~第三章 生きるか死ぬか~

 六限直後の部活前。

 加奈は中段の構えを取り、道場の鏡と向かい合う。道場に『いる』のは、加奈と鏡に映る『加奈』だけ……彼女はいつもホームルーム終わりすぐに道場に入るのだ。

 鏡に映るその構えは、剣先を確実に自分の喉元に向けており、一寸の隙も見当たらない。

 彼女は鏡の中の彼女と目を合わせる。相手は自分自身……だからこそ、決して負けてはならない。

 高まる緊迫感に鼓動が鳴る。

 加奈がクワっと目を開くと同時に、鏡の中の彼女も振りかぶる!

『ダァーン!』

 瞬時に響く踏み込み音とともに、加奈の竹刀は宙を切った。即座に左足を運び、残心を取る。

(全然ダメだ……)

 加奈は歯を食いしばる。

(こんなのじゃ、桜先輩にも……楓にも、全然及ばない)

 竹刀の峰をでこに当てて目を瞑り、溜息を吐く。

 しかし……

「すごい……」

 加奈の背後から感嘆の声が聞こえた。彼女は振り返る。

「波間キャプテンの打ちって……やっぱり凄い威力ですね」

 道場の門を入ったばかりの土井が、ぼんやりと口を開けていた。

「土井くん……あなた、珍しいわね。こんな早くに来るなんて」

「珍しいって……いつもサボってるみたいじゃないっすか」

 竹刀を下げて目を合わす加奈に、土井は少し赤くなってふてくされた。

「ふふ、ごめん、ごめん」

 加奈は先程の悔しさも忘れて悪戯そうに笑う。土井は頭を掻きながら学生鞄を床に置き、そんな加奈を見つめた。

「キャプテンは、いつもこんな早くに来て、鏡見て稽古してるんですか?」

「そうね。それが……私が自分自身に課した戒めなの」

「戒め……?」

 加奈は頷いた。

「もう二度と……自分自身に負けることのないように」

「自分自身に負ける……?」

「ええ」

 加奈はすっと目を閉じた。

「優勝した去年の……秋の大会。私は桜先輩に勝ったけれど、自分自身には負けたの。正々堂々と『剣道』で勝負せずに、心に揺さぶりをかけた。それはきっと、自分の『剣道』に自信がなかったから。自分の黒い部分に負けたからだと思う。だから、それから毎日……稽古前に私は鏡の中の自分と対峙することにしてるの」

「自分自身と向き合うために……」

 呟く土井に、加奈は「まぁ、でも、まだまだ桜先輩には遠く及ばないんだけどね」とフッと笑った。そんな加奈に、土井は少し首を傾げて口を開く。

「俺はあの大会で何があったのか、よく知らないんだけど……そこまで深く考えなくても良いんじゃないかな?」

「えっ?」

 長い睫毛のついた上瞼を弓なりにさせる加奈に、土井は自らの想いを語る。

「だって、どんな手を使おうが、あの試合で波間キャプテンは桜キャプテンからあんなに綺麗な『引き面』を決めたんだ。実際の『剣』の勝負では、生きるか死ぬか……そのための手段なんて、関係ない。あの時の試合場では、確かに波間キャプテンは桜キャプテンより『強かった』んだから」

「土井……」

 凛と響く土井の言葉に、加奈の瞳の表面は少し滲んで揺れた。しかし……彼女はグッと握った拳を腰に当てて目を瞑る。

「あなたね……」

 叱り口調で続けた。

「言葉遣い。それ、先輩に対する言葉遣いじゃないでしょ。仮にも私、キャプテンよ」

 自分の僅かな心の機微が分からないように、精一杯に照れ隠しをする。

 そんな彼女に、土井は「チェッ」と舌打ちをした。

「言葉遣いは仕方ないっすよ。生まれつきなんで」

 そうして、プイっとそっぽを向いた。

「いや、言葉遣いは生まれつきじゃないでしょ」

 そんな彼に加奈は少し呆れ顔になる。

「でも……」

 加奈は微かに白い歯を見せた。

「土井……ありがとう」

「さて! さっさと道着に着替えるか!」

 照れ隠しに聞こえないフリをする土井に、加奈はそっと目を細めた。



 寒いはずの二月のその道場がまるで春を感じさせるような暖かさに包まれていた時。

「ちわっす!」

 上機嫌の楓が門から道場へ足を踏み入れた。

「あれ、土井。お前、珍しく早いじゃん」

「もう……楓キャプテンまで。それじゃあ、俺がいつも遅刻してるみたいじゃないっすか」

「仕方ないじゃんか。本当に遅刻してるんだから」

「いや、ひどいっすよ。週に二回は間に合ってますよ」

「普通はそれを、いつも遅刻してるって言うんだよ」

 男子部員達の中でも、この二人は特に仲が良い。何だかんだ言っても楓は土井の努力と才能を認めているし、土井は楓の底知れぬ強さに憧れ、目標としている。


 そんな二人から目を背け、加奈が防具を取りに行こうとした時だった。

「おぅ、波間! 今日も頑張るぞ!」

 楓が爽やかに声を掛けた。加奈はぎこちなく振り返る。

「だって、僕達がこの剣道部のキャプテン……協力して部を引っ張っていかなきゃいけない。そうだろ?」

「え、えぇ」


 まるで昨日……バレンタインの気まずい出来事がなかったかのように、あっけらかんと振る舞う楓に、加奈はしどろもどろに頷く。そんな加奈に、楓はニッと白い歯を見せた。

「頼りにしてるぞ。波間キャプテン」

「うん……ありがとう」

 加奈の胸の中でドックンと強い音が鳴り、全身に熱を送って火照らせた。彼女は自分のそんな感情を少なくとも土井にだけは悟られないように、手の平をギュッと握って足早に更衣室に戻った。

(ズルい……ズルいよ。好きでもない私なんかに、あんな笑顔を見せるなんて)

 加奈は拍動の鳴り止まない自分の胸を必死に抑えた。

(ダメだ。やっぱり私……あいつのことが好きなんだ。どんなにいい奴が現れても……)

 加奈はそのことを再確認した。

 なぜなら、加奈の胸を駆け巡る感情は、土井に対するそれとは全く別のものだったから。


 加奈が真っ赤になって更衣室に戻る様を見ていた土井は、胸にズキッとした痛みを感じた。それは、初めて感じる痛みで……土井にはその理由が分からなかった。

 ただ、加奈が楓を見つめる瞳……それを見ると、いてもたってもいられなかった。

(俺は絶対に、楓キャプテンに勝たなければ……いや、超えてみせる!)

 土井は、痛みの通過した胸にメラメラとその想いをたぎらせた。



 その日の選抜試合が始まった。

「お願いします!」

 土井は楓と対峙した。

 楓も土井も、それまでの全ての選抜試合を勝利している。奇しくも、土井はその日に楓と春の大会に向けた選抜試合を行うことになっていたのだ。


「ヤァァアー!」

「ドゥアァー!」

 土井は自らの目標とする先輩……楓に向かって、力の限り気迫を発した。しかし、その気迫は全て楓の発する気迫に呑み込まれる……!

「メントォ!」

「メェェーン!」

 土井の『刺し面(剣先を最短距離で刺すように打つ面)』と楓の『飛び込み面』は全く同時に当たった。

 しかし……

(クソッ……)

 土井は歯軋りをする。

「面あり!」

 白旗……楓の旗が上がった。

(同時じゃダメなんだ、同時じゃ……)

 『面打ち』のキレも重さも威力も、誰がどう見ても楓の方が上だった。だから土井は、一瞬……千分の一秒でも万分の一秒でも速く楓の『面』に届くように、剣先が最短距離の軌道を動く『刺し面』を放った。

 しかし、それでも楓の『飛び込み面』と同時……自分と楓との如何ともしがたい実力の差を思い知らされる『合い面』になってしまったのだ。

「ドゥア……メェェーン!」

「メンヤァアー!」

 その後の『面』でも、やはり土井は楓には敵わない。審判のうち、一人が上げた白旗を他の二人が取り消したのは、土井に対する温情かと思われた。

(やっぱり……俺はこの人には敵わない)

 土井がそう悟った……その時だった。

 目の端に、祈るように両手を握りしめて自分達の試合を見つめる加奈の姿が映った。


 その瞳と祈りは自分の対峙する楓に向けられているように思えて……土井の胸にはまたズキッとした痛みが走った。

(俺は負けたくない。この人だけには、絶対に……!)

 土井は竹刀を楓の喉元、中心に向けた。

「ドゥヤァァアー!」

 凄まじい気迫を楓にぶつける。

(実際の『剣』の勝負では生きるか死ぬか……)

 自らの発した言葉が土井の中で反芻する。

 楓が『面』の動作を起こそうとしたその時……振りかぶった土井の竹刀が楓の『小手』に向かって振り下ろされる!

「コテェ!」



 稽古後……土井は自販機の横で、竹刀袋を握りしめてぼんやりと空を見上げていた。その冬の空は快晴で、まだ六時だというのにオリオン座の七つ星が輝いていた。

『コツン』

 そんな土井の頭を加奈の竹刀袋が軽く小突いた。

「『小手』一本、おめでとう!」

 土井と目を合わせた加奈は、にっこりと笑った。土井は、きまりが悪そうに目を逸らす。

「一本って言っても、あの後すぐにまた一本取られて負けたじゃないすか。それに、あんな卑怯な『小手』、一本とは言えないし……」

「実際の『剣』の勝負では、生きるか死ぬか……そのための手段なんて、関係ない」

 すっと目を閉じる加奈を、土井は目を丸くして見つめた。

「『あの瞬間』、あなたは確かに楓の手首を『斬って』動きを停めた。そうでしょ?」

 目を開けて自分を見つめる加奈に、土井の胸はドクンと鳴った。加奈はその大きな瞳を土井の目と合わせる。

「今日ので確信したわ、土井。あいつ……楓に勝てるのは、あなたしかいない」

「僕しか……」

 茫然と呟く土井に、加奈は頷いた。

「勝つための手段なんて、関係ない……どんな勝ち方でも、私は何も言わない。だから、土井。あいつ……楓に勝って」

(あなたが楓に勝つことで、あいつは……私の手の届く存在になるかも知れない)

 その想いを、加奈は飲み込んだ。


 そんな加奈の大きな瞳を土井は決意を帯びた瞳で見つめる。

「もし、俺が勝ったら……」

「勝ったら?」

 少し首を傾げて聞き返す加奈に、土井は目を閉じて首を横に振った。

「いえ……駅前の大盛りラーメン、奢ってくれますか?」

 土井のその言葉に、加奈はプッと吹き出した。

「何だ、そんなこと? そんなの、いくらでも奢ってあげるわよ」

「あ、マジっすか? じゃあ、それから毎日お願いしますよ!」

「いや、ちょっと待って。毎日は流石にキツいわよ」

 少し慌てる加奈に、土井は悪戯な笑顔を浮かべる。

(もし、俺が勝ったら……先輩は俺のことを見てくれますか?)

 土井の胸を熱くするその想いは、胸の奥に封印されたのであった。

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