~第二章 選抜試合、開始~

 その日の昼休み。楓はいつも通りに豪華さ漂う重箱を持ち、桜の教室を訪れた。

「せんぱーい!」

 いつも通りに呼ぶと、いつも桜と一緒にいる美緒(みお)というお姉さんがニーっと笑った。

「ま、頑張りなさいよ!」

「いや、だから、あいつとは何でもないって」

 桜は頬を膨らます。いつもの、見慣れた光景だ。


 そんなやりとりに気付きもしない天然の楓は、無邪気に桜のもとに駆け寄った。

「先輩、今日も美味しく出来ましたよ! 卵焼きなんか、フワフワとできて自信作なんです」

「分かった、分かった。ありがとう」

 桜は赤くなりながらも睫毛の長い目を瞑り、照れ隠しに素っ気なくした。

(こんな先輩も可愛い……)

 桜にゾッコンの楓は、にっこり笑った。


 しかし……今日は、楓は気になることがあった。

「あの……先輩」

「ん?」

「成光中学の山口さんって、どんな人なんですか?」

「えっ?」

「だって、先輩……山口さんのこと、ずっと前から知っているみたいだったから」

 そう……楓が桜に最初に好意を伝えた時、彼女は確かに言った。「山口 稔に勝てるほどに強くなったら、考えてもいい」と。楓はその時から、二人の関係が気になっていたのだ。

 

 すると、桜は少し不思議そうな顔で尋ねた。

「あんたが、どうしてあいつのことなんて知りたがるの?」

「それは、その……やっぱり、次の大会で勝たないといけない相手だから」

「ふーん」

 桜は楓から目線を外した。

「あいつ、山口は……ヘタレよ」

「ヘタレ?」

 意外な言葉に、楓はキョトンとする。

「そう。腰の低い、ヘタレ。全く強そうに見えない。でも……」

 桜の瞳が少し潤んだ。

「物凄く……強い奴」

「物凄く、強い……」

 楓が反復すると、桜は頷いた。

「あいつはね。一番大切な人を失っても……それから目を背けずに受け入れるということを、私に教えてくれた。自分が一番辛い筈なのに、辛さを乗り越えて、より強くなった。私なんかより、ずっと強い奴よ」


 少し涙で潤んだ瞳を輝かせる桜を見て、楓は言い様のない切なさに襲われた。桜と稔の間には、自分の知らない……自分には入り込むことのできない、強い絆がある。そんな気がする。

 そして、稔の中に感じた奥深さと、底知れぬ強さ……自分は秋の大会で稔に勝てるのだろうか?

 いつもは自信満々の楓の心にも、不安が渦巻き始めていたのだった。


 そんな楓の心を悟ってか、桜はにっこりと微笑んだ。

「でも。あんたには、稔にはない……あんたにしかない強さがあるわ」

「僕にしかない、強さ……」

 桜は頷いた。


「あんたは、いつも真っ直ぐで迷いがない。誰が相手でも、恐れずに真っ直ぐ飛び込んでいく強さ……それは、誰と戦う時でもあんたの武器になる。それに、あの春の大会では、本当は……」

「春の大会では?」

 少し首を傾げる楓を見て、桜は微笑んだ。

「ううん、何でもない。それより! 今日から、秋の大会に向けた選抜試合よ。あんた、まず、秋の大会に出られるかしらね?」

「え、いや、大会に出られなかったら話にならないでしょ! 絶対に全勝してみせますよ!」

「ふーん、どうなるかしら?」

 桜は目を細めた。

「中一の男子でも、今年は結構見込みのある奴が入ってきてるからね。あんた、うかうかしてられないわよ」

「そんな……絶対、勝ってみせます! だって僕……先輩のことが好きだから!」


 楓が声を張り上げると、クラスの視線がこちらに集まった。桜は、居たたまれなくなって席を立つ。

「先輩……どこ行くんですか?」

「付いて来るな! トイレよ、トイレ」

 真っ赤になって教室を出る桜のもとに、美緒が駆け寄った。


「ひゅー、毎日のことながら、熱いねぇ」

「あんたも、付いて来んな!」

「いいじゃーん。私も、トイレよ」

 不貞腐れる桜を美緒が悪戯な笑顔でからかう……それが、いつもの見慣れた光景になっていた。



 その日の放課後の剣道場。

「ヤァァアー!」

「キィエェェアー!」

 選抜試合が始まった。剣道部員達は、固唾を飲んで見守る。

 楓の初戦の相手は中学一年生の土井。小学生の剣道大会での入賞経験者なだけあって、気迫は極めて充実している。


「コテェ!」

 先手を打ったのは、土井。手元を狙ったがやや外れ、そのまま『バーン!』という衝撃音と共に体当たりした。

(うん、いい気迫だ)

 見込みのある後輩を前に、楓はニッと笑った。

(ただ……)

 鍔迫り合いをしていた楓は、土井を押すとともに間合い(距離)を遠ざけた。竹刀を土井の中心に向ける。

(こいつはまだ、『脅威』じゃない……)


「ヤァァアー!」

「ドゥウアァアー!」

 楓は最大の気迫を放ち、土井の放つそれを飲み込んだ。土井は一瞬、たじろぐ。

 その刹那!

「メェェーン!」

『ダァァーン!』

 凄まじい踏み込み音と共に、楓の『飛び込み面』は土井の『面』をとらえた。

「面あり!」

 楓の選抜試合初戦は、鮮やかな一本勝ちとなった。


「せんぱ~い。いたいけな後輩に、ちっとは手加減して下さいよ~」

 『面』を外した土井はふくれっ面で言った。

「手加減? 誰が、そんなのするもんか」

 楓は、少しムキになる。

「僕は、いつでも本気だ。剣道は、本気と本気のぶつかり合い……勝負に手を抜くようじゃ、剣道をやる資格なんてない」

「ちぇっ、秋野先輩は固いんだから」

 土井は不満そうに眉をひそめた。

(手加減しろ、なんて言うようじゃ、こいつもまだまだだな)

 楓は、少し生意気な後輩を見て溜息を吐いた。


 次には中学三年の試合……宮永 対 飯島戦が始まった。

 立明中学剣道部の選抜試合は、総当たり戦で試合メンバーを決める。男子部員で、中学一年は五人、中学二年は楓一人、中学三年は四人。計十人の中から、レギュラー選手五人と補欠選手二人を決めるのだ。

 勝ちが一点、引分が零点、負けがマイナス一点として点数化され、最終的な合計点で上位の順にレギュラーと補欠を決定する。つまり、初戦の試合によって楓は一点を得て、土井はマイナス一点からのスタートとなったということだ。



「コテッテー! クッ……」

「メントォー!」

 『小手』を得意技とする宮永は、飯島のクセのある剣道に苦戦していた。

 飯島は真っ直ぐ『面』を打たずに、右手で竹刀を引きやや回転させて『面』を狙う。そのため、『小手』を狙うと飯島の竹刀の柄に当たり、『小手返し面』を打たれることになるのだ。

 楓は二人の試合を観戦し、うずうずとじれったい想いを抱えた。

(僕なら……飯島先輩相手でも、真っ向から中心を取って、真っ直ぐ『面』で勝負するのに)


 試合を観る楓の意識は、常にその試合場にある。そして、自分の思う通りの動きをしない宮永に悶々とした気持ちを抱えてしまうのだった。


「コテ……」

「メェェーン!」

「面あり!」

 勝負はやはり、飯島の『小手返し面』での一本勝ちで幕を閉じた。飯島は自信満々の笑みを浮かべて桜の方を向いたが……桜は気にも留めない様子で自分の試合のアップを始めた。


 その日の男子選抜試合はその二試合で終わり、次には桜達、女子の選抜試合が行われることになっているのだ。

 試合の審判をつとめる男子部キャプテンの長田と副キャプの宮永、そして楓は赤と白の旗を持った。


「はじめ!」

「ヤァアー!」

「キィェヤー!」

 女子の初戦……桜と中学二年の波間 加奈(かな)の試合が始まった。加奈は楓のクラスメイトだ。剣道部には初心者として入部したが、毎日の練習に直向きに取り組んでメキメキと上達し、今では立明中学二年の女子の中で最も強い。

「メェェーン!」

 加奈が先手を打つ『面』を、桜は軽やかに右へ捌いた。そして……

「メン、メントォ、ドォオ!」

「胴あり!」

 『面』の二連打を加奈が防御した瞬間にガラ空きになった『左胴』を狙った桜の『逆胴(通常とは逆の『左胴』を打つ技)』が決まった。

「クッ……」

 加奈は『面』の奥で白い歯を食い縛る。

(やっぱり、先輩、凄いな……)

 桜の赤い旗を上げた楓は思った。

(でも……)

「二本目!」

 試合が再開される。

(波間の気迫も、かなりいい線いってる……)


「ヤァアアー!」

「シャアァアー!」

 両者が気迫を充実させた。次の瞬間!

「メン、コテ、メェーン!」

「コテ、メントォ、ドォオ!」

 両者は激しく打ち合った。

 桜は、サクラの花びらが舞うような華麗な動き……『剣舞』を思わせる剣道をする。

 それには、楓をはじめとする男子部員達は皆、見惚れる。そして、女子部員達も皆、嫉妬するほどに憧れている。

 しかし加奈は、辛うじてではあるがその動きに乗り、打突の速度を加速度的に上げていく!そして……

『バァーン!』

 激しい体当たりと共に両者は離れ、間合いを遠ざけた。即座に両者は体勢を立て直し……同時に真っ直ぐに相手へ向かって飛び込む!

「メェェーン!」

「メントォー!」

 両者の打った『面』は完全に同時にお互いの『面』を捉えた。楓達三人の審判は、旗を下で交差させて『相打ち』の判定をする。


「時間です!」

 タイムキーパーをする部員が手を上げた。女子部員の初戦は桜の一本勝ちとなった。


「あんた、開始早々、不用意に打ちすぎ」

 加奈の隣で『面』を外した桜は、顔を前に向けたまま、すっと目を瞑る。

「本番の試合でも開始早々に瞬殺されたら、私、承知しないから」

 加奈も、歯を食い縛ったまま、無言で『面』を外した。

「でも……」

 桜はクールに加奈に顔を向けた。

「最後の『面』は、本当に惜しかった。気迫はこの調子で頑張りなさい。そうすれば、あんた、もっともっと強くなるから」

 こちらを向いた桜が微かに浮かべる美しい笑みを見て、加奈はドキッとした。

「は……はい!」

 少し赤くなって素直な返事をする後輩に桜はにっこりと笑った。


 続いての試合は一年の花山と二年の倉科の対戦……引き分けで両者点数の増減なし、の結果となった。


 現在、立明中学の女子部員は一年は三人、二年は加奈を含め三人、三年は桜を含め四人。計十人の中からレギュラーと補欠を決める。秋の剣道大会への出場選手を決める夏のこの時期には、剣道部全体にただならぬ緊張感が漂っていた。



「先輩。危なかった……ですね」

 試合後の小休止。楓は自販機でスポーツドリンクを買う桜の元へ近寄り、少し眉を下げた。

「あんたもね」

 桜はスポーツドリンクを下の受け取り口から取りながら言う。

「人のこと、心配してる場合じゃないでしょ。『小手』を集中的に狙うような奴と当たったら、あんた、稔と当たる前に負けるかもよ。実際、土井の最初の『小手』も惜しかったし」

「そうですよね……」

 楓は頭をポリポリと掻いた。

「『小手』を狙う相手は、どうも苦手なんですよね。まぁ、それも飲み込む気迫をもって『飛び込み面』を打てば良いだけの話なんですけど……」

 桜はそんな楓を見てクスッと笑った。

「ま、私もまだ、あんたがうちの他の男子部員に負けるとは思ってないけどね。ほれっ!」

 二つ買ったスポーツドリンクのうち一つを楓に投げる。

「あ……先輩、ありがとうございます!」

 楓は、不意に投げられたペットボトルをキャッチした。



「地稽古、お願いします!」

 束の間の小休止後、再び『面』をつけた楓のもとに加奈が来た。

「え……いや、でも、僕は春山キャプテンと……」

「キャプテンはもう、加川君と稽古してるでしょ」

 楓が見ると、桜はもう中学一年の加川と地稽古を始めていた。


 剣道部最強の女子部キャプテンである桜は大人気で、少しぼぉっとしているとすぐに他の部員が稽古を申し込むのだ。


「キャプテンが空くまでの間だけでも、私の相手して」

「そうだな……分かった。地稽古、お願いします!」

 楓と加奈は、蹲踞(しゃがんだ状態での礼)をした。



「ヤァァアー!」

「キェエエヤー!」

 加奈は楓と対峙する。両者が発する最大の気迫……それは、他の部員達の目を惹きつける。その刹那!

「メェーン!」

「メントォー!」

 『合い面』は激しく、吸い寄せられるようにお互いの『面』を捉えた。

『バァーン!』

 加奈は楓と激しくぶつかる。

(力では負けない!)

 加奈は踏ん張る!しかし、その目にははっきりと……楓の『剣』の放つ『剣光』が映った。

「メントォオー!」

『バクゥウッ!』

 楓の『引き面』(体を後ろに引きながら打つ『面』)が、凄まじい威力をもって加奈の『面』を捉えた。楓は『引き面』の後の残心……振りかぶった状態で思い切り後ろに飛び、『打突後の心構え』を完全に決めた。

(クソッ……!)

 加奈の『面』に走る激しい衝撃……それは、打たれた瞬間に見えた『刹那の剣光』とともに、自らの負けを実感させた。


「『面あり』、だよな?」

 楓は加奈に寄り、確認する。悔しいが、加奈は頷くことしかできなかった。

「それじゃあ、この地稽古はここまで……」

「待って! もう一本……」

 すると、楓は眉をグッと下げてすまなさそうな顔をした。

「ごめん。春山キャプテン、もう空きそうなんだ」

 加奈が見ると、桜は加川と地稽古後の蹲踞をしていた。


(こいつには……秋野 楓にだけは負けたくない!)

 加奈はずっと思っていた。初心者として楓より先に入部した彼女は最初のうちは、その学年で一番『上手』だった。

 一学期の途中で、見るからに弱そう……華奢なお坊ちゃん、楓が入っていた。自分は天地がひっくり返ってもこんなお坊ちゃんに負ける筈はない。そう、思っていた。


 しかし、楓は部のエースの先輩、桜にべったりとくっつき、加奈が驚くほどに急速に上手く、そして『強く』なっていった。そして、初練習試合……加奈が中学一年の時に初めて行った試合は楓との対戦だったのだが、『面』で敗北したのだ。



「今日は悪かったな」

 稽古後、楓が着替えを終えて帰宅しようとしている加奈の元にやって来た。

「でも……波間。お前は本当に強いよ。春山キャプテンとの試合でも惜しかったし、さっきの地稽古の最初の『面』でも、打ち負けるかと思った」

「お世辞はやめてよ。私、負けたじゃない」

 加奈は声を荒げた。

「まぁ、力で負けるのは……仕方がないよ」

「力負けは仕方がないって、私が女だからって、言いたいの?」

「いや、そうじゃないけど……」

「女でも、春山キャプテンは物凄く強いじゃない。私、あんな剣道ができるようになりた……」

「できないよ」

「えっ……」

 楓の言葉に加奈の顔色が変わった。

「波間。お前には、キャプテンのような剣道はできない」

「……何よ、偉そうに」

 加奈の目に涙が滲む。

「そりゃあ、あんたみたいな才能のある奴には分からないわよ。才能のない、私の気持ちなんて……」

「いや、才能がないなんて、言ってな……」

「もう、話しかけないで!」

 加奈は涙を拭い走り去った。


(悔しい、悔しい……)

 帰りの電車に乗り込む加奈の中で、その言葉が木霊する。

 本当は、加奈も分かっていた。自分には、桜のような華麗な剣道はできない。桜の華麗な『剣舞』を真似しようとすると、恐らくは自分の剣道の基盤が崩れ、誰にも勝てなくなる。

 でも、楓が桜を見る『憧れ』の……いや、それ以上の感情を含む眼差しを見ると、胸が苦しくて、悔しくて、悔しくて。やり切れない想いがするのだった。


 加奈がその感情に『恋』と名付けるのに、そう時間はかからなかった。

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