~第一章 大切な人への想い~

「うー、さぶっ……」

 十二月の土曜日。

 白いコートに身を包んだ桜は、両手で互い違いに両肘を持ち、道場へ向かって歩いていた。


 もう、剣道部は引退して受験勉強も佳境に差し掛かっている……しかし、彼女は週に一回だけ道場で稽古し、自らを高めているのだ。

 いつも通る公園に差し掛かった時。

(あれ?)

 桜の目には、公園のベンチで隣同士に座っている稔と楓が映った。楓はこの寒いのにジャージ姿で缶コーヒーを持っており、稔は腕に愛犬『あんず』を抱えている。

 何やら話をしていて、二人とも桜には気付いていない様子だ。

(あの二人……どうして?)

 意外な組み合わせの二人に驚いた桜は、そっと公園に入って、荒涼と佇む枯木の陰に隠れた。



「奇遇……ですね。また、ジョギング中にお会いするだなんて」

「本当だな。俺もまさか、あんずの散歩でまた会えるとは思わなかったよ」

 ニコっと笑う稔に、楓はもじもじしている様子だった。

「あ、これ……この缶コーヒー、ありがとうございます」

「いやいや。こちらこそ、会えて嬉しかったから」

「それと、その……秋の大会では、山口さんと戦えて、とても楽しかったです」

「そうだよな。秋野くん、めっちゃ強くなってるんだもん。俺、負けちまったよな」

「いえ、そんな……あの試合では、たまたま、僕の運が良かっただけです」

「たまたま、運が良かっただけ、か……」

 慌てて取り繕う楓の隣で、稔は冬の晴天の太陽を仰いだ。

「本当にそうなのかな?」

「えっ?」

 不思議そうな表情を浮かべる楓に、稔は柔らかく微笑んだ。

「あの時の君の『面』には、君の大切な人への『想い』……その全てが込められていたぞ」

「大切な人への『想い』……」

 その言葉を反復する楓は、頬を薄っすらと桃色に染めた。

「あの時、君の想いに負けたのはきっと……俺はもう二度と『会えない』から」

 稔はすっと無表情になった。以前会った時から、稔のこの表情の変化は楓を金縛りに遭わせる。

 楓は無理矢理に自分の口をこじ開けた。

「二度と……会えない?」

 すると稔はフワッと笑い、自分の抱える犬の脇を掴んで楓の方へ向けた。犬は不思議そうな顔でクンクンと鼻を動かしながら楓の顔の匂いを嗅ぐ。

 空気は途端に柔らかくなり、その場の緊張は一気に解けた。

「このワンコ!」

「えっ……」

「『あんず』っていうんだ。可愛いだろ? ……って、前に紹介したことあったっけ」

 ペロっと舌を出した稔はしかし、瞳を潤ませた。

「そう……杏姉貴の名前から取ったんだ」

「杏姉貴?」

「俺がこの世で、一番愛していた人。もう、二度と会えない……」

「二度と会えない……」

 その時、楓はハッとした。

 以前、桜の家に上がった時。確かに、遺影が飾られていた。それは、今の桜や自分達と同じくらいの年頃で……桜の面影を感じる少女。

「その杏さんって、もしかして……」

「杏姉貴は……本当に強かった。俺よりも、桜よりも、誰よりも……。だけど……なのに、こいつを守ろうとして、トラックに……」

 そこまで話した稔の声は嗚咽に包まれた。


 楓はそれで、全てを理解した。

 桜が時折、壊れそうなくらいに寂しそうな顔を見せる理由。

 稔の纏う底知れぬオーラ。

 そして、桜と稔の間の誰にも入り込めないほどに深い絆……。

「山口さん……」

 呟く楓の前では、稔は不思議と『自分』でいられることができた。それまでずっと堪えていた、杏への想い……彼女を失った喪失感。

 それを埋めるように、堰を切ったように泣き崩れる稔を、楓はただ見つめることしかできなかった。



「今日は悪かったな。みっともない姿見せてしまって」

 涙が枯れるかとも思えるほどに泣いた稔は、先程までの顔が嘘のように爽やかな笑顔を見せた。

「いえ、その……この間は、すみませんでした。僕、山口さんの傷を全く知らずに、あんなこと……。でも……」

 街灯に照らされた楓の瞳も潤み、キラキラと揺れた。

「僕はやっぱり、いなくなったりなんてしません。桜先輩の悲しみも……痛みも全て受け止めて、ずっと守ってみせます」

 滲んだ瞳でグッと稔を見つめた。

「だって……僕はどうしても。泣きそうなくらいに、桜先輩のことが好きだから」


 そんな楓に稔もそっと目を細めた。

「それが、君の強さなんだな。この間は俺は負けてしまったけど、でも……」

 稔はニッと白い歯を見せて、右の拳を上げた。

「次は絶対に負けない。高校剣道の舞台で待ってるぞ、楓くん」

 二人はまるで、幼い頃から分かり合っている親友のように、お互いの拳を突き合わせたのだった。



 枯木の陰……木枯らしが吹き、身震いするような寒さにも関わらず、桜は全身を熱くしていた。自分を想う、楓の言葉……それはいつ聞いても、桜の胸の中で鼓動とともに全身に響き渡る。

 それに……

(初めて見た。あいつ……稔があんなに泣いている所)

 それは、愛する人のために流した涙。

 桜の前では決して見せなかった……でも、楓の前ではあんなにグシャグシャになって泣くんだ。

 これが、『人を愛する』っていうこと。

(『人を愛する』って……『大切な人を想う』って、弱くなるっていうこと? それとも……)

 高鳴る胸を抑える桜は、突き合わせた拳を外して別れた二人をボォっと見守っていた。

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