英雄という名の傀儡

武田コウ

第1話 英雄という名の傀儡

 金色の鎧で武装した男により放たれた必殺の剣戟が化け獅子の首を捉えた。腕を振るうだけで山が砕け、海が割れるほどの怪力、そんな力で振られた刃は確実に獅子の首を両断するだろう、男はそう確信した。

 しかし化け獅子の皮膚は、男の刃を全く通さず逆に剣の方が耐え切れずに砕け散る。


(ネメアーの獅子。その強固な皮はどんな鋭利な刃も通さず、どんな頑丈な矢でも貫けない。皮膚の下には筋肉が変化してできた甲羅が存在する)


 どんな鋭利な刃も通さない。伝説では聞いていたが、実際に対峙してみるとなんともやっかいな怪物である。男は砕けた剣を捨てると、腰布に釣るしていた巨大な棍棒をするりと抜き放つ。

 男の名はヘラクレス。ゼウス神とアルクメーネーの間に生まれ落ちた半神半人の英雄だ。



 それは、まだ神々と人間たちが共に暮らしていた時代の物語。所謂神話と呼ばれる時代の出来事である。

 主神たるゼウスは、とある日、人間の美しい女に恋をした。どうしても想いを遂げたかったゼウスは、その女の婚約者に化け、一夜を共にする。その行為が妻たるヘラの怒りを買うとは知らずに……。

 生まれくる子の名はヘラクレス。ゼウス神の加護を受け誕生したその赤子は、しかし生まれた瞬間からヘラの怒りを買っていた。

 


 ヘラクレスの棍棒が獅子の頭を殴打する。獅子は一瞬怯んだが、致命傷には至らず、刹那の間に体勢を整えるとその凛々しい双眸に怒りの光を灯し、ヘラクレスへと襲い掛かる。

 猛烈に襲い来る鋭利な鍵爪に……しかしヘラクレスは避けず、その攻撃を一身に受け止めた。

 先ほど砕けたヘラクレスの剣ほどもある巨大な鍵爪は、胸の鎧を穿ち、肉を抉る。しかしヘラクレスは痛みなど感じてはいないかのように、肉を抉られながら獅子の頭へと棍棒の一撃を繰り出した。

 肉を叩く湿った音、そして自慢の棍棒が折れる乾いた音が鳴り響く。剣は砕け、今棍棒もなくなった。そんな絶望的な状況の中、頭を強打され、ふら付いている獅子の元へ駆け寄ったヘラクレスは、素手のまま獅子に組みついた。

 ドタバタと暴れる獅子とは対照的に、ヘラクレスはあくまで冷静に万力を込めて獅子の首を絞めていく。

(俺はなぜこんな事をしているのだろう)

 一瞬の隙も許されない戦闘の最中、しかしヘラクレスの思考は過去へと遡ってゆく。



 ヘラクレスは愛に生きる男であった。神々に匹敵する腕力を持ちながら、ソレを用いて私欲を満たすような事は無かったし、その力を奢るようなちんけな人格も持ち合わせてはいなかった。そもそもヘラクレスのたった一つの欲望は力によって叶えられるようなものではなかったのだ。


“愛 ”

 

 ヘラクレスは愛に生き、愛に死ぬと決めていた。完全無欠ともいえる彼を殺すものがあるとすれば、それは愛以外にあってはならぬのだ。

「父上! どうして…………」

 声が聞こえた。

「アナタ、正気に戻って……」

 誰かが叫んでいる。



(    待て

          この声は

  知っている

私           の

           愛する

妻と

      子    の




     声        )



 正気に戻ったヘラクレスは、自分が妻と子を殺してしまった事を知る。

 ゼウスの妻であるヘラは待っていたのだ。憎きヘラクレスが幸せの絶頂にある時に絶望に叩き落とす為、その怒りを己が内に溜めこんでいた。妻と子を持ったヘラクレスに狂気を吹き込み、彼自身の手で絶望への扉を開かせるため。



 腕の中で暴れる獅子の力がだんだんと弱くなってゆき、戦いの決着が近い事を悟らせる。

(この化け獅子に恨みは無い。だが、我が罪の償いの為に俺は獅子の命を犠牲にしようとしている)

 それは命を奪った罪を償う為に、新たな命を刈り取るという矛盾。その事に心を痛めながら、それでもヘラクレスは力を緩める事をしなかった。

 


「十の試練……ですか」

『そうだ、ヘラクレスよ。お前が罪を償う為に必要な試練だ。あるいはその試練は実現不可能なものであるかもしれん。達成する為に悠久の時を必要とするかもしれない。それでもお前が罪を償いたいというのならば……』

「アポロン様、私はヘラの乳を吸った為に死ぬ事が出来ません。しかし愛無き世界に生きるつもりもありません。その試練、お受けします。もし私が試練を達成できたのなら、その時にはアポロン様のお力で、どうか私の中の人間を殺して下さいませんか」

『人を捨て、神になる事を望むか』

「私にはもう人として生きる事は出来ませんので」

『……よろしい。私からゼウス神に掛け合ってみよう』



 ネメアーの谷で仁王立ちをするヘラクレス。体の至る所に傷を負い、血に塗れようとも彼の凛々しさが損なわれる事は無い。その足元には伝説の化け獅子が死んでいた。

「恨みは無い。貴様を悪だとも思っていない。しかし俺の業が命を奪う事であるのなら、その業によってしか罪が償えないのなら、俺は命を奪う事を躊躇いはしない」

 ヘラクレスは深く一礼をすると、獅子の命に敬意を表し、そっと目を閉じた。

「俺は少し貴様が羨ましい。それほどの力を持ちながら、まだ貴様は死ぬ事ができるのだから」



 全ては神の掌の上

 悲しき英雄の物語

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