!」

『ダァァーン!』

 凄まじい踏み込み音とともに楓の『飛び込み面』が決まった。

「すごい……」

 立明中学側からも、観客席からも、その声が漏れる。


「二本目!」

「ヤァー、メェェーン!」

 焦った相手は試合再開直後、速攻で『面』を打った。しかし、楓は相手のそんな心の動きはお見通し……冷静に右に捌いた。

 そして……

「メントォオー!」

『ダァァーン!』

 またしても、凄まじい踏み込み音とともに楓の『面』二本目が決まった。

「勝負あり!」

 それは、圧巻……試合開始から十秒もしない間での二本勝ち。大将戦で、楓はまさに相手を『瞬殺』した。この試合の結果、立明中学男子部は決勝進出を決めたのだった。


 観客席の稔は上機嫌に白い歯を見せた。

「おい……楓くん、やっぱりさらに強くなってるよな」

 すると、桜もにっこりと悪戯っぽく微笑んだ。

「ええ、そうね」

「こりゃあ、楓くんが高校剣道にきてくれる……来年が楽しみだなぁ」

 稔は目を細めて試合終了の蹲踞をする楓を見つめていた。



「加奈先輩……すみません。負けてしまいました」

 準決勝後の束の間の小休止……桜舞い散る体育館裏の校庭で、土井は俯いた。しかし、加奈は目を細めてゆっくりと首を横に振った。

「いいえ、土井くん。すごくいい試合だったわ。あなた……試合場で輝いていたし、今も。すごくいい顔してる」

「いえ……輝いていたのは、楓先輩ですよ」

「いいえ……」

 加奈は目を瞑り、また首を横に振った。

「あの試合は……あなたが一際輝いていたから、楓もより一層輝いた。そう……あなたが『自分の剣道』を貫いていたから」

 加奈は真っ直ぐに土井を見つめた。

「あなたは私と『同じ』なの。圧倒的な才能を持つ奴を見て、自分はそいつには敵わないと思い込んでいる。でも、あなたの剣道は……観ている者、一緒に戦う人を奮い立たせる。そう……それも、あなたにしかない、かけがえのない『才能』よ」

「俺にしかない、才能……」

 反復する土井に、加奈はにっこりと微笑んだ。

「私も、負けないように頑張るから。次の個人戦も……団体戦決勝も。あなたは『あなたの剣道』をやりなさい。私……『あなたを』見てるから!」


 そう言うと、加奈は頬を薄っすらと桃色に染めて立ち去った。

「俺を、見てくれる……」

 それは、彼が何よりも待っていた言葉だった。そう……加奈先輩は楓ではなく、俺のことを見てくれる。

 土井は自分の掌を見つめた。そして……

(俺は……『俺の剣道』を貫く!)

 瞳に燃やす決意の炎とともに、その掌をギュッと握りしめたのだった。

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