第3話
「願い……事」
「はい。初詣です」
こくりと頷いてから、初日の出様は傾いた太陽を見上げた。
「初日の出は、落ちてからでは願いを叶えられません」
申し訳なさそうな悲しさのにじみ出るような、そんな瞳で私をまっすぐ見据える。まるで朝日の光が、一晩中降り続いた雪を優しく解かそうとするように。
「……で、でも、あの……」
私の瞳が揺れている気がした。動揺、そう言えばいいのかもしれない。朝の光は、暖かいというにはまだ足りないけれど、微かに感じる温かさは、凍った雪を撫でていく。
けれど、雪はまだまだ冷たかった。
言ってしまっていいものか? ちらりと現れた思いを、冷たい手が握りつぶしていく。そんなはずはない、また迷惑をかけてしまうのだと言い張っては聞いてくれないのだ。
束の間、私は冷たい手に囚われた。
冷たい手は次々に、口を持ち始める。そしてその口が開いたかと思えば、心のつぶれそうな重圧と共に叫んでくる。
お前のせいだ。お前が下手だから。お前が失敗するから。
まともに言葉を紡げない、お前のせいだ。自分の意思すら伝えられない、お前のせいだ。すぐに諦める、お前のせいだ。嘘をつく、お前のせいだ。
投げかけられる暴力に、やめてくれ、という言葉は出なかった。出せるはずなかった。何故ならそれは事実だから。受け入れるべき罪だから。いつもいつも後悔するくせに、私は何一つ変われていないことが悔しかった。そう感じても、すぐに逃げてしまう自分が嫌いだった。周りの人に指摘されたら物凄く怒り狂って、自分を正当化しようとして落ち着く私が嫌いなのだ。
いつまでたっても何もできない何も変われない。どうせ自分は出来ないからと、いつしか高く築かれた諦念が、私の自信を奪い、孤独へと追いやった。
今もとても心が痛いのに辛いのに、それを忘れようとするだけで、解決しようとはしないのだろう。どうせ、自分は逃げてしまうのだから——
「——いいえ、いいえ!」
ぱっと、もとの白い境内に戻ってきた。目の前で初日の出様が泣きそうな表情になっている。けれど、私の心の奥底を、冷たい手が覆い隠していく。冷たい手が幾本も絡み合い、どんどん凍らせていく。
「あなたの降らせた雪は、決して悪いものではない!」
気が付けば、陽はもうずいぶんと傾いてきていた。初日の出様はまた、私の手を包み込む。けれど初日の出様の温もりは感じなくなっていて、手のひらの雪も心なしか増えていた。
「
それでも、初日の出様は必死に叫ぶ。
「それはあなたが、願ったからです。変わりたいと、年を越せばまた変われぬままだからと、願ったからです! 心の底から!」
「…………」
……変わりたいと思ったことは、ない。初日の出様も、きっと心の声を聴き間違えたのだ。私はそんな、明るいことを願うことはない。いつだって後ろを見てばかりで、大晦日も、あぁまた一年が終わったなぁと、何も変わってないなぁと、無駄なことばかりだった一年を後悔したんだ。
「あなたの願いが後悔だというのなら、止まった時間は何のためにあるというのですか!」
「…………っ」
一瞬、暗闇の中で何かが弾ける感覚がした。
すぐ近くに、掴める未来がある気がした。手を伸ばせば届きそうな、手を伸ばすことを望んでいるかのような。
私は、また、後悔を積み重ねてしまうのだろうか? ふとそんな疑問が頭をよぎる。
「もう後悔はしたくないと、あなたの願いが降り積もり、この町は時間を止めました。新しい年を迎えると同時に、変わることを望んだから」
初日の出様は、私の手のひらの雪ごと挟むようにして包み込んだ。温かさを感じなかったはずなのに、ずっと解けなかったはずの雪が水になって手のひらを零れる。
その時、潤んだ初日の出様の瞳に映った自分の目は、なんと暗く冷たいのだろうと思った。しかしその瞳も、水が流れるにしたがって曇りを晴らしていく。
積雪に、陽光が差してきた。
手のひらの雪が解け切ってしまうと、今度は涙があふれてきた。心の中の氷を、全てとかしてしまうように。
力が抜けて前に倒れ込みそうになると、初日の出様が受け止めてくれた。ふわっと、温かな、優しい香りがした。
「……初日の出様」
「はい」
「私、変われるでしょうか」
そんな言葉しか出なかった。けれど、そうだ、そんな言葉ではだめだ。
変わりたい、変わらなきゃならない、いやむしろ変わらせてください。あなたに誓えば、出来る気がする。
なんにも声に出せていなかったけど、初日の出様が嬉しそうに笑った声が、耳元で聞こえた。
「はい」
地平線に、陽が落ちていく。
涙でぐしゃぐしゃになった視界で、初日の出様の声が聞こえる。
「それがあなたの願いなら。必ず、必ず……——」
熱いわけでもなく、冷たいわけでもなく。
ただあたたかな、同じ年に二度と見られないあなたがあった。
陽光は、凍った雪を優しく撫でて。
束の間の時間は、私の心を解かしました。
気が付いた時には、あの真白い神社は無く、初日の出様ももちろんいなかった。暗い、街灯のない道にぽつんと、座っていた。
「……くしゅん」
さむい。それもそうだ、こんな雪降る夜に、着込みもせず座っているのだから。でも不思議と、寂しくはなかった。心の中に太陽が一つ、浮かび上がっているかのようだった。
「よいしょ」
家へ帰ろう。暖房が効いていてほっこりするはずだ。私は、白く光る雪明りを頼りに、家までの道を歩いていった。
冷え性だった手は、手袋をしていないのに、温かかった。
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