~第二章 バレンタインの稽古~

「コテ、メェーン!」

「メェェーン!」

 打ち合いから互いに残心を取った、その瞬間。間合いを遠く取って攻め合いに移行する。

 握る竹刀を通じて、自らの内に流れ込む熱い緊迫感。それは、場外から入る二月の冷気を……いや、周囲の空気を全て飲み込む。


 伸縮を加速する心臓は、楓の全身に熱いエネルギーを送り込む。体の奥底から沸き上がる何物にも代え難い高揚感……快感。

(もっとだ……もっと、僕を昂らせてくれ!)

 剣を向ける相手に……いや、違う。自分自身に向けたその声は、楓の内で木霊する。

 心臓が拍動する毎に、自らを飲み込むが如く膨張する緊迫感を抑え、ジリジリと互いに攻め合う。

 互いが『面』の奥の相手の目、相手の呼吸……そして、相手の周囲を纏う『空気』を感じて右足を僅かずつ、前へ、前へ。その刹那!


 その相手、波間 加奈(かな)は、この一撃……『飛び込み面』に自らの全てを乗せる。

(届け……!)

 左脚で力一杯に床を蹴り、竹刀を握る手首と腕を真っ直ぐに伸ばして、自らの気迫、想い……。それらを全てその相手……楓にぶつける。

 しかし、竹刀が楓の『面』に届く寸前。

 加奈の瞳には、楓の剣が放つ『剣光』が煌めいた。

「メェェーン!」

『バクゥ!』

 脳天にまで届くかのようなその一撃は、加奈の全身をビリビリと痺れさせる。

 そして、それは剣を握る楓の手にも確かに伝わり……

(勝った……)

 竹刀を通って痛いくらいに伝導するその『痺れ』は、剣道を始めてから幾度も楓に自らの勝利を実感させるのだった。


 そして、それは同時に加奈に自らの敗北を……自らが対峙した相手は、自らの全てをぶつけても、決して届くことのできない壁であることを実感させる。

(くそっ……)

 加奈は歯軋りをした。

 楓と向かい合ってから、もう何回目になるだろう。

 数え切れないほどの……胸を締めつけるほどの『悔しい』という想いとともに、彼女は今日も帯刀したのだった。


 稽古が終わり、道場に雑巾をかける。

 冬の雑巾がけは実に冷たく、手が凍るようで……しかし、今日一日、使わせてもらった道場への感謝と畏敬の念を込めて隅々まで綺麗になるように、雑巾でピカピカに磨くのだ。

「……って言ってもよぉ、こーんなボロ道場、どんなに磨いても綺麗になるわけねぇよ」

「だよな。寒いし冷たいし、さっさと着替えたい……いてっ!」

 文句を言っていた中一の加川と土井を楓がこづいた。

「無駄口を叩かないで、さっさとやる! 帰るのが遅くなるだけだぞ」

「ちょっと、先輩~、後輩への暴力っすよ」

「何が暴力だ。愛のムチだってことが分からないのか」

「そんなことに新キャプテンの権限使うくらいなら、打ち込みと地稽古の本数減らして下さいよ~」

「何を生温いことを言ってるんだ。そんなことを言うなら、二倍に増やしてやる」

「げっ、横暴だ。そんなことしたら、みんなで暴動起こしますよ」

「おぅ、やってみろ。みんなまとめて、この僕が相手してやる」

 三人がそんな言い合いをしていた時だった。

「こぉら、そこのバカ男子三人! サボってないで、ちゃんと働く!」

 女子部新キャプテンの加奈の声が響いた。

「いや、三人って。僕はこの二人に注意していただけで……」

「私が見た時に働いてなかったんだから、あんたも同類!」

 言い訳をする楓にダメ出しをする加奈。桜達の引退した新立明中学剣道部では、見慣れた光景になっていた。


 今ではこの二人が新キャプテンとして剣道部を率いている。しっかり者の加奈と頼りない楓……しかし、竹刀を握って対峙すると、加奈は決して楓に勝てない。

 この二人は名物コンビ……お似合いに見える。中学一年の中には、この二人は付き合っていると思っている者もいるくらいだ。

 しかし、実際はそうではなく……実に複雑な関係なのだ。



「楓……今日は一緒に帰らない?」

 全員の着替えが終わり、道場の鍵を返しに行く楓に加奈が声をかけた。先程とはうって変わり、ねだるような甘い声だ。

「ごめん。僕、波間とは帰らない」

 扉が閉まった道場の前で防具袋を引っ掛けた竹刀袋を担いだ楓は、素っ気なく目を閉じた。

「どうして? やっぱりあんた、まだ桜先輩のこと……」

「波間には関係ないだろ」

 冷たくあしらう楓に加奈は涙で揺れる瞳を向ける。

「私……勝ったじゃない」

「勝った?」

 加奈は唇を小刻みに震わせながら頷いた。

「秋の大会で……桜先輩に勝ったわよね。なのに……どうして、あなたは私には振り向いてくれないの?」

「勝った……か」

 楓は視線を虚空に浮かせた。

「あんな勝ち方で『勝った』なんて言ってるようじゃ、お前、一生あの人に勝てないよ」

 そう言った楓は振り返りもせずに、体育教官室へ向かって去って行った。

「……何よ」

 加奈は唇を噛み締め、自分の鞄の中の小箱を握りしめた。

 その小箱は……加奈が楓のために手作りしたチョコレート。そう……今日は二月十四日。大抵の剣道部員にとっては無縁と思われたバレンタインデーだったのだ。

(そりゃあ……私だって、分かってるわよ。あんなの、本当の『勝ち』じゃないってことくらい……)

 加奈は秋の大会……中学三年生の引退試合で最強の中学剣士、桜に勝った。しかし、それは正々堂々と勝負したのではなかった。

 お互いに惹かれ合っていた桜と楓……その関係を利用した、卑怯な勝ち方だったのだ。


 加奈の目に映る景色が涙で揺れる。彼女はそれが目から溢れないように上を見上げた。

 薄暗くなった空に滲むまん丸な満月がぼんやりと輝いて揺れる。

 その時だった。

「あーくそっ、やっぱり道場閉まってる」

 それは、後輩の土井の声……いつの間にか、加奈の背後に来た彼が舌を鳴らし、茫然と剣道場の扉を見ていたのだ。

「土井……?」

「あ、波間キャプテン。俺、道場にケータイ忘れちゃって。鍵、持ってません?」

 加奈の様子には無頓着な土井を前に、彼女は鞄からそっとチョコレートの小箱を取り出した。

「キャプテン?」

 いつもと違う様子に首を傾げる土井に、加奈はその小箱を差し出した。

「え……これ……」

「先輩命令よ。受け取りなさい」

 その小箱が何なのか理解した土井は、目を丸くして慌てた。

「え、いや、先輩命令って……キャプテン?」

「お願い……受け取って」

 加奈の瞳に溜まる涙……それを確認した土井は、その場に立ち尽くし動けなくなった。そんな土井を尻目に、彼女はその場を立ち去った。


 瞳からは、堪えていた涙が溢れ出した。

(どうして……どうして、私じゃダメなの? 私……あなたのことを想って作ったのに。あの人は、あんたにそんなことしてくれないじゃない)

 自分には楓が振り向かない理由……桜と自分との違いが何なのか、加奈は何となくだが分かっていた。しかし、それでも……加奈の想いは行き場を知らずに胸の中で幾度も木霊するのであった。



 部活からの帰り道。

 まだ六時すぎだというのに辺りは真っ暗で、しかしその闇を裂くように満月の明かりが差し込んで、はらはらと舞う粉雪を映し出している。

 その明かりが『剣信館』という表札文字をくっきりと浮き上がらせている、荘厳なオーラを纏った道場の前に楓はいた。

 胸を高鳴らせる緊張と共に、靴を脱いだ足でゆっくりと足を踏み入れる。


 道場の神前では、一人の少女……流れるように黒く美しい髪を束ね、透き通るような白い肌をした桜が黙想をしていた。閉じたその目を飾る長い睫毛……その人形のような美しさに見惚れ、楓は暫し立ち尽くした。

 桜の呼吸、拍動……それらは、その道場の空気と一体となっていた。そして、それらはその道場にいる楓にも確かに伝わった。

 静かで、穏やかで、しかし、限りなく強い……。

 それは、何もせずとも楓を圧倒するほどの『念』を含むものであった。

 桜は、閉じていた目をゆっくりと開いた。

「楓。着替えて、防具をつけなさい」

 桜が前を向いたまま、凛とした言葉を発すると、楓は嬉しそうにニッと右の口角を上げた。

「はい!」

 気持ちが最大に昂っている時には右の口角が上がる……それが楓の癖なのだ。




 防具をつけた楓と桜が対峙する。

 桜が引退してから実に三ヶ月ぶり……両者、中段の構えを微塵も崩さずにお互いの中心を取る。

(隙が見当たらない。流石は先輩……三ヶ月ぶりとは思えない)

 久しぶりの緊迫感……それは、加奈と対峙する時にも他の部員と対峙する時にも感じることのできないものだった。

「キィェェエー!」

 先に気迫を発したのは楓であった。

「ヤァァアー!」

 桜も力の限り、それを飲み込まんばかりの気迫を発する。空間が歪むかのように、二人の間の空気がビリビリと震える。

 この気迫……桜は忘れることができない。

 剣道から遠ざかっていても……受験勉強に勤しみ励んでいても、決して忘れることのなかった、楓の想いの込もったこの気迫。

 次の瞬間!

「ドゥア……」

 桜は飛ぶ!

 その一撃に自らの想い……楓を想う気持ち、全てを託して。

 楓も飛ぶ!

 宙で交差する二人の剣は、互いを想う気持ちを伝導する……!

「ァア、メェエーン!」

「メェェーン!」

 桜の渾身の一撃は楓の『面』を、楓の想いを込めた一撃は桜の『面』を、微塵の差もブレもなく同時に捉えた。

(これだ……!)

 楓の心臓はドクンと跳ね上がり、ゾクっと鳥肌が立った。

 剣を交えると再確認できる。桜と加奈……他の剣道部員の違い。

 桜の引退後には、これほどまでに自分を理解し、正面から向き合い……自分を想う『剣』と向かい合えることはなかった。

 その『剣』は、ただ自分を倒そうとするだけでなく、自分への愛が溢れていた。それは言葉にされることはないが、自分は桜の『剣愛』に全身全霊をもって応える……この対戦の最中、楓はそう誓った。



「シャアァアー!」

「ヤァァアー!」

 互いに気迫をぶつかり合わせて間合いを切る。 二人の間の空気がビリビリと震える。

 次の瞬間!

「メントォー!」

「ドォオ!」

 それはまるで、二つの雷がぶつかり合うかのよう……楓が打った『面』と桜の打った『胴』は完全に同時にお互いを捉えた。

(楽しい!)

 桜は思う。

 今日、本来はこの日……楓へのプレゼントを桜なりに考えた結果、道場に彼を呼び出した。稽古をつけてやることこそが、自分がしてやれる最高のプレゼントだと思ったのだ。

 しかし、実際に対峙してみると……自分が一番楓との稽古を楽しんでいる。

 三ヶ月のブランクなんて吹き飛ばしてくれる、この気迫、このパワー、この緊張感……!

「メンヤァアー!」

「メェェーン!」

『ダァァーン!』

 両者の『面』に落ちる完全に同時の落雷……。『合い面』(互いに打ち合う『面』)からの激しい体当たり。

(凄い!先輩……強くなっている。引退前も凄かったけど、さらに……)

 無意識に楓の右の口角は上がる。

 そう……桜の剣道は引退前よりもさらにパワーが上がっていた。

 かつては、桜が舞うような華麗な動きで相手を翻弄する剣道だったのが、打ちに『重さ』が加わり、体当たりには楓が跳ね飛ばされそうなくらいの『突進力』が備わっていた。それは、そう……桜が永遠に目標とする剣士、今は亡き姉の杏が繰り出していた『豪剣』に近いものになっていたのだ。


 桜も『面』の奥でフッと白い歯を見せた。

 鍔迫り合いをする二人の間には、言い様のない高揚感……快感が流れる。

「コテェ、メェェーン!」

「メントォー!」

 桜の『引き小手』から『面』の連続技に楓が『面』で合わせ、両者残心を取った。束の間、二人は間合いを遠ざけて構え直す。

(次だ……!)

 互いに構える二人は、同時に直感した。

(次で、決まる!)

 束の間の……しかし、互いに剣を向ける二人にとっては永遠とも思える『無』の時間が流れる。

 互いに微動だにしない。二人の間の空気が止まり、互いに『無』になる……。


 その刹那!

『スダァァーン!』

 二人は微塵の差もなく、同時に『瞬間』を消した。

 竹刀は同時に互いの『面』を捉えた。互いに、残心をとる。

 しかし……

「先輩……」

 楓は爽やかに振り返った。

「今日は……参りました。ありがとうございました」

 白い歯を見せ、にっこりと笑った。

 そう。二人の打突は完全に同時にお互いの『面』を捉えたのだが、僅か……ほんの僅かに楓の竹刀は桜の『面』の中心よりやや右にブレたのだ。

「いいえ。こちらこそ、久しぶりにあんたと戦えて楽しかったわ。ありがとう」

 桜も『面』の奥で目を細めた。



 二人は道場の神前で『面』を外す。

 その背後……開いている門からは、もう真っ暗になった外でちらほらと降る粉雪に月明かりが射して、キラキラと輝いていた。

「先輩、青林高校への推薦が決まったみたいで、おめでとうございます」

 青林高校は県内随一の大学進学率を誇るとともに、剣道強豪校でもある。

「それに……凄いです。引退して三ヶ月も剣道していないのに、さらに強くなるなんて」

 楓は尊敬の色をキラキラと輝かせた瞳を桜に向けた。

「そりゃあ、これが私からのプレゼントだからね」

 桜は頬を薄っすらと桃色に染める。

「プレゼント?」

「ええ。だって今日は……そういう日でしょ」

 すると楓は目を丸くした。

「そうか! これって……バレンタインチョコの代わりだったんですね」

「まぁね……これじゃ、不満かしら?」

 桜が照れ隠しに澄まし顔で目を閉じると、楓は思わず吹きそうになった。

「いいえ、とっても嬉しいです。先輩、本当にありがとうございました!」

 歓喜の顔を浮かべる楓に、桜はさらに火照って赤くなった。その熱に気付かれないように、つとめてクールに振る舞う。


「ねぇ、楓」

 着替え終わって帰る間際、桜は意を決したように口を開いた。

「はい」

 爽やかに振り返る彼に、桜の胸はドクンと鳴った。その細やかな音が聞こえないように、桜は凛とした声を出す。

「私……付き合うとか、彼氏とか彼女とか、そんな甘っちょろい関係は、柄じゃない。だって、想像できる? 私とあんたが遊園地に行くだとか、映画見に行くだとか」

「えっ……」

 突然の桜の発言に驚き、楓は目をぱちくりとした。しかし、暫し考えて……苦笑いする。

「確かに……僕と先輩は、そんな所に行って楽しめるって柄じゃないですよね。剣士ものの舞台でもあって、出演させてもらえるとかなら兎も角……」

 楓の軽いジョークに桜の顔も綻ぶ。

 それと同時に、緊張の少し解けた声で続けた。

「だから……私が高校に行っても。これから先もずっと……私と稽古して、戦ってくれる?」

「先輩と稽古して……」

 反復する楓に、桜はチラッと白い歯を見せる。

「それが、あれから……私がずっと考えて出した結論。秋の大会で、私が負けて、あんたが勝って。あの時はあんたへの想いが自分を弱くしたと思ったけど、やっぱり違うの。私はいつでもあんたと会えるから……あんたと戦えるから、どこまでも、誰よりも、強くなれる。だから、あんたも。私が高校に上がっても……違う学校に通うことになっても。どこまでも強くなって、私をどこまでも、強くして。それが、私にとって、一番の関係」

 そんな桜の言葉を聞く楓の瞳には、うっすらと涙が溜まった。それを確認した桜の眉は少し下がり、不安そうな色を見せる。

「あんたにとって……それじゃ、不満?」

「いいえ」

 楓は涙で滲んだ目を閉じて、ゆっくりと首を横に振った。

「僕、嬉しいです。その関係……何だか、付き合ったりとか、彼氏と彼女とかよりも深い絆で結ばれているような気がして。これからも僕に稽古をつけて……僕と戦って下さい」

 鼻声混じりの、だけど真っ直ぐに自分に向けられた楓の言葉を聞いて……桜は、杏と稔の『豪剣の契り』を思い出した。

 それは、運命よりも、愛情よりも深い契り……。桜は長い睫毛をした目をそっと閉じた。

「ねぇ、楓。それと……一つだけ、約束して」

「約束?」

 桜は目を開けて、真っ直ぐに楓を見つめる。

「あんたは絶対……いなくなったりしないで」

 澄んだ瞳は潤んで揺れる。

 楓は全てを知るわけではないが、その言葉の意味することを理解して……かたく頷いた。

「はい、約束します。僕は……絶対に先輩を置いていなくなったりしません。桜先輩のことが好きだから……ずっと、側で先輩のことを守……」

 そこまで言った楓の唇に、桜は美しい桃色の唇を重ねた。楓は暫し、目を瞑る……。


 積もり始めた雪を月明かりが真っ白に照らすバレンタインの夜。

(あなたは絶対に、お姉ちゃんのようにいなくならないで……)

 とめどなく胸を流れるその想いとともに、桜の飾らない真っ直ぐな気持ちは、確かに楓の胸にも伝わったのだった。

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