~第五章 あなたの剣道で~
校庭の桜は満開に咲き、桃色の花弁をヒラヒラと舞わせている。季節は春……四月になって新入生も入り、剣道部の春の大会も一週間後に迫っていた。
「ヤァァアー!」
「シャアァァー!」
土井と加川との練習試合。体操服姿の仮入部員も共に見る。
「メェェーン!」
土井の鋭い打ちが加川を襲う。
しかし、加川は腰を使って体ごと右に躱し、土井の打ちを難なく躱した。その体勢は微塵も崩れずに、竹刀は土井の中心をすっと取っている。
「クッ……」
「メェェーン!」
『面打ち』を躱されて体勢の崩れた土井の隙を突いて、加川は打ち込んだ。土井は間一髪、ギリギリで躱す……。
(よし……)
試合を見る楓はニッと右口角を上げた。
(そうだ、加川。常に構えと……気持ちを崩すな。お前は以前と比べて格段に強くなっている……!)
あれから毎日のように自分に稽古を申し込み、メキメキと頭角を現した加川への期待に楓は胸を躍らせていた。
しかし……
「チッ……」
試合を見る加奈は、不機嫌そうに眉を顰めて舌打ちをした。
「ったく、何やってるのよ、土井……」
*
「あなた、何やってんの? あんな奴に手こずって勝てないようじゃ、楓なんか超えられるワケないじゃない」
稽古後。イラついた様子の加奈は、誰もいない食堂裏に土井を呼び出して睨みつけた。
「でも……あいつ、何だか前と違うんだ。タイプは全く違うはずなのに、あの剣道……楓キャプテンみたいで」
「はぁ……意味分かんないし。加川は加川。あんなヘナチョコが楓みたいな剣道なワケないでしょ」
加奈はさらにイラついた様子で両手を腰に当てた。
「いや、でも……」
「それに……あなた、楓に勝つって私と約束したわよね? あんなのに手こずっているようじゃ、一生無理よ」
「そんな……俺、絶対勝ちます。そしたら、キャプテン。俺のことを見て……」
「は、何?」
加奈が腕を組み眉を顰めると、土井は俯いた。
「いえ……俺、絶対に勝ちますから」
土井は手の平をギュッと握りしめ、搾り出すように言葉を出した。
*
こちらは、桜が入学した青林高校の剣道場。新入生を含めた稽古が始まった。
「切り返し、はじめ!」
「ヤァァアー!」
中段の構えから左足を一歩前に踏み出し……桜は『左諸手上段』の構えを取る。その視線の先の相手……それは、彼女の幼馴染にして最大のライバル、山口 稔だった。
(桜……待ってたぞ)
稔は『面』の奥でニッと白い歯を見せる。
(『上段』のお前と対峙できるこの日を……)
「メェェーン!」
『バクゥ!』
かつての杏の『豪剣』にも引けを取らない、凄まじい威力の『片手面』が稔の『面』を捉えた。
*
高校での初稽古後。
穏やかな陽の射す校庭の階段に、道着姿の桜と稔は腰を掛けていた。
「桜! 『上段』、様になってんじゃんかよ」
上機嫌の稔は爽やかに桜に話し掛けた。
「まぁね。でも……まだまだ、これからよ」
「まだまだ……か」
稔は白い歯を見せる。
「なぁ、桜。お前が『上段』始めたのってさぁ……」
青く澄み渡る空を見上げた。
「やっぱり、姉貴が『上段』やりたがってたから?」
稔がニッと目を細めて顔を向けると、桜も目を細めて小さく頷いた。
「お姉ちゃん、高校になったら『上段』やるって……あの構えに憧れて、稽古終わり、いつも鏡と向かい合ってたもんね」
「そうか、そうだよな……」
稔はまた、果てしなく広がる空を眺めた。
青々と澄む空はまるで心を包み込み、その奥へ吸い込んでいくようで、二人は暫し見惚れていた。
「そうだ、そう言えば……」
稔は悪戯っぽく笑顔を浮かべて桜を見た。
「桜。お前……彼氏できたろ?」
「なっ……違うわよ。あいつはそんなんじゃない」
桜は途端に真っ赤になった。そんな桜に稔は思わず吹き出す。
「隠さなくても分かるよ。だって今のお前の剣道……モヤモヤしてたのが吹っ切れたような気持ちのいい剣道だもん」
「だから、違うって。あいつはそんなんじゃなくて、これからもずっと稽古の相手するって約束しただけで……」
「あ、楓くんとそんな約束したんだ。そりゃあ、桜じゃそれで精一杯だろうな」
「違う!」
「え、違うって、もしかしてそれ以上進んだ?」
「いや、だから……」
新入生として入った稽古初日から、稔と桜の関係は昔と変わらずで……側から見ると楽しそうにじゃれ合っていた。
*
「そういや、今週の土曜……だよな?」
夕焼けがオレンジ色に染める帰路。稔は思い出したように口を開いた。
「今週の土曜?」
「ああ。中学の春の剣道大会」
「そうね……」
桜はやや緊張した面持ちになって前を向いた。そんな桜を見て、稔はクスッと笑う。
「行くだろ?」
「えぇ。今の立明中学剣道部がどこまで通用するか……少し気になるからね」
「いや、お前が気にしてるのは楓くんの成長だけだろ?」
「いや、だから。そんなこと……」
夕陽で赤く照らされた桜が睨むと、稔はまた悪戯っぽく笑った。桜は下を向く。
「まぁ、少しはある……けど」
「お、お前も少しは素直になったじゃん」
稔がからかうと、桜は頬を膨らます。
彼はしかし、顔を空に向けて、真剣な表情で夕焼けを睨んだ。
「まぁ、楓くんのことだからさらに強くはなっていると思うけど……どれだけチームのみんなを引っ張ることができているか、だよな。キャプテンとしての重圧……お前も知ってるだろ?」
「えぇ、そうね」
桜は去年……秋の大会での加奈との確執を思い出して、胸の前でギュッと両手を握った。その仕草を見た稔は、ニッと口角を上げた。
「それに、中学の試合場では俺は成光中学卒業生、お前は立明中学卒業生……試合の相手だから。どちらが勝つか……どちらが良い後輩を育てたか。勝負だからな」
「えぇ。望むところよ! 立明中学は絶対に負けないからね」
片目を瞑る稔に、桜もにっこりと微笑んだ。
*
春の大会まで三日となった。
立明中学剣道部の緊張感は最高潮に達している。
体操服姿の新入部員の姿もちらほらと認められるようになった中、楓と土井の練習試合が始まった。男子個人戦では、この二人が出場する。
「ヤァァアー!」
「ドゥリャアァー!」
両者向かい合い発する気迫……新入生達は、その中でも楓の気迫の込もった掛け声を耳にする度に体の奥底から身震いをした。
そして、土井も……。
(クソッ! 何だ、こいつは……)
目の前に立つ相手……それは、まるで天に向かってそびえ立つ塔のように高く見えた。気迫を充実させた楓は今までとは比べ物にならないくらい大きく感じて、思わず身がすくんだ。
その瞬間!
土井の脳天に竹刀……いや、光り輝く『剣』が振り下ろされる!
「メンヤァアー!」
『バクゥッ!』
「面あり!」
(ウソだ!)
土井の顔面からサァッと血の気が引いた。
楓がどれだけ強くとも、今までは反応できた……瞬殺されたことなんて、これまでなかった。それが、この試合では全く反応できなかった。
(クソッ……!)
「二本目!」
「メン、メェン!」
再開直後、土井は『面』の二連打を放った。しっかりと中心を取り気迫も込められた二連打……しかし、楓の体はゆらりと腰ごと右にずれた。
(何……!?)
「メントォー!」
「クッ……!」
楓の右への『開き足』……それを経て、右から自らの中心を取って振り下ろされる『面』を土井は紙一重で避ける。
(何故……!?)
それは土井の予想だにしていなかった動きだった。
それまでの楓は常に真っ直ぐ……前へ突進する剣道だった。しかし今、土井の目の前に立ちはだかる楓は横の動きも加わり、それに伴って技のバリエーションも多様に……さらにはそれぞれのクオリティも高く、洗練されたものになっていたのだった。
(楓キャプテンは……!)
土井は歯軋りをする。
(一体、どこまで強くなるんだ!?)
楓と土井のその試合は、観戦する加奈の心も激しく動揺させた。
(どうして……)
常に真っ直ぐ……それは楓の最大の武器であるとともに、最大の弱点でもあった。
自分や土井が楓に勝てるとしたら、彼が真っ直ぐに捨て身できた時……その行動を起こす瞬間につけ込むしかない。そう思っていた。
しかし……
(もう、私……どうやっても勝てないじゃない)
『開き足』を覚えて試合場で真っ直ぐ……時に舞うような動きをする楓と、そんな彼に必死で食い下がるもただただ翻弄される土井。試合場の二人は、加奈の脳内で『ある二人』に重なった。
(この試合はまるで……)
加奈の瞳がじわっと潤んだ。
(桜先輩と……私の試合だ)
その時だった。
「メェェーン!」
『バコォ!』
二本目……楓の鮮やかな『飛び込み面』が決まったのだった。
*
「土井……ごめん。私、見誤っていた」
食堂裏。瞳に涙を浮かべて項垂れる土井に、加奈は謝った。
「まさか、あいつ……楓がここにきて、あんなに強くなるなんて。勝ってだなんて……あなたを追い詰めるようなこと言って、ごめんなさい」
その言葉に土井は顔を上げ……涙の滲む目尻を下げた。
「謝らないで下さい。俺が……弱いだけなんで」
「違うの!」
加奈の瞳にも涙が滲む。
「あなたは弱くなんかない。加川のことも……あなたが言う通り、本当に急成長したって分かってた。ただ、私の我儘で……あなたがあいつに勝ってくれたら、剣道バカのあいつも私に振り向いてくれるかも。そう思って、あなたをダシに使ったの」
加奈の眉は哀しげに下がり……その頬には涙が伝った。
「それで、あなたを苦しめてしまった。私が最低なのよ」
「そんな……違います。波間キャプテンは最低なんかじゃ……」
自分の言葉に慌てる土井を見て、加奈の心は幾分軽くなり……涙を拭って柔らかく微笑んだ。
「ねぇ、土井くん。あなた……私と同じなの。圧倒的な才能を持ってる奴を前に苦しんで、苦しみ抜いて、それでも勝てなくて。だから……」
少し苦しげな表情の加奈はしかし、真っ直ぐに土井を見つめた。
「あなたは、私のように後悔するような勝ち方……後悔する試合だけはしないで。絶対に勝てとはもう言わない。だから……あなたはあなたの剣道で勝負して」
加奈のその言葉は安堵とともに土井の心に染み渡った。土井はすっと目を瞑る。
「はい、勿論。だから……加奈先輩」
初めて加奈を名前で呼んだ土井は、彼女をじっと見つめた。
「楓先輩じゃなくて、ちゃんと俺のことを見て下さい」
「えっ、それってどういう……」
そこまで言った加奈は……朧げながら土井の言葉の意味を理解し、見る見る赤くなった。
「土井くん。あなた、まさか……」
土井も赤くなって頷く。
「俺、加奈先輩のために……加奈先輩に振り向いて欲しくて、楓先輩に勝とうと今までの何倍も頑張って。でも、頑張れば頑張るほどに、あの人が手の届かないほど、途轍もなく強いんだって分かって……。でも、だからこそ、加奈先輩がちゃんと俺を見てくれたら、俺……今よりもずっと、どこまでも強くなれる気がするんです。だから……」
「いや、ちょっと……どうして」
加奈は土井の突然の告白に混乱した。
そんなはずがない、自分が人から愛されるなんて……つい、そんな想いが頭に浮かぶ。
「あなた、そんなの、一時の気の迷いよ。ほら、あの時……バレンタインの日。つい、チョコを渡してしまったから勘違いしちゃったんでしょ? あれ……実はあなたではなく、元々楓に……」
「分かってましたよ、そのくらい」
土井は赤くなった顔を上げて加奈と目を合わす。
「チョコが俺に向けたものじゃないってことくらい。でも、それから俺……加奈先輩のことが気になり出して。その……剣道に対する真剣な姿勢とか、楓先輩への直向きさとか、見ていたらいつの間にか、胸がとても苦しくて。気付いたら俺、あなたのことが……」
加奈は驚いた……いや、信じられなかった。真面目で不器用な彼女は今まで男子から想われたことがなく、勿論告白もされたことはない……しかし、目の前のこの後輩はこんなにも真っ直ぐに自分を想ってくれているのだ。戸惑いの中に微かに嬉しさの入り混じった、複雑な感覚に襲われた。
「だから……俺、絶対に『自分の剣道』で勝ってみせるから。加奈先輩……楓先輩でなく、俺のことを見てて下さい」
その瞳に決意の炎を燃やして踵を返す後輩を、込み上げる想いで何も考えられない加奈はただただ見送っていた。
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