~第五章 好きだから……~

 いつも通りの朝。いつものように桜と母親は和食の朝食……焼き鮭とほうれん草のおひたし、納豆とご飯の食卓についていた。

 父親が単身赴任中の桜の家は、杏の亡くなった今では実質的に二人暮しだ。

「お母さん。もうすぐ……だね」

 桜が言うと、母親は力なく微笑んで頷いた。

 今年も夏のあの日……姉の命日が近付いてきたのだ。無理に笑顔をつくる母を見て、桜はやり切れない気持ちになった。


 姉が生きていた時……四年前と比べて、母は随分と頬がこけ、やつれている。姉が永遠にいなくなったあの日から、母の中では時間が止まっているかのよう。遺影の前で密かに、毎日のように涙を流しているのも、桜は知っていた。

 そして桜は、そんな母を見る度に、やはり姉は母にとって誰よりもかけがえのない存在だったことを実感するのだ。


「お母さん。行ってくるね!」

「ええ、桜。気をつけてね」

 母の放つ『気をつけてね』という言葉。それが何よりも……非常に重いものだということを、桜は知っていた。

 姉が出たあの日、姉を玄関先で見送らなかったこと……『気をつけて』という言葉をかけなかったことで、母は今でも自分を責めているのだ。


「お母さん……私は、絶対にいなくなったりしないから」

 玄関先を出る桜は、瞳を潤ませながらそっと呟いた。



「はじめ!」

「シャアアァー!」

「ヤァァアー!」

 その日の部活では、楓は選抜試合最終戦……男子部キャプテンの長田との試合を行なっていた。

 中学二年になって背が伸びた楓よりもさらに十センチは高いであろう長身の中学三年生、長田。彼は非常に理に適った、基本に忠実な剣道をする。

 実は、楓はもうすでに個人戦への出場の枠は獲得していた。

 一方の長田は、最終戦前の取得点数は飯島と同点。残り一枠に入れるかどうかを飯島と競う、長田にとっては非常に重要な試合だ。

 しかし、だからと言って楓は決して手を抜いたりはしない。目の前の相手と真剣に、真っ直ぐ対峙する!

「メンリャアァー!」

「メエェエーン!」

『バクゥ!』

 両者の『面』は同時に当たった。審判は『合い打ち』の判定だ。

 長身の長田は『合い面』では有利……しかし、楓はリーチの差を圧倒的な脚力でカバーする。両者、残心を取って振り返り、構え直す。


(楽しい!)

 楓は思う。

(やっぱり、キャプテンの『面』は速くて綺麗だ)


 楓は桜、そして彼女の繰り出す『剣舞』にベタ惚れしているのだが、技としての『面』は長田を模範としている。

 長身から繰り出す基本に忠実な『面』。それは、何処からどう見ても美しく、そして速い。『面』で勝負する限りは、楓ほどの圧倒的な脚力がなければ、身長差を埋めることはほぼ不可能だ。


「メェェーン!」

『バクゥッ!』

 またも、『合い面』は相打ち。両者、一歩も引かない。

 振り返っての『合い面』の打ち合いは続いた。

 長田の長身からの『面打ち』は的確に楓の『面』を捉える。しかし、圧倒的な脚力をもって飛び込みと打突を繋ぐ『瞬間』を消す楓の剣速は、打ち合いを続けるうちに僅かに長田の剣速を上回る……!

「メントォー!」

『ダァァーン!』

 凄まじい踏み込み音と共に、楓の『飛び込み面』は、長田のそれよりも速く『面』を捉えた。

「面あり!」

 三人の審判は楓の旗を上げた。僅差とはいえ、誰が見ても確かに楓の勝ちだったのだ。

 合い面勝負は、そのまま時間切れ……楓の一本勝ちとなった。


「楓……試合、めっちゃ楽しかったよ。ありがとな」

 試合後、長田は楓に爽やかな笑顔を向けた。

「俺にとっては最後の試合、個人戦に出れないのは悔しいけど。でも、それ以上に、本気のお前とぶつかり合えた……それが、めちゃくちゃ楽しかったんだ」

 長田は顔をクシャクシャにして笑った。楓は、長田のこの表情が好きだ。


「こちらこそ。キャプテンと真剣勝負ができて、とても楽しかったです」

 そして、楓は真っ直ぐ長田を見つめた。

「キャプテン……団体戦の大将、頑張って下さいね。だって、キャプテンが大将だから、僕達みんな、安心して戦えるんです」

「おぅ、任せとけ。大将には俺がいると思って、大舟に乗ったつもりで繋げてくれればいいぞ」

 長田はまた、顔をクシャクシャにして笑った。


「男同士の友情……か。いいよね、こういうのも」

 二人の様子を見て桜は微笑んだ。しかし、その時……。

「春山! ちょっと、体育職員室に来るように」

 顧問の名畑が桜を呼んだ。

(何だろう……?)

 稽古中に呼ばれるなんて初めてのことで、桜は不思議に思いながらも体育職員室へ向かった。



「えっ……お母さんが、倒れた!?」

 名畑の話を聞いた桜は、顔面が蒼白となった。

「あぁ。通りがかった近所の人が見つけたみたいなんだけどな」

「それで……今は?」

 いつもはクールな桜は、取り乱した様子で聞く。

「入澤病院に運ばれたみたいだ」

 その言葉を聞いた途端、桜は職員室を飛び出した。


 道着姿のまま、桜は病院への道を走る。

(うそよ、嫌よ……お母さん!)

 桜は駆けながら、あの日……トラウマとなっている、四年前のあの日の出来事を思い出していた。

 自分は、四年前の夏、杏……自分の最大の目標としている剣士でもあった、たった一人の血の繋がった姉を突然に失った。

 最愛の姉の死に目にもあえなかった……その悲しみは深く心に刻みこまれていて、今でも夢に見て泣きはらすほどであった。


(それなのに……私は、お母さんまで失うの!?)


 桜はあの日……四年前のあの日のように、必死で病院への階段を上がり、病室へ駆け込んだ。


「お母さん……!」

「桜……」

 やつれた顔の母親はベッドの上で点滴をうたれていたが、桜の顔を見ると生気が戻ったように、頬が桃色になった。

「心配かけて、ごめんねぇ。お母さん、ちょっと、疲れただけよ。すぐに良くなって、帰るから」

「お母さん……良かった。でも、本当に、無理しないで……」

 桜は母に縋るように言った。


 母は特に病気というわけではなかった。ただ、四年前から続く心労に夏の暑さが加わり、体が悲鳴を上げたのだと院長から説明された。


「お母さん……」

 桜の瞳から、涙が頬を伝って落ちた。

 母が病気でなかったことにホッとした一方、それほどまでに心に負担を抱えながらも懸命に自分を育ててくれる母を想うと、涙を流さずにはいられなかったのだ。


「お母さん、体が治るまで、ゆっくり休んでてね。絶対に、無理はしないで」

 病室に戻った桜は、瞳を潤ませて言った。

「でも、桜。あなた、ご飯作れないでしょ。どうするの?」

「もぅ! そんなの、どうにかなるから、何も心配しないで、ゆっくり休んでて」

 桜は瞳を潤ませながらも、少し頬を膨らませた。



「あれ……楓。あんた、待っててくれてたの?」

 道着姿の桜が戻ると、剣道場では楓が一人、待っていた。

 もう夜の七時。校舎にはほとんど誰もいない。


「はい。名畑先生から聞いたんですが、先輩、お母さんが大変なことになったみたいで」

「ったく、名畑のやつ、余計なことを……。大変って言っても、全然、病気とかじゃないから、安心して。あんたはさっさと帰りなさい」

 桜は楓を見て少し顔を綻ばせながらも、クールに言った。

「はい……。でも僕、待ってます」

「いや、待ってなくてもいいし」

 桜は楓が待っていてくれたことに喜びながらも、気持ちとは裏腹の言葉が口から出る。そんな桜の性格は、一年以上の付き合いの中で、楓もよく知っていた。

「いいから。早く、着替えて来て下さい」

 楓はにっこりと笑った。


「ちょっと、あんた。何で付いて来んの?」

 電車を降りてからも付いて来る楓を見て桜は少し眉を上げた。

「だって、心配だから……」

 楓は小さくなる。

「ふーん……。ま、いいけど」

 こういう時の桜は、素っ気ない態度とは裏腹に、内心では喜んでいる。そのことをよく知っている楓は言った。

「あの、先輩。そこのスーパーで買い物して帰りましょう」

「えっ?」

「あの……僕に、先輩の夕食を作らせて下さい」

「い、いや、そこまでしてもらうの、悪いし……」

「お願いです! 僕で先輩の役に立てること、そのくらいしかないから」

 楓は真っ直ぐ桜を見つめた。


『ドクン……』

 桜の中で鼓動が鳴った。それは、いつも……楓が真っ直ぐに想いを打ち明けてくれる時に鳴る鼓動だった。


「……勝手にしなさい」

 桜は頬を染めて視線を逸らした。

 それが桜にとっては精一杯のお礼の言葉だということは理解している。楓は、柔らかく微笑んだ。



 桜の家の台所。桜も驚くほど手際よく、鯖の味噌煮に小松菜の白和え、焼き茄子に豚汁を作った楓は、それらを食卓に運んだ。

「早っ!」

 桜の口からついその言葉が漏れる。

「本当に、無理矢理に押しかける形になって、すみません。でも……僕で先輩の力になれること、このくらいしかないから」

「ううん」

 桜は目を瞑った。

「楓……ありがとう」

 目を開けた桜は、澄んだ瞳で楓を見つめた。楓がこれほどに自分のことを案じ、想ってくれていることへの感激……いつもは素っ気ない態度の桜も、今日ばかりはそれを口に出さずにはいられなかった。

「いえ……」

 桜が自分にこんなに素直に礼を言うのは、初めてかも知れない。楓は驚くとともに全身が火照っていくのを感じた。

 楓は素直になった桜を見る。澄んだ瞳を照れ隠しに伏せる桜は今までで一番美しくて愛おしくて……楓は自分の溢れんばかりの熱い気持ちを抑えられなくなりそうだった。

「トイレ……お借りします」

 楓は自分の中に込み上げる熱い気持ちを必死に抑えて台所を出た。


 トイレを出た楓は、ある部屋に気を取られた。半開きの和室……そこからは、僅かに線香の匂いが漂ってくる気がする。

 好奇心を抱いてしまった楓は、後ろめたさは感じながらもその和室に入った。


「これは……」

 楓は驚いた。その部屋にあったのは遺影……桜と同じくらいの年齢の、切れ長の目をした美しい少女の写真だった。

 美しい少女が微笑む写真。その少女を見た楓は、儚さと……そして、底知れぬ強さを感じ取ったのだった。

 楓はその少女が桜の肉親……恐らくは、姉であろうことを直感した。


「ちょっと、あんた。何、人の家の部屋に勝手に入ってんの!」

 食卓を置いてこちらに来た桜は、眉をひそめた。

「すみません……。でも、この人……」

「あんたには、関係な……」

「先輩のお姉さんなんですか?」

 その言葉に、桜は言葉を飲み込んだ。

 突如、桜の瞳に涙が滲むのを見た楓は、自分の直感が正しかったと確信した。

「ほ……本当に、あんたには関係ない……」

「関係なくなんて、ないです!」

 視線を逸らす桜を楓は見つめる。

「僕、先輩のことが好きだから……先輩の辛い想いも悲しみも、全て受け止めたいんです。だから、関係ないなんて言わないで下さい」

 真剣に熱く話す楓の瞳に桜は視線を戻した。

 楓の目に映る桜の瞳は潤んでいる。涙で揺れる瞳はそれまで見たことのないほど哀しげで、しかし艶やかで美しく……楓は、自分の溢れる想いを抑えることができなくなった。

「先輩……」

 楓は桜に寄った。壁に背をもたれた桜は……まるで金縛りに遭ったように動かない。楓は桜の背に手を伸ばし、抱き寄せた。

 そして、静かに目を瞑り桜の顔に口を近付けた。桃色の美しい唇に、楓の唇が重なる……。


 桜は突然の楓の行動に、不思議と驚きはなかった。

(甘くて心地よい……)

 この心地よい温もりに、ずっと身を委ねていたい……。桜もそっと、目を瞑ろうとした。

 しかし……

(ダメ……!)

 突如正気に戻り、楓を突き放した。楓の体は、桜のもたれる壁際から離れる。


「す……すみません」

 桜に突き放され、冷静になるにつれて、楓の顔はみるみる赤くなっていった。

 桜に対してこんなにも大胆な行動に出たのは初めてのことで……しかし、どうしても気持ちを抑えることができなかったのだ。

「……帰りなさい」

 部屋の壁にもたれたままの桜は、ポツリと呟いた。

「えっ……」

「もういいから、帰って」

「いや、でも……。先輩……」

「今は、一人でいたいの」

 桜の瞳は、先程よりもずっと……どうしようもないほどの哀しみを帯びていて、楓は頷くことしかできなかった。


 楓が家を出た後、桜の瞳からは涙が溢れ出した。鼻の奥を痛くして止めどなく溢れ出るそれを堪えることができずに、桜はしゃがみ込み、手を顔に押し当てて涙を流し続けた。


(あいつは、こんなにも私を想ってくれている。でも、でも……私はまだ、幸せになることはできない。お姉ちゃんの果たせなかった夢。それを成し遂げるまでは……)


 言葉にならないその想いは、桜の瞳からただただ熱い涙となって、いつまでも流れ続けたのだった。

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