~第四章 守る剣道~
三月に入り、春の大会に出場する主力メンバーは大体決定した。男子部では土井が中堅、楓が大将を務める。
しかし、同じ大会に出るチームの中……僅かずつではあるが、確執が生じ始めていた。
今日の試合は、楓と加川の対戦。加川は団体戦の次鋒だ。
「ヤァァアー!」
加川が男子にしてはやや高い声で掛け声を出す。
「ドゥラァアー!」
楓がその気迫を飲み込む……!
「メェェーン!」
『ダァァーン!』
凄まじい踏み込み音とともに加川に放たれる、楓の『飛び込み面』……しかし、加川は両手を上げて、竹刀で防御する。
「ラァアー!」
『バァアーン!』
凄まじい衝突音とともに、楓は加川に体当たりした。力負けした加川はよろめく。
「メェェーン!」
体勢の崩れを見逃さない楓の『面』……しかし、加川は瞬時に足の位置を立て直し、後ろに下がる。
「クッ……」
楓の『面』は空振り、宙を斬る。加川は竹刀で楓の中心を取り、構えを立て直した。
(そうだ、加川)
試合を見る土井は、口元に歪な笑みを浮かべた。
(お前は試合で勝てる選手じゃない。だから、打って出る必要はない。引き分け……引き分けを狙うんだ)
土井は右手でグッと竹刀を握る。
(団体戦では俺とキャプテンが勝てば……他は全員引き分けでも勝ちなんだ)
「メンメェン、コテ、メェェーン!」
間合いを遠く取って逃げる加川を、楓の容赦ない攻撃が襲う。そして、体当たりで飛ばされた加川が体勢を崩し、反応が遅れた瞬間!
「メェェーン!」
「面あり!」
構えが崩れた加川への、楓の『飛び込み面』が決まった。しかし、時間すれすれ……その後、すぐに試合終了のベルが鳴った。
*
「加川! 何だ、あの試合は!」
試合後。
楓が珍しく苛ついた様子で眉間に皺を寄せた。
「何って? 勝てない相手だから、引き分けに持ち込もうとしただけです」
加川はあっけらかんと答える。
「引き分けに持ち込もうって……」
「だって、そうでしょう? 団体戦での僕達の役割は、引き分けに持ち込むこと。先鋒、次鋒、副将が引き分ければ、土井と楓キャプテンが勝ってくれるんだから」
「お前……それ、本気で言ってるのか?」
「はい」
加川が悪びれる様子もなく答えると、楓は悲しげに眉をグッと下げた。
「お前は……それで、楽しいのか?」
「楽しいも何も、チームを勝利に導くために『守る』のが僕の役割です。打って出て負けて戻るより、引き分けに持ち込んだ方がずっと団体戦のチームのためになるんだから」
飄々と答える加川を、楓は目尻を上げてグッと睨んだ。しかし……深く溜息を吐いて目を瞑った。
「分かった……。お前がそういう気持ちなら、僕からはもう、何も言うことはない」
諦めた楓は寂しそうに加川のもとを離れた。その様子を見ていた土井は、ニッと歪んだ口元から歯を覗かせる。そして、加川に歩み寄り肩にポンと手を置いた。
「おぅ、加川。その通りだ。俺と楓キャプテン以外は引き分けを狙え。無理に打って出る必要はない。それが、俺の……いや、これからの立明中学男子部のやり方なんだ」
そして、楓の方に一瞥をくれた。
「楓キャプテンの信念だか何だか知らないけど。チームが一丸となって勝つ……皆が本気で相手とぶつかり合って、力を合わせて勝つなんて、もう古いんだよ。それぞれの部員の特性を活かさなきゃ」
含み笑う土井はしかし、心の中では後ろめたさも抱えていた。
(波間キャプテン、見ていて下さい。これで……俺のやり方で、絶対に勝利を手にしますから)
土井は後ろめたさを払拭するように、加奈への想いに縋っていたのだった。
*
『剣信館』の鏡の前で、桜は『左諸手上段』の構えをする。その手に握っているのは、絢爛と光る日本刀……楓は道場の扉を開き門をくぐった瞬間、ただならぬ緊張感に凍りついた。
「扉を閉めなさい」
楓が入ってきた物音を聞いても構えを微塵も崩さず、桜は凛とした声を放った。その言葉に従い扉をそっと閉めた楓は、鏡の前の桜の構えに釘付けになった。
(すごい……!)
桜を映す鏡を見ただけで、体中の血がまるで沸騰しているかのように楓の全身を熱くした。
桜の左諸手上段……それは微塵の隙もないことは勿論のこと、凄まじいほどに圧倒的な気迫を秘めていた。
実際の桜の身長は楓よりも若干低いはずなのだが、楓の瞳には鏡の中の彼女が恐ろしく大きく……その剣先は、まるで雲にも届かんとするほどに高くにあるように感じた。振りかぶる日本刀は道場の中の僅かな光を反射して煌めき、楓の意識を吸い込む。
その刹那!
『スパッ!』
桜の剣が宙を斬った瞬間……楓の意識も真っ二つになった。
行動の『起こり』が全く分からなかった。きっと……真剣を持って対峙する『本当の』勝負として彼女と向かい合っていたら、その瞬間に楓自身も真っ二つになっていただろう。
楓は体の奥底からゾクっと身震いをした。
*
「上段の構え……始めるんですか?」
真剣を鞘に納める桜に楓は尋ねた。
「ええ。高校からは……上段の構えをとるわ」
「先輩の上段……本当に凄かったです。鏡に映った先輩を見ていただけなのに。僕、本当に斬られたかと……」
小刻みに震える楓を見て、桜はフッと白い歯を見せた。
「ねぇ、楓。私と手合わせしない?」
「えっ?」
「上段の構えで、あんたと戦ってみたいの。嫌?」
「い、いえ! 喜んで! 僕も先輩の上段と戦ってみたいです」
楓は震えながらも笑顔を浮かべ、稽古の準備を始めた。
「ヤァァアー!」
「シャアァァー!」
楓は対上段の構え……両手を上げている桜の左小手に剣先を向ける。
(すごい! これが、上段……)
楓は上段の構えをとる相手と対峙するのは初めてだった。鏡に映った桜も大きく感じたが、実際に対峙するとさらに大きく……自分の手の届かないほどに高く感じる。
楓は微塵の隙もない構えをとっているつもりだったのだが……桜の手に握られているのは絢爛と輝く日本刀のように錯覚し、何処からでも斬りかかられそうな感覚に陥る。
その瞬間!
桜の握るその刀は、自らの脳天に向かって一直線に下ろされた。
(殺られる……!)
楓の脳天から冷たいものが全身に流れこむ。
初めて感じる『死』の恐怖……それは、楓を本能的にその刀から逃れさせた。無意識のうちに腰から体を右に移動させて体の正面を桜に向け、『右への開き足』を取ったのだ。
『ダガーン!』
空ぶった桜の竹刀はそのまま道場の床に叩きつけられた。
「……どうしたの? 今の私、隙だらけよ?」
クールな眼差しとともに凛とした声をかけられた楓はしかし、中段の構えのまま全身を小刻みに震わせ……微動だにすることができなかった。
*
「先輩……やっぱりすごいです。始めたばかりなのに、いや……これから始めるところなのに、もう『左諸手上段』を使いこなしているだなんて」
『面』を外す楓は、体の震えが止まらない。そんな楓に桜は呆れた目を向けた。
「使いこなして? あんなの外した……いや、あんた、躱したでしょ。それで私が上段を使いこなせてるなんて言わないわよ」
「でも……本当に怖かった。先輩の中段の構えも凄いけど、上段の先輩のあの気迫には、本当に斬られる……『死ぬ』と思いました」
「でも、あんた……『死ななかった』でしょ」
桜は柔らかく目を細めた。
「『死ななかった』けど……逃げてしまいました。折角、先輩が稽古をつけてくれたのに……」
俯く楓に桜はフワリと柔らかく微笑んで首を横に振った。
「あれは、逃げたんじゃないわ。自分の命を『守った』のよ」
「守った……」
「ええ。あんたは私の上段からの『打ち』を躱して、無意識にかも知れないけど構えを崩さずに私の中心を取っていた。あれは逃げたとは言わない……躱して次の攻撃に繋げようとしたのよ」
そう言う桜は「まぁ、躱しても足がすくむようじゃまだまだだけどね」と悪戯っぽく笑った。そんな桜を見る楓は、眉毛をギュッと下げる。
「でも……打ちを躱してその隙を狙うだなんて、僕の信念に反します。いつでも真っ直ぐ。それが僕の信念なのに……」
「自惚れないで!」
煮え切らない楓を、桜はキッと睨んだ。
「決める時は真っ直ぐ……それは確かに、あんたの最大の武器ね。でも、それだけじゃ、絶対に限界がくる。だって、あんたより速くて強い奴なんて、この世界には星の数ほどいるんだから」
「それはそうですけど……」
「だから」
桜はニッと目を細めた。
「あんたはそろそろ、『守る』剣道を覚えなさい。そうしたら、あんたはもっともっと強くなる。稔や私よりも、そう……お姉ちゃんよりも」
「お姉さん……」
その言葉を楓が反芻すると、桜はハッと口を噤んだ。
「ごめん……私としたことが、おしゃべりが過ぎたわ。兎に角、そういうことだから」
素っ気なく流して帰ろうとする桜を楓はジッと見つめた。
「先輩……先輩のお姉さんは、守ろうとして亡くなったんじゃないんですか?」
その言葉に、桜の動きが止まる。その瞳は潤んで微かに揺れたような気がした。
「僕……山口さんから聞きました。先輩のお姉さん……杏さんは、子犬を守ろうとして亡くなったって」
桜はその言葉にそっと目を瞑った。
「ええ……そうよ。私の最大の目標の剣士、杏姉ちゃんは子犬を守ろうとして……自分の身を捨ててまで守ろうとして撥ねられた。お姉ちゃんには一番に『自分を守って』欲しかったのに……」
そして、桜は涙で潤んだ目を開けた。
「お姉ちゃんもあんたと同じ……いつでも真っ直ぐだった。真っ直ぐに相手と向き合って、真っ直ぐに小さな命を助けようとして。あんた……似てるのよ。もう、二度と会えない人に……」
「僕は……」
楓は声を裏返らせて……しかし、真っ直ぐに桜に向き直る。
「絶対に先輩を悲しませたりなんかしません」
いつも真っ直ぐに向けられる楓の言葉……桜にとってはこの上なく居心地が良かった。だから桜は、その心地良さに身を委ねるように続けて尋ねた。
「楓。あんたは絶対に……『いなく』なったりしない?」
「はい! 絶対に」
『絶対にいなくならない』という楓の言葉……それは失うことを何よりも恐れていた桜の胸に染み渡って。楓の言葉を信じて溢れんばかりの温かい気持ちに身を委ねたい……そう思った。
「楓……」
桜は持っていた防具袋に竹刀……その一式を床に置いた。
「一番に、自分を守って……」
「はい」
桜の潤んだ……しかし、真っ直ぐな瞳に楓はしっかりと答える。
「僕は絶対に、先輩を悲しませたりしない……『いなく』なったりなんかしないって誓います」
楓の『誓い』に桜は微笑み、そっと目を閉じた。楓はそっと桜を抱き寄せて……自分も目を閉じて唇を重ねる。
「んっ……」
桜はそっと膝を曲げて床に背をつけ、楓に身を委ねた。楓の手が道着の隙間を通って桜の胸の膨らみに触れる……。
「ちょっと待って」
桜が突如制すると、楓は硬直し……自らの行為を理解するにつれて、見る見る赤くなった。
「す、すみません。つい……」
そんな楓に、桜はクスッと笑う。
「道場……鍵くらい閉めなきゃね」
「えっ……」
「それとも……神前だし、流石にやめとく?」
「い……いえ、あ、そうですね。神聖な道場で……いけないですよね」
先程とは打って変わって大人っぽく余裕の表情で笑う桜に、楓はさらにしどろもどろ、真っ赤になったのだった。
*
翌日の部活。
楓は加川に稽古をつけていた。
「ヤァァアー!」
「ドリャアァー!」
楓はすっと加川の喉元につけた剣先を振りかぶる!
「メェェーン!」
しかし空振る……加川が後ろに下がり、楓の打ちを避けたのだ。だが……
「メントォ!」
『バクゥ!』
間髪入れずに放たれた楓の『面打ち』が、避けた拍子によろめいた加川の『面』を捉えた。
(クソっ……)
加川は歯軋りをした。
今日の稽古……加川はこの調子で、楓から何本も取られていた。
「加川……お前、自分は『チームを守る』剣道をしていると言ったな?」
稽古終了後。楓はグッと竹刀を握る加川に語りかけた。
「はい……」
「あんな剣道で本当にチームを……いや、自分自身でさえも守ることができるかどうか。お前自身が一番分かっているはずだぞ」
楓の言葉に加川は歯を食いしばる。
「お前の今の剣道は、自分を、チームを……大切な人を『守って』いるんじゃない。ただ、逃げているだけだ」
「分かってます!」
加川は楓をキッと睨んだ。
「分かってます、そのくらい。でも、俺にはあなたや土井みたいな才能がないから……」
「才能なんて、誰にもないよ」
「えっ?」
加川は不思議そうな顔をする。そんな彼に楓はゆっくりと続けた。
「僕にも、土井にも……桜先輩にも。あるのはきっと、剣道への『想い』……そして、大切な者を想う『気持ち』なんだ」
「大切な人を想う『気持ち』……」
楓は頷いた。
「加川の大切な者……それが今の団体戦のチームだということは僕も理解しているし、チームを率いる者として、とても誇らしいと思っている。でも……それを『守る』ということは、勝負から『逃げる』ことじゃない。時には相手の攻撃を躱すことはあっても……常に、いつでも、『チームを守る』という気持ちを忘れるな。それが、このチームの一員でいるということだ」
力の込もった楓の言葉に加川の瞳は潤み……そっぽを向いた。
「分かってますよ、そのくらい。僕も、チームを守るために必死で頑張ってレギュラーの座を獲得したんだから。でも……」
横に向けていた顔を戻し、微塵も逃げずに……真っ直ぐに楓を見つめた。
「秋野キャプテン。明日からも、僕に稽古をつけて下さい。そこまで言うのなら……僕にその、『チームを守る』剣道ってのを教えて下さい」
「あぁ、勿論! ビシバシとしごいてやるから、絶対に逃げるなよ!」
まだやや生意気だが……団体戦のチームの一員として、しっかりとチームを『守る』決意を固めた加川に、楓はにっこりと笑顔を見せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます