第18話 研究の評価

   心配してますよ  /  保安課の巡回


 1993年2月26日午前0時頃に 技術部の居室で川緑が作業を行っているところへ保安課の堀川さんがやってきた。 


 50歳くらい、中背でがっしりした体格、色黒の顔に警備帽を深くかぶっていた堀川さんは 「残業するのはいいけど 労務課から夜10時以降に会社に残っている人をチェックしろと言う指示が出ていて あなたもそのリストに載ってますよ。」と言った。              


 彼は 続けて「もし おたくに何かあった時に おたくの上司が仕事をやらせていたと言ってくれればいいけど そうでなかったら大変なことになるよ。」と言った。


 堀川さんが「大変なことになるよ。」と言ったのは 過去に大変なことになった人の事例を知っていたからであった。 


 会社を休まなくなってから 川緑の勤務は連日の深夜残業となり また徹夜になることもあった。

徹夜になると 彼は夜中に保安所へ行って堀川さん達に そのことを伝えていた。         



 会社と組合との労使間協定で合意されていた残業時間は月に35時間まであり 各部署の責任者等はその時間枠内で社員に残業勤務を指示していた。


 しかし 川緑等の渉外担当技術者は ユーザーからの依頼に対応して協定時間を超えたサービス残業を行うことはしばしばであり 会社側からも組合側からもこれを厳しく規制することはなかった。


 サービス残業が規制されないのは 渉外担当技術者にはつき物のユーザートラブルが発生した局面で 時間規制されると、ユーザサイドも自社サイドも困ることになるからであった。


 それでも組合サイドは 組合員の休日出勤日数を把握しており 毎年2月に入ると組合員が代休を消化するように代休取得計画書の提出を上司に求めていた。


 いよいよ年度末になると ユーザーを担当する社員等は 来年度の事業計画作成のための情報を得るためにユーザー訪問の機会が多くなり代休取得が困難となるので、組合サイドは その前に代休取得計画書の提出を催促していた。


 川緑も 米村部長から代休取得計画書を提出するようにとの指示を受けていて、形だけの計画書を提出していた。



 この日の午後9時頃、川緑が実験室でUVカラーインクのサンプル作製を行っていると、そこへ保安課の草野さんが見回りにやってきた。                             


 40歳くらい、中背細身の草野さんは保安課では一番の若手であり 最近着任してきていた。 


 面長の顔に警備帽を浅くかぶった草野さんは「川緑さん 保安課じゃ みんなあんたのことを心配してますよ。」と言った。     


 その言葉に少し驚いて 川緑は「すみません。 心配していただいて。」言った。


 彼は「俺は 体を壊して会社を辞めた経験があるから言うけど そうなったら会社は冷たいよ。」と言った。


 仕事は増える一方で人員は削減されるという状況にあったので 川緑は会社を休めるとは思えなかったが、保安課のメンバーが心配してくれて見回りに来てくれていると聞くと 少し気分が楽になったように感じた。



   デスマッチだ!  /  研究の評価


 3月1日午後4時30分頃に 技術企画管理部の野村部長から川緑に電話があった。

部長は 東京の工業系大学の栗田先生が到着したので第一応接室に来るようにと言った。


 森田課長と川緑は 第一応接室の扉をノックして中に入ると ソファーに腰掛けていた栗田先生と野村部長が彼等を振り返った。                           


 やや小柄でふっくら体形、活発な印象の栗田先生から頂いた名刺には、東京の工業系大学 工学部 資源研究所 助教授と書いてあった。 


 野村部長は大柄で ふっくらした体形、丸顔の温厚そうな表情であり、眼鏡越しに見える目は実直な感じがした。

野村部長は 栗田先生と同じ京都の大学の出身であり学生時代からの友人とのことであった。  


 雑誌「塗料と研究」への川緑の研究の登載の可否判断の件は 野村部長から栗田先生に頼んで引き受けてもらったとのことであった。


 野村部長は 栗田先生の紹介の時に 先生が液晶を使った光スイッチを開発されたことと、彼が光と樹脂材料との相互作用に関する専門家であることを伝えた。 


 お互いの自己紹介が終わった頃に 米村部長と研究部の稲田部長が第一応接室に入り、続いて 受付の女性がコーヒーを運んできた。


 コーヒータイムの間に 報告の準備のために川緑が 報告会場の講堂へ向かおうとすると、栗田先生は「川緑さん 今日は 時間無制限のデスマッチだ!」と言った。 



 場所を講堂に移し 演壇に立った川緑が報告用のOHPを点灯させ「それでは報告を始めてよろしいでしょうか。」と確認を取ると テーマ「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」について報告を始めた。 


 報告の最初に 川緑は光ファイバーの現状と課題について触れた。


 現状の中で光ファイバーの構造と製造方法について説明を行い、課題の中で光ファイバーの生産性の向上とUVカラーインクに高速硬化性との関係について触れ、「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」を行う意義について述べた。 


 次に 川緑は UVカラーインクの硬化性に影響する要因について述べ、インクの組成に関する要因とそれ以外の要因に分類して示した。 


 本題のUV硬化型樹脂の硬化の理論の部分では 理論式の誘導手順の説明から最終形に至るまでを 実験例を示しながら説明を行った。


 最後に 川緑は 硬化の理論式を基にした硬化性の数値計算ソフトを用いた硬化性のシミュレーション結果と 各種UVランプとUVカラーインク各色を組み合わせた硬化実験の結果とを比較して示した。


 UVカラーインク各色の硬化性のシミュレーションは 横軸に露光時間を取り 縦軸にインクの硬化度を取ったグラフ上に曲線で示されており、硬化実験結果は 同じグラフ上にプロットで示されており、全てのプロットはシミュレーションの曲線上に乗っていた。


 

 川緑の報告が終わると 先生は「よし では 最初から行こう!」と言った。             


 OHPに最初のスライドから順に資料をかざして行くと 先生は「あっ これはいい、次。」と言ってスライドを進めさせた。 


 川緑は 指示に従ってスライドをOHPにかざしていくと 先生は硬化の理論式の中の「体積素片の位置による硬化性の違い」を示したスライドの所で止めさせた。


 スライドは 塗布されたUVカラーインクを構成する体積素片が その位置により硬化性が異なることをインクの重合範囲を示す正規分布の重ね合わせで説明したものであった。


 先生は 腕を組んで投影されたスライドを見ていると「うーん、とにかく こうするとよく合うんだなー。」と彼も同様の現象を経験していたことを話した。                       


 先生は「この現象は 硬化の空間的効率とでも言った方が分かりやすい。」と言った。   


 次に 先生がスライドを止めさせたのは Saha の電離式の所であった。             


 スライドは Saha の電離式を用いて UVカラーインクの硬化反応の進行とともに インク中に残される反応性成分の量が減少することによる反応性の低下を示していた。


 先生は「うん 残っている数を議論する。 この考え方は分かりやすくていいね。」と言った。


 最も議論に時間を要したスライドは「真の分光感度」について説明したものであった。 


 「真の分光感度」は 川緑がUVカラーインクのそれぞれは 光の波長に対応した特有な感度を有すると仮定して 分光照射実験の結果から求めたものであった。

 

 横軸に光の波長を取り 縦軸に 「真の分光感度」を取ったグラフは 波長310nm付近と波長390nm付近に極大値を持つラクダのこぶのような形をしていた。


 先生は「この曲線は いったい何を意味しているのかな?」と聞いた。               


 その曲線は、キセノン分光照射機を用いて露光したUVカラーインクの硬化状態を顕微FT-IR装置を用いて分析した結果の中の硬化度が0.5の地点の情報を基に求めたものであった。 


 その曲線を求めた手順から言えることは 「真の分光感度」がUV光源の光の強度や インクを構成する顔料の吸収や 反応性の樹脂の光の吸収や 硬化の空間的効率や 酸素阻害因子や 温度の影響を除いた時に求められる感度ということであった。              


 しかし それが何を意味しているのかは これまで川緑は考えたことがなかった。


 しばらく考えた川緑は「普通 分子同士の反応系では横軸に分子間距離をとり縦軸にエネルギーを取った量子井戸をイメージしますが、それを別の方向から見たものではないかと考えます。」と答えた。


 すると先生は大きな声で「Quantum Yield !(量子収率)」と言った。 


 「ええ そうです。Quantum Yield です。」と川緑が繰り返すと 先生は「しかし こういう実験で Quantum Yield が求まるのか?」と不思議そうに言った。 


 最後に 川緑は 硬化の理論式を基にして求めたUVカラーインクの硬化状態のシミュレーション結果と 実験結果とを比較したスライドを投影した。           


 栗田先生は 両腕を組んだまま 投影されたスライドを見て何度かうなづくと 彼の質問を終えた。 



 午後8時40分頃に川緑の報告が終わると 米村部長が先生の所へ近づき「先生 この報告は いかがでしたか?」と聞いた。


 先生は「普通 1つの実験結果に対して 変動要素を3つか4つ組めば必ず結果と一致するものです。しかし これは簡単な式で 幾つもの実験結果を表現している。面白いじゃないですか。」と評価した。


 部長は「では この内容を外部に発表することについては どう思われますか?」と聞いた。 


 先生は「これを 広く世間に問うてみたらいかがですか。何かの学会で報告されたらよろしい。何かな 高分子学会あたりで。」と言った。


 米村部長の話が終わり 川緑は「先生 どうも ありがとうございました。」と言うと 先生は「いや こちらこそ。」と言った。                     


 「私の研究を評価していただいたのは 先生が初めてです。」と川緑は笑顔で言った。   



 報告会終わると 一同はタクシーで平塚駅へ向かい 豚カツの「のむら」で遅い夕食会となった。 


 一同は座敷に上がり 栗田先生と川緑は 隣同士に座ると 先生は「君は 何か物理の本を読んでいるのか?」と聞いた。


 「はい ファインマン物理学を勉強しています。」と答えると 先生は「そうか 君の話を聞いていて そう思ったよ。私も愛読しているよ。」と言った。


 その後 野村部長と栗田先生とは昔話に花が咲いたようで「次へ行こうか!」と言われ、二次会へと向かった。 

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