7
ガラスに映っている顔は、陰気だった。
これが自分の顔だと気が付くのに、少し時間がかかった。
どうやらこの週末、次々と面接失敗に終わった最後の会社から出てくるところだった。
出てくると、偶然ジローと鉢合わせをした。
「うお!?アニキ、こんなところで何をやってるんだ?」
ジローはびっくりしたのか、後ろに少しのけぞった。
そのリアクションがわざとらしく見えてしまうのは気のせいだろうか?
「ああ、今面接を受けてきたところ。」
「ふうん、どうせダメだったろ?」
ジローは勝手に決め付けてきた。
これに対して、彼は何も言う気はないとでもいうように黙っていた。
ジローはその沈黙を肯定と受け取ったようだ。
人の不幸がそんなにうれしいのか、にやにやしている。
彼はそれも無視して一緒に地下鉄駅まで歩いた。
「これから何か予定はあるのか?」
ジローはこっちを向いて聞いてきた。
まだニヤついている。
「ああ、もう少ししたら彼女と食事に行くよ。彼女とは言ってもまだ付き合ってるわけじゃないけど。」
彼は卑屈に聞こえないように答えた。
「へえ?まだちゃんと会ってるんだな。こいつは意外だ。」
ジローは本当に意外に思ったのか、口笛を軽く鳴らした。
妙に芝居がかっていて、不快に思えてしまう。
「ああ、そうだな。自分でもそれは意外だと思っているよ。お前だってナッツと付き合ってるんだろ?先週、駅前にいなかったか?」
「よく知ってるじゃないか。見てたんなら声かければいいのに。」
「そんな気になれなかったよ。すぐにホテルに消えたし。」
「何だ、そこまで見てたのか。まあいいや。あいつは頭は空っぽだけど、ベッドでは天才だぜ?どうすれば男が喜ぶのかよく分かっていやがる。」
ジローは思い出しているのか、見ていて気持ち悪い程にやついていた。
まだまだひとりで語り続けていたが、彼はもう聞く気などないとでもいうように、視線をジローから進行方向へとそらした。
地下鉄駅までやってくるとジローは構内へと消えた。
彼は近くの喫茶店に入り、彼女との約束の時間になるまで時間をつぶした。
アイスコーヒーを飲みながら、図書館で借りてきた本、レイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウシリーズを読んだ。
今は電子書籍があるけど、僕は紙媒体のほうが好きだから、荷物になるけど電車に乗る時はよく持ち歩いている。
しかし、集中することができないのか、すぐに読むのを諦め、本を閉じた。
そして、ガラス窓から外を眺めた。
大学生やフリーターらしき若者たちが多く目に付いた。
間の抜けた大口を開け、笑いながらしゃべっている。
こうして見ていると、人間性が薄っぺらく見える。
おそらく、彼は冷めた目で彼らを見ていることだろうが、客観的に見ると、彼もその薄っぺらい人間の一部にしか見えてはいないことだろう。
大体の人間は、自分のことは棚に上げているものだ。
次第に道行く人々が、スーツ姿のサラリーマンやOLたちに移り変わってきた。
どうやら、いつの間にか定時を回ったようなので、彼は店を出た。
待ち合わせ場所の水をたたえたガラスの大屋根のある地下鉄駅入り口で彼女を待った。
そして、彼女がやってきた。
ナッツと一緒だった。
ナッツは例の間の抜けた口調で彼に軽く挨拶だけすると、彼女に何か言って帰っていった。
まだ、食事をするには時間が早いので、彼らは街を散歩した。
もう日は沈んでしまったのに、スーツでは汗ばむほどの暑さだった。
カップルたちはこの熱気でも、お互いを求め合うようにくっついて歩いていた。
そのせいか、彼は急に彼女の手を取ろうとした。
しかし、右隣りを歩いていた彼女の表情がこわばった。
この明らかな拒絶反応に、彼は急いで手を引っ込めた。
だが、彼女の視線は前方に向かっていた。
彼に対しての反応ではなかったので、彼はほっと一息ついた。
彼女の視線の先には一人の男が歩いていた。
1日に2回はシャワーを浴びていそうなほど、清潔感のある男だった。
彼よりも年齢は上かもしれないし、下だとしても納得はできる。
世間一般では美男子と言われているような中性的な野郎だ。
僕にはよく分からないが、イタリア製らしき、多分オーダーメイドのスーツを着ている。
直感的に茹で過ぎてしまったパスタのように芯の無い男だと思える。
とにかく、生理的にいけ好かない奴だ。
男も彼女に気が付いて、歯磨き粉のCMのような笑顔でこっちに近づいてきた。
「やあ、おつかれ。君ももう上がりなの?」
声も中性的だった。
香水の臭いにも、気分が悪くなってくる。
「はい、今はそこまで忙しくありませんしね。」
彼女の表情は無理矢理作ったような笑顔だった。
「そうだね、ちょうどプロジェクトも一段楽したところだし、ゆっくりと休みたいよね。これからどこか飲みに行かない?」
男の目には彼など映ってはいないようだ。
「いいえ、遠慮させていただきます。これから彼と行きますから。」
彼女は急に彼の手を引っ張った。
彼女の声は表面上何ともないが、その裏にある感情には戦慄した。
その証拠に、彼手を引っ張った時の彼女の力は、この小柄な身体からこんな力が出るものなのかと疑問を抱くほどだった。
それに対して男は、生まれてこの方こんな態度を取られたことがないのだろう、明らかな拒絶に全く気が付いてはいなかった。
しかし、彼の存在にだけは気が付いたようだ。
アスファルトにへばりついた得体の知れない物体でも見るみたいに、彼を上から下まで眺め回した。
自分では無意識なのだろうが、微妙に鼻で笑った。
そして、左手を差し出してきた。
薬指に金の指輪が光っている。
「どうも、私は彼女の上司の東です。」
「こちらこそ、僕はこれから彼女と食事に行く者です。」
彼はにこやかにアメリカ流の男らしい握手で返した。
東は一瞬顔をしかめたが、何事もないような顔を装った。
彼は、まだ彼の手を取っている彼女の手をガラス細工でも扱うように優しく包み込んだ。
彼らは東に社交辞令だけをして、再び歩き出した。
このつないだ彼女の手は、小さくて儚げだった。
「さっきの良かったわよ。」
彼女は上機嫌に白ワインを傾けながら笑っていた。
彼らは街中にあるワインバーへとやってきた。
彼女はこの店を気に入っていて月に2回のペースで来るらしい。
「でも、ちょっとまずかったかな?君に迷惑がかからなければいいけど。」
彼は少しやりすぎたかな、と反省でもするように頭をかいている。
「いいのよ、それぐらい。先に失礼なことをしたのはあの人の方なんだから。それに上司には変わらないけど、直属の上司じゃないし。」
「ねえ、あの人のことだけど……いや、何でもない。」
彼は自分から言い出したが、言葉を濁した。
そして、反射的に謝った。
「ううん、いいのよ。言いたいことはわかるわ。そうよ、あの人が元彼よ。」
彼女はグラスに半分ぐらい残っているワインを一気にぐいっと飲み干した。
「私がバカだった。あんな見せ掛けだけの男に引っかかるなんて。結婚していたことも隠していたのよ。会社にいるときは指輪もしてないし。あの人はまだ会社に来たばかりで、あの人のことは誰も良く分からないの。社長がよその会社から引き抜いたってことぐらいしかね。確かに、仕事はできるよ。でも、それだけの退屈な男なの。……ごめんね、愚痴ばっかり言っちゃって。軽蔑した?」
彼女は自分に腹が立っているようだ。
申し訳無さそうにチラリと上目遣いに彼を見上げた。
「そんなことないよ。君が悪いわけじゃないし。」
そうは言いながらも、彼の中で動悸を感じる。
彼は頭の中で、どんな物騒なことを考えていることだろう?
「ありがとう、優しいのね。でも、時にはその優しさが相手を傷つけることもあるのよ。覚えておいてね。」
「ごめん、そういうつもりで言ったわけじゃ。」
「大丈夫、分かってるから。それにしてもスーツ似合わないよね。わざわざ着てこなくてもいいのに。本当はあの会社じゃないんでしょ。」
彼女はズバリと言い当てた。
「あ、いや、これは……」
彼はしどろもどろになってしまった。
予想もしていないことを的確に言われてしまい、何を言えばいいのか分からなくなってしまったようだ。
「ごめん!言おう言おうとはしてたんだけど、なかなか言えなくて。でも、何で分かったんだ?」
「そんなの最初から分かっていたわよ。あなたたち3人はどう見ても違うって。分からないと思ったの?」
彼女は彼の目を真剣に見つめていた。
彼は母親にしかられてしまった子供のように、目が泳いでしまった。
一目見ただけでダメ人間と分かってしまうとは。
彼女は自分のことを見損なってしまったのだろうか、と彼は思っているだろう。
でも……
「ちょっと、そんな困った顔しないでよ。怒ってなんかいないから。大体、あなたはサラリーマンなんかできる人じゃないのよ。変な意味で取らないでね。決まりきった型になんか納まらない人なの。女の勘ね。」
彼女は真顔で言った。
彼はあまりにも予想外のことを言われ、開いた口がふさがらないといった感じになっていた。
「買いかぶりすぎだよ。」
「私の勘なんかじゃ当てにならないって言うの?確かに、前は見当違いもいいところだったわ。でも、今度こそは絶対の自信があるの。」
彼女の目を見ると、本当にそう信じきっているようだった。
だが、残念ながらまた外れてしまうことは間違いない。
僕自身、自分の器がどの程度かはわきまえているつもりだ。
型に収まらないほど器が大きいのではなく、型にすら入れてもらえないほど歪なだけだ。
「ちょっと、そんなに黙り込まないでよ。自信なくしちゃうじゃない。」
彼女はつんと口を尖らせていた。
彼は彼女に機嫌を直してもらおうと謝った。
彼女はふうと軽く息をついて、
「ねえ、あなたのことをもう少し教えて?」
と彼女は唐突に訊ねた。
彼は彼女の思いがけない一言で口ごもってしまった。
しかし、彼は覚悟を決めたかのように大きく息を吐き出した。
「分かった。僕のことを知ってもらうには、僕の過去のことを知ってもらうことが一番早いと思う。でも、もしかしたら、僕のことを本当に嫌いになってしまうと思うよ?」
彼は彼女の反応をじっと見ていた。
彼女はそのことを少し考えているようだった。
そして、彼女はまっすぐに彼の目を見返した。
「いいわ。私から言い出したことだから、しっかりと最後まで責任を持って聞くわ。」
「そう?だったら僕も正直に全てを話すよ。どこから始めるべきかな?うん、この話しが最適かな。」
彼は言葉を区切り、ワインを一口含んで口を湿らせた。
そして、やや緊張気味に小さく息を吐き出した。
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