第20話 社外発表の可否
いい人間ばかりじゃないぞ! / 報告資料の修正
1993年5月10日10時頃に 技術部の居室で作業していた川緑のところへ 米村部長がやって来て今朝の部長会議での吉岡研究本部長の話をした。
彼は「近く 吉岡本部長は 新規事業部の本部長を兼任することになりましてな、事業部の社外発表案件は 本部長がその内容を理解していないものは発表を許可しないということですわ。」と言った。
米村部長は 川緑に ラドテックでの発表の件について 本部長の可否判断のために 今月中に発表用の下書きを提出するようにと言った。
5月31日午前11時頃に 川緑は A4用紙50枚に ラドテック発表用の資料をまとめてクリップすると、これを持って米村部長のところへ行き「チェックお願いします。」と言って資料を提出した。
資料を川緑に差し戻した部長は「わしはいいよ。見ても分らんから。」と言い、その資料を技術企画管理部の野村部長に持って行くように指示した。
野村部長を訪ねたが 彼は出張中であり、川緑は「資料のチェックをお願いします。」と書いたメモ用紙を付けて資料を部長の机の上に置いて居室へ戻った。
6月4日午後6時頃に 川緑が技術部の建屋近くを 台車を押しながら歩いていると、川緑を見つけた野村部長が険しい表情でやってきた。
彼に促され 後について会議室のテーブルに着くと、野村部長はラドテック発表用の資料を手にして 「このままじゃ 吉岡さんを通らんぞ! エントリィがだめになるぞ!」と少し強めの口調で言った。
川緑が作成した資料は 以前に東京の工業系大学の栗田先生に報告した資料を基に その一部を抜粋してストーリィ付けしたものであった。
野村部長は 資料の内容について そこに盛り込まれている内容が多すぎて煩雑になっていることと 説明文の記述に正確さが欠けていることを指摘し、また資料に記載されている幾つかの新しい概念の説明が分かりにくいと指摘した。
川緑は 資料を作成する時には 彼が取り組んできた「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」の内容の多くを 関係業界の人達に知ってもらいたいと考えていた。
また川緑は 栗田先生へ説明した時と同じストーリィ展開を行えば「UV硬化型樹脂の硬化性」に興味を持っている人達はきっと興味を持ってくれるだろうと考えていた。
しかし ラドテックに参加する人達は樹脂材料の専門家ばかりではなく 原料メーカーや設備メーカーや完成品メーカーからの参加者も多く、そのような業界の関係者等にとっては川緑の資料は分かりにくいものとなっていた。
野村部長は 発表用の資料について 主張するポイントを絞り 多くの人に分かりやすい説明を行うようにと指摘した。
更に 野村部長は「君 米村さんに頼んで 吉岡さんに掛け合ってもらい 資料の提出を待ってもらって 資料を書き直せ!」と言い 「周りは みんないい人間ばかりじゃないぞ!」と言った。
部長の言葉は 川緑に 社内のいろいろな人物が持つ政治的な思惑を感じさせたが、同時に川緑に「がんばれよ!」と言っているように聞こえた。
6月7日午後5時に 川緑は技術部の関係者に声を掛けて集まってもらい 野村部長の指摘を参考に ラドテック発表用資料の修正のための打ち合わせ会議を開いた。
会議に集まったメンバーは 米村部長と森田課長と吉永課長であった。
吉永課長は この4月に東京工場の工業用塗料部技術部から新規事業部の技術部へ異動してきて 川緑の上司となっていた。
吉永課長は 40歳代後半、中肉中背、太い眉が特徴的で大人しいタイプであり、管理職等との会議に参加するより実験室で作業することを好む方であった。
会議の中で 川緑は 野村部長から差し戻されたラドテック用資料をたたき台にして 参加者の意見や指摘事項を聞き取り 記録する作業を行った。
6月14日午前8時半頃に出社してきた吉永課長は「おはようございます。川緑さん 少し時間取れますか?」と声をかけた。
吉永課長は 川緑の資料を吟味しており 資料記載の仮説や数式について幾つかの質問をすると「これは世界的にも新しい報告だから、しっかりとした内容にした方がいいよ。」と言った。
課長の言葉に 川緑は彼が 事前に関連文献の調査を行っていたことが分かった。
この日に川緑はラドテック発表用資料の修正版を作成すると、それを先のメンバーと野村部長に提出して 彼等に内容の確認を依頼した。
翌日午前10時頃に 野村部長は笑顔で川緑の所へやって来ると 昨日の資料にいくつかの修正文を加筆して渡してくれた。
彼は「今回は かなり良くまとまっている。」と言ったので 川緑は肩の力が抜けるような気がした。
6月17日午後6時頃に 川緑は報告資料の最終版を作成し米村部長に提出すると 彼は「ほな これは わしから本部長に上げとくわ。」と言った。
川緑のラドテックの発表の可否は 吉岡本部長等の判断待ちとなった。
6月25日午前9時頃に 川緑は技術企画管理部の野村部長を訪ねた。
川緑は部長に「今回の件では 大変お世話になりました。 ラドテック発表の合否については 結果待ちです。」と伝えた。
川緑は「話は変わりまして こう言っては失礼ですが お礼にご馳走したいのですが。」と彼に言った。
すると彼は「そんなことはいい これは仕事だ。」と言い、続けて「でも 一緒に飲むというのは 大いに賛成だ。」と言ったので、2人は 午後7時に 平塚駅の近くの焼鳥屋「鳥秀」へ行くことを約束した。
この日の午後5時頃に 技術部の会議室で米村部長と川緑の業務面談が行われた。
近年 会社に「自己申告制度」という業務面談制度が導入されており、各部署単位に所属部長と所属メンバーが1対1で面談を行い 担当業務や職場環境に関する意見や苦情等を話し合い対策を協議する場が設けられていた。
面談の中で 川緑は米村部長に 今後予定している検討テーマを説明し それを実行するのに必要な人員の補強を依頼し 最後に「開発競争に戦える体制づくりをお願いします。」と言った。
話を聞いていた米村部長は川緑に「あんた 言うことが きついな。」と言った。
更に川緑は「今期に ひとまとまりの実験を行うための設備投資をお願いしたいのですが 見込みはありますか?」と聞くと部長は「無理やろな。」と即答した。
面談の最後に 川緑は 今夜 野村部長と焼鳥屋へ行くことを伝えると 部長は「わしも 帰りに顔だすわ。」と言った。
午後7時頃に 野村部長と川緑は焼鳥「鳥秀」の店ののれんをくぐった。
入ってすぐ右手側のカウンター席に並んで座ると 彼等はビンビールと焼鳥を注文した。
カウンター越しに 店主からビールとグラスを受け取ると 川緑は野村部長にビールをついで「この度は 大変お世話になりました。」とお礼を言って飲み始めた。
野村部長は川緑から見ると他の部長職とは少し変わったところがあり これまでに何度か「えっ!」と言ってしまいそうな彼の発言を聞いたことがあった。
この時も部長は「君は どうして東京工場から平塚に来たのか?」と聞くので 川緑の入社からこれまでの経歴を話すと「そうか 君は誰かに逆らって ここへ来たわけじゃないのか。」と言った。
川緑は彼の言葉に反応して「すると 誰かに逆らうとそういうことになるんですか?」と聞き返すと 部長は苦笑いした。
暫くして米村部長が店ののれんをくぐって入ってきた。
彼は野村部長に挨拶すると 川緑の方を向いて「ラドテックの件な 吉岡さん一応OK言いよったで!」と言った。
米村部長が席に座ると 川緑はグラスを渡し ビールをついで「お疲れ様でした。」と言った。
ビールを飲みながら彼は野村部長に「こいつが わしをいじめよるんですわ。」と冗談交じりに言った。
野村部長は米村部長に 川緑のことを「担当の仕事をこなして それ以外にこれだけのことをやってくれて いいじゃないか!」と言い「最近は 君のような若者がいなくなってきた。」と言った。
基礎研究はやるな! / 新事業部長
7月15日午前9時に 新規事業部技術部の月次報告会が開かれた。
ここ3か月間程 川緑はユーザー対応を優先して月次報告会に出ていなかったが この日は新任の吉岡事業部長の挨拶が予定されていて、事前に課長職から技術部のメンバー全員に月次報告会に出席するようにとの通達が回っていた。
事業部長は月次報告会の冒頭に技術部のメンバーに向かって「技術部に所属する君たちの仕事は開発だ! 開発は遊びじゃない! 基礎研究はやるな!」と強い口調で言った。
彼はそう言うと その後 話題を変えたので技術部のメンバー等は彼がどのような理由でこのような発言をしたのか分らず、今後どのように対応したら良いのか分からなかった。
事業部長が月次報告会の場を退席すると 彼の話を聞いていた若い技術者等は皆自分の仕事のやり方を責められたと感じたと言った。
川緑は これまでに他の部長等から同じようなことを何度か言われていたので 事業部長の「基礎研究はやるな!」という言葉は川緑に対して言っているように聞こえた。
川緑には本部長が「基礎研究はやるな!」と言ったのは 川緑が関係している3社の共同研究 TKM会の取り組みの事だろうと直感した。
そう感じたのは 先の年次報告会での川緑の報告に対して 平田本部長の「その研究がUVランプを選ぶ以外に何の役に立つんだ。」との発言からであった。
もし 新しい本部長がその時の発言を是認しているのなら 今日の「開発は遊びじゃない!」と言った理由も川緑には理解できた。
同時に 以前に野村部長が吉岡研究本部長の発言に対して「彼はそんなことは言わん 誰かに言わされている。」と言ったことを思い出した。
今日の本部長の発言は 新規事業部の責任者等の技術部への統一の方針として述べられたものと思われた。
吉岡研究本部長の事業部長の兼任と 彼の今回の発言の背景には 発足から4年目となる新規事業部の低迷する経営状況があると予想された。
新規事業部の責任者等は 経営状況を改善するために事業部の研究部と技術部の業務分担を明確にし 技術部の末端まで彼等の指揮命令を利かせ統制する目論見が読み取れた。
しかし 川緑のチームは競合他社に比べて多勢に無勢であり 何か他社に無い新しい技術を獲得しなければ勝てる戦略を立てられないことは明らかであった。
川緑は 他社に勝てる戦略を立てるためには TKM会の共同研究を進める以外に手段は無いと考えていたので それが止められるなら負ける戦いを強いられることになると感じた。
先々 事業部の責任者等と衝突する局面があれば 川緑は机の中の辞表を取り出すことになるだろうと予想し そうなる前に どこか転職できる会社を探しておこうと考え始めた。
川緑がそのようなことを考えているところへ松頭産業社の菊川課長から電話があった。
菊川課長は「川緑さん 9月に藤河電線さんでケイトウ電機さんの新規UVランプを試験したいと連絡がありました。 UVランプを試作するのに必要な情報を 至急ケイトウ電機の森永さんへ届けてもらえませんか。」と言った。
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