~第七章 信念~

「楓。お前、春山と何かあった?」

「えっ……」

 男子更衣室での着替え中に長田に聞かれ、楓はビクッとした。

「どうしてですか?」

「いや、このごろ、お前らをみていると、ぎこちなく恥じらい合う新婚夫婦のように見えるから」

「えぇっ、いえ、そんな……」

 楓は真っ赤になる。すると、長田はクスッと笑った。

「付き合い始めたんかなって、みんな言ってるぞ。飯島なんて、本気で落ち込んでたし」

「つ……付き合い!? い、いえ、全然、そこまでは……」

「そこまでは……ってことは、ある程度まではいってるってことか?」

 長田が悪戯そうに笑うと、真っ赤な楓は俯いた。

「ま、何はともあれ、俺は応援してるぞ。お前らは、この立明中学で誰もが認める、最強のエースカップルだからな!」

「は……はい」

 消え入りそうな声で返事をした。


 そんな二人の事情とは裏腹に、秋の大会を二週間後に控えた剣道部には、厳粛な空気が漂っていた。

「おら、坂上! ちゃんと中心とれよ」

「は……はい!」

 副将ポジションでのレギュラー入りと個人戦での出場が決定した飯島も、イライラと後輩に怒鳴っている。

「帯刀……納め、トォ!」

「ありがとうございました!」

 稽古は一旦中断され、練習試合の準備が行われた。


 今日の練習試合は、男子部対女子部で行うことになっている。選手も本番の試合と全く同じ順序、男子部の先鋒は土井、次鋒は宮永、中堅は楓、副将は飯島、大将は長田、という順に試合をする。

 一方の女子部は加奈が中堅、桜が大将だった。



「はじめ!」

「キィエエー!」

「ヤァアアー!」

 先鋒戦……土井と女子部中一の末永の試合が始まった。楓は、『面』を装着しながらその試合を観戦する。


 土井は以前とは比べ物にならないくらい練習に真面目に打ち込むようになった。剣道そのものに対するナメた姿勢は微塵もなく、いつも真剣そのものだ。

 それに、比較的小さい体で小回りの効く『小手』でポイントを稼ぐ選手だったのが、ここぞという時には『面』で勝負するようになった。

 激しい打ち合いから間合いを引いた土井は、すっと、完全に末永の中心を取る。次の瞬間!


「メェェーン!」

『パァーン!』

 土井の『飛び込み面』は末永の『面』をとらえた。

「面あり!」

(よし……!)

 先鋒戦は、そのまま土井の一本勝ちとなった。


 続く次鋒戦は、楓は次の試合に備えたアップをしながら観た。

 宮永 対 荒川……どちらも、相手の出るのを待ち『小手』を狙うタイプの選手だ。

 お互い、相手の出方をじっとうかがっている……先程とは打って変わって静かな試合が始まった。


 こんなタイプの試合を観るのも、部員達にとってはよい勉強になる。相手が攻撃へ切り替える瞬間の呼吸……僅かな動き。その『起こり』を捉えるテクニック。


 部員達は、じっとその静かな試合を見守った。

「コテェ!」

『パァーン!』

 『静』の状態の一瞬の隙をついた荒川が、反応の遅れた宮永から『小手』を決めた。

「小手あり!」

 次鋒戦は、そのまま宮永の一本負けとなった。


 続いて……楓 対 加奈の試合、中堅戦が始まった。

「ヤァアアー!」

「キィェエー!」

 両者、気迫を充実させる。

(勝ちたい……!)

 加奈は思う。弱虫だった楓は、憧れの先輩、桜を追っていつの間にか自分の手の届かないほどに強くなった。

 楓が自分の手の届かない存在になった……そのことを実感する度に悔しくて、そして何故か切なくて堪らない気持ちになった。

 それが『恋』かも知れないと気付き始めたのは、ごく最近のことだ。

 だから……だからこそ、加奈は楓に追いつきたい。どうしても勝ちたかったのだ。


 ジリジリと剣先で楓のそれを探りながら、加奈は『面』の奥の楓の目線に注意する。楓は真っ直ぐ、視線を自分と合わせている。飽くまでも、真っ向から『面』で勝負する……そのことを再確認する。

 それならば、楓が飛び込むよりも百分の一……いや、千分の一秒でも速く飛び込む。自分が勝つには、それしかない……

「メェェーン!」

「メンソォー!」

 同時……お互いの『面』は同時かに思えた。審判も、一人は『相打ち』の判定をした。しかし……

(クソッ……!)

 加奈は舌打ちをした。残る二人の審判も、白い旗を上げた。

「面あり!」

 勝ったのは、やはり楓だったのだ。しかし、本当に僅差……紙一重。

「惜しい……!」

 『面』を装着し終えて観戦していた桜の口からも、その言葉が漏れた。中堅戦は、そのまま楓の一本勝ちとなった。

「すみません……」

 加奈は項垂れて帰って来た。しかし、桜はそんな加奈の肩をポンと叩く。

「よくやった! 後は、任せなさい!」

 ニッと笑う桜を見て、加奈は少し赤くなった。

(悔しい……悔しいけれど、やっぱり、桜キャプテンにはどうしても敵わない)

 加奈は試合に向けてアップする桜をじっと見つめた。


 副将戦……飯島と倉科の試合。二年女子の倉科は、試合を引き分けに持ち込む達人であった。

 充分に間合いを取り、飯島の打突を冷静に捌く。焦った飯島が連打するのを捌き続け、崩れた瞬間を狙って倉科が打つ……。

 そんなことを繰り返すうちに時間切れとなり、結果は引き分けとなった。

「クソッ、やりにきぃ……」

 飯島は、戻って来るなり漏らした。

「先輩。もう少し、冷静に……」

「分かってるよ、そんなこと……!」

 心配そうに言う楓に、飯島はイラついた様子で言った。


 いよいよ、大将戦……桜 対 長田の試合が始まった。

「綺麗……」

 誰もの口から、その言葉が漏れた。

 桜のサクラが舞うような華麗な『剣舞』、それは誰もの目を惹きつける。対する長田の、基本に忠実な『お手本』とすべき剣道。

 両者の試合はまさに『芸術』だった。いつまでも、ずっとこの試合を見ていたい……誰もがそう思った。


 全ての部員達を虜にするその試合は、美しさを保ったまま、どんどん加速する。『合い面』後の残心を取った両者は振り返り、構え直した。

(次で、決まる……!)

 楓はそう直感した。

 微塵の隙もない美しい構え……両者は『面』の奥のお互いの呼吸を感じ合う。

 次の瞬間!

「メェェーン!」

「ドォオ!」

 誰もの目の前でサクラがヒラヒラと舞った。長田の『飛び込み面』に対する桜の『抜き胴』……それは、誰の目にも完璧に決まったのだ。


「胴あり!」

 赤い旗が上がった。大将戦は、女子部……桜の一本勝ち。


 これで、男子部と女子部は勝者数、取得本数ともに同数となった。団体戦ではその場合、両チームから代表が出て勝負を決する『代表戦』を行う。この練習試合でも、本番さながらに代表戦を行うこととなった。


 女子部からは、当然、桜が代表として出る。男子部からは……

「僕が行きます」

 楓が名乗りを上げた。

「おぅ、楓。行ってこい」

「俺たち、お前を信じてるぞ」

 男子部員達の誰にも異論はなかった。


 代表戦……桜は、試合場に一歩入って楓と対峙した。

(こいつ……ついに、私の前に立つようになった)

 桜は胸がいっぱいだった。

(そして、稔の前にも……)

 桜と楓は蹲踞した。

(もう、あんたをただの後輩だとは思ってない。一人の『剣士』として、全力であんたを倒す!)

 その決意とともに、桜の口角はキッと上がった。


「ヤァアアー!」

「キィヤァー!」

 両者、気迫を発する。次の瞬間!

「メン、コテ、コテェ!」

 桜の鋭い打ちが楓を襲う。楓は、その全てに反応した。


(うん、いい反応……)

 桜はニッと笑った。

 去年……いや、つい半年前までは、楓は桜の技に翻弄されるばかり、ただ防戦一方だった。それが、今では自分の全ての技に反応している……!

 それは、『指導者』としての桜にとって、この上なく嬉しいことだった。

 桜の打ちは見る見る加速……それに伴って、楓の打ちも加速する!


『バァン!』

 楓と桜は激しく体当たりして鍔迫り合いを始めた。

 両者、薄っすらと笑みを浮かべていた。それはかつて、桜の姉、杏が稔と真剣勝負をしていた時にも浮かべていた笑みだった。

 戦いの中に身を置く者としての言いようのない高揚感……快感だったのだ。


「メェン!」

「ドォオ!」

 楓の『引き面』と桜の『引き胴』は同時に当たり、相打ち……間合いは遠ざかった。楓と桜は、しっかりと中心を取って構え直す。

(次だ……!)

 楓も、桜も、試合を見る部員達も直感した。

(次の一撃で、決まる!)

 ただならぬ緊張と高揚感の中、楓も感極まっていた。憧れの剣士……自分の手の届かない存在だった人が、今、自分と対峙している。自分は、この人のために剣道を始めて、この人のために、誰よりも強くなると決意して……だから絶対に、この人に勝たないといけない。絶対に……!


 楓の左足は地面を蹴った!力の限り竹刀を振りかぶり、桜の方へ飛び込む!

 桜も飛ぶ!

 楓の『飛び込み』と『面打ち』を繋ぐ『瞬間』が消える刹那、『剣光』が煌めく……!


「メェェーン!」

『ダァァーン!』

 凄まじい踏み込み音とともに、楓の『面』が決まった。


「面あり!」

 代表戦の勝負……それは、男子部の方に軍配が上がった。



「私、ついに……負けてしまったわね」

 一緒の帰り道、桜はそっと呟いた。その顔からは悔しさよりも、爽やかな清々しさがうかがえる。

「はい……僕もまだ、信じられないです」

 楓も呟く。すると、桜はいつもの呆れ顔になった。

「信じられないって、あんた。次は稔に勝たないといけないんでしょ?」

「はい、そうです。山口さんに勝たないと……」

「何、あんた。自信ないの?」

 桜は少し悪戯そうに言った。

「いえ、そんなことないです。僕、絶対に勝ってみせます! ただ……」

「ただ?」

 楓は、切なげな表情で桜を見つめた。

「僕が山口さんに勝っても……いや、もし勝てたとしても。先輩は僕のこと、見てくれるんでしょうか?」

「えっ……」

 桜は、楓の言葉に動揺した。

「僕がどれだけ先輩のことを好きでも、先輩のためにどれだけ強くなっても……先輩は僕でなく、何処か遠くを見ている気がするんです。何処か、果てしなく遠くを……」

 楓の切ない瞳に、桜の鼓動は速くなった。

 楓がメキメキと上達して今や、自分よりも強くなった……それは、『指導者』としては確かにこの上なく嬉しいことだった。

 でも、だから……だからといって、楓の気持ちに応えられるか。桜に自信はなかった。


 その想いは、今でも悶々としたわだかまりとして、桜の胸の中に残っていたのだった。


「でも……」

 動揺する桜の隣で楓は続ける。

「僕は今では……剣道が楽しくて仕方がないんです。僕、初めてなんです。人と真剣にぶつかり合うのがこんなに楽しいと思ったこと。だから、僕……先輩がどんな答えを出すとしても、絶対に山口さんに勝ちます。そして、誰に何回負けたとしても、正々堂々と真っ直ぐに勝負して、どこまでも……誰よりも、強くなります。それが、今の僕の信念だから」

 真剣な表情を浮かべて真っ直ぐな想いを語る楓を見て、桜は柔らかく微笑んだ。


「やっぱり……あんた、あいつに似てるわ」

「えっ?」

「あいつ……稔に」

「山口さん?」

 不思議な顔をする楓に、桜はクスッと笑った。

「あんた達の決戦……本当に楽しみにしてるわよ。正々堂々、真っ直ぐ勝負しなさいね」

「はい!」

 楓は元気よく返事をした。


「さ、今日は肉じゃが作ってくれるんでしょ? 早く、帰りましょ! 私、お腹すいているんだから!」

 二人はいつものように、桜の家への道を急いだ。



「あれま、退院してきてみたら、桜……あんた、ボーイフレンドを連れ込んでるなんて、聞いてなかったわよ」

 桜が家のドアを開けると、玄関先に来た母親が二人を見て目を丸くした。

「いや、そんな、連れ込んでるって……。というか、私の方こそ、退院するなんて一言も聞いてなかったんだけど」

「何よ、退院しちゃ悪いわけ? そりゃあ、こんなに可愛いボーイフレンド、連れ込んでちゃあね」

 母親は笑顔で腕を組んで楓を見た。

「先輩……良かったですね。では僕は、これで……」

「ちょっと、待った!」

 そそくさと帰ろうとする楓を、母親は呼び止めた。

「あなた、桜にご飯、作ってくれてたんだよね」

「えっ?」

「だって、冷蔵庫に入ってた、煮豆。桜はあんなに上手いこと作れるわけないもの」

「ちょっと、それ、どういう……」

 頬を膨らます桜はさておき、母親はにっこりと笑った。

「だから……お礼をさせて。今夜は、私達と一緒にご飯食べましょう。えっと、あなた、お名前は?」

「あ……はい。僕は、楓。秋野 楓といいます」

「そっか、楓くん……いい子ね。稔くんにそっくり。桜、素敵な人をつかまえたじゃない」

「もう、お母さん……そんなんじゃないって!」


 まるで友達のようにじゃれ合う桜と母親……そんな二人を見て、楓は温かい気持ちになった。

 しかし、それと同時に、この母娘の抱える、自分の知らない深い悲しみ……幾度となく話題となる『稔』はそれら全てを知っているような気がして、楓の胸の中には何とも言えない切なさが押し寄せるのだった。

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