~第一章 何のために勝ちたいんだ~

『ジリリリリ!』

 今日も早朝五時に合わせた目覚まし時計が鳴り響く。タオルケットに包まった半袖寝間着姿の秋野 楓(かえで)は、即座にそれをとめて起き出した。

 いつも起きる時間。両親もまだぐっすりと床についているような早い時間だが、楓には早朝からの日課があるのだ。

 寝間着姿のままフライパンに油を引き、だし汁と少し砂糖を混ぜた溶き卵を薄く広げる。料理する楓は鼻唄まじりだ。

「桜先輩、卵焼きは甘いのが好きだからな」

 桜がクールに、しかし少し右頬を膨らませてお弁当を食べる顔を思い浮かべると、楓の顔は自然に綻んだ。


 楓は毎日、早朝に起きて自分と剣道部の憧れの先輩……桜の分の弁当を作る。今日は、卵焼き、唐揚げ、ポテトサラダ……いつもと変わらぬ定番メニューを豪華さ漂う重箱二つに詰め込んだ。

「よし、上出来!」

 完成したお弁当を眺めて大満足。楓はもう一つの日課の準備をした。

 上下にジャージを着てスポーツシューズを履いた。毎朝、欠かさずジョギングをしているのだ。

 それは、自らの最大の武器である足腰の強靭さにさらに磨きをかけるためだった。

 カエデが紅色に色付く秋の大会で、どうしても勝たなければならない相手がいるからだ。その相手とは、そう……『山口 稔』。

 稔は、地区で最強の中学剣士だ。

 桜に憧れて剣道を始めた楓は、人一倍に練習に打ち込んだ。春の大会で稔に勝ったら、桜に告白する……そう心に決めていた楓は、自らの最大の武器を如何なく発揮し、稔と互角以上の試合をした。しかし……あと一歩のところで『最強』には届かず、稔に敗れたのだ。

 だからこそ、楓は秋の大会ではどうしても勝たなければならない。弱々しかった自分が、桜を守れるほどに強く……そう。『最強』になったことを証明するために。


 東の空を朝焼けが薄っすらと金色に染めてゆくのを見上げながら、楓は走る。

 いつものコース……青々と草の生える川辺、高架の下を走る。もう七月とは言っても、朝に頬を流れる空気は、やや冷んやりとして気持ちがいい。微かに朝焼けから射す光がうっすらと楓を照らす。そんな中、楓はひたすら無心になり、走る、走る。

 その時だった。自分の足元に、茶色くモコモコしたものが飛び込んできた。楓は思わず足を止めた。

 足に、小さくて可愛い犬が擦り寄ってきている。楓が抱き上げると、その犬は頬をペロペロと舐めてきた。

「ははっ、くすぐったい」

 純真な犬に、楓は目を細めた。その時……

「これ、あんず。何してる!」

 突如掛けられた声に、楓は振り返った。赤いリードを持った男子……自分と同い年か、やや上くらいの少年がこちらに走って来た。


「すみません。ウチの子、お転婆で」

 頭を掻きながら『あんず』と呼ばれるその犬を片手で受け取る男子を見て、楓は少しドキッとした。

 大きな透き通るような茶色い瞳に長い睫毛。栗色の髪、白い肌……。

 凄い美少年……というよりは、美少女にすら見える。しかし、声は確かに男子のそれであった。

 楓は同性を見てドキッとしてしまうのは初めてのことだった。


「いえいえ。可愛いワンちゃんですね!」

「ありがとう。可愛いでしょ?」

 彼が純粋な笑みを浮かべると、楓はモジモジとしてしまった。


「それはそうと……」

 彼はあんずを両手で抱きながら尋ねる。

「君、ジョギングしてるのは……何か目的があるの?」

 楓の足に目を移した。

「はい。足腰を鍛えたくて」

「足腰ねぇ……」

 意味深に、少し目を細めた。

「もうすでに、かなり強いように見えるけど」

「えっ?」

「だって、君の足……君のそのスリムな身体の割には、かなり太いよ」

「それは……」

「足腰を鍛える先に、何かある、とか?」

 彼は悪戯に、ニッと笑った。

「はい。どうしても……勝ちたい人がいるんです」

 すると、楓の顔を見る彼は少し目を丸くした。そして……何かを察したようにまた目を細めた。

「そっか。勝ちたい……か」

 口角を上げて楓を見つめた。

「何のために?」

「えっ?」

「君は、何のために勝ちたいんだ?」


 サラッと吹いた風が、あんずを抱える彼の髪をなびかせた。その瞳はとても透き通って、しかし、底知れぬ深さを醸していて……楓は吸い込まれるように金縛りに遭った。

「何のため……僕は、大切な人のために勝ちたい!」

「大切な人のため?」

 自分の意識を吸い込むかのような透き通った瞳を見つめたまま頷いた。

「僕には……とても大切な人がいるんです。その人は、強くて、強くて、僕なんかの手の届かない存在で……でも、僕はその人に認めてもらいたい。少しでも、その人に近づきたいんです」


 楓は自分の一途な想いを口に出した。初対面の人に突然こんなことを言うのはおかしなことだとは分かっていた。しかし、楓は……彼に対しては、自分のやり場もないほどに真っ直ぐな気持ちを隠してはいけない。そう、思ったのだ。


 その言葉を聞いた彼は、すっと無表情に口を開いた。

「もし、いなくなったら……」

「えっ?」

「もし、その大切な人に二度と会えなくなったら……それでも、君は強くなり続けることができる?」

 楓はキッと彼を睨んだ。

「そんなことはありません。二度と会えないなんて、そんなこと……」

「それは……分からないぞ」

 無表情を崩さない彼は、冷めた眼差しを楓に向けた。その瞳は底知れぬ悲しみを含むように見えて、楓はゾクッと鳥肌が立った。

「実は俺も、どうしても忘れられない『大切な人』がいた。でも俺は、その『大切な人』を失った……」

「僕は失ったりなんかしません。絶対に守ってみせます!」

 楓は瞳に涙を滲ませた。

「絶対に守る?」

「僕は、あの人のことが好きだから……好きで好きで堪らないから、何があっても守ってみせます。失うなんて……二度と会えなくなんて、させません」

 潤んだ瞳に、赤い決意の光が灯った。

「ふーん」

 無表情の彼は目を細める。

「でも……どんなに守りたくても、やっぱり守れないこともあるぞ」

 細めた目でうっすらと射し始める陽を見つめた。

「俺のように……」

 その深い瞳はどうしようもないほどの憂いを帯びていて……楓は動くことができなくなった。

「でも……僕はやっぱりあの人のことが好きだから、絶対に遠くへ行かせたりなんかしません。僕の命に替えてでも、あの人のことを守ってみせます」

 楓は金縛りに遭いながらも、それを吹き飛ばすほどの気迫を含む言葉を放った。楓の言葉を聞いた彼の無表情は崩れて、プッと吹き出した。

「君の命と替えてしまったら、やっぱり二度と会えなくなるぞ」

「うっ……」

 楓は言葉に詰まる。すると、男子はそっと微笑んだ。

「でも……きっと、君の『強さ』はその人への『想い』からきてるんだろうな」

「えっ?」

 彼は楓を包み込むような笑顔を浮かべた。

「次は、決勝の舞台で会おうぜ。『秋野 楓』君」

「えっ、どうして僕の名前を……?」

 楓は目を丸くした。しかし、踵を返して、空を美しく金色に包む朝焼けに照らされながら神々しいほどのオーラをその背に纏い帰る彼を見て……ようやく、彼が誰か理解した。


「山口……稔」

 楓はそっと呟いた。

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