第17話 研究のまとめ

   硬化の理論  /  硬化性に関わる要因

 

 1993年1月6日は仕事始めであり、出社した川緑は技術部のメンバーと年始の挨拶を交わした。


 机についた川緑は 引き出しから手帳を取り出して予定表を見ると、ユーザー対応により後回しになっていた幾つかの案件について 納期的に後がなくなっていることを再確認させられた。  


 3月末までに対応が必要な案件は TKM会向けの実験と、ラドテック発表用の要旨の作成と、会社が発行している雑誌「塗料と研究」に投稿するペーパーの作成があった。  


 雑誌「塗料と研究」は東西ペイント社のユーザーや関連会社へ公開される雑誌であり、東西ペイント社が行っている研究の内容を一般に公表するものであった。           


 雑誌「塗料と研究」に投稿を予定していた研究の内容は 川緑と新人実習生等が行ってきた「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」であった。


 川緑は 研究のまとめに これまで組み立ててきた「硬化の理論」を完成させて、その理論を用いて光ファイバー用UVカラーインクを設計し、またUVランプの発光特性の最適化を行うことを考えていた。


 川緑は これらの案件を何とか納期までにやり遂げて、そこで得られる知見をTKM会の共同研究に反映させ、光ファイバー用UVカラーインクの開発競争に勝ち抜きたいと考えていた。


 もし今 現行ユーザーの中の1社でUVカラーインクに関するトラブルが発生したら、これまでのトラブル対応の経験から、3つの案件に対応できなくなることは川緑には容易に想像できた。       


 川緑は 兎に角 これらの案件の遂行を最優先すると決めて、そのために今後は会社を休まないでやれるところまでやることにした。



 この日の午後2時頃に 米村部長が川緑の所へやってくると「あんなあ 朝の幹部会議でな 今度の『塗料と研究』のあんたの例のテーマが話題になりましてな。」と言った。


 部長によると 会議の中で有働技術本部長が川緑の研究テーマ「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」の要旨を見て、これを社外に公表してよいものかどうかを確認するように、技術企画管理部の江崎 部長に指示を出したとのことであった。


 指示を受けた江崎部長は社内の関係者等にあたったが、社外発表の可否を判断できる者がいなかったので、その判断を東京の工業系大学の先生に依頼することにしたとのことであった。


 米村部長は「大学の先生に見てもらう資料を 今月中にまとめといてな。」と川緑に言った。



 1月23日は休日であったが 川緑は午前7時に会社に入ると居室の机についた。


 彼は懸案の研究テーマ「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」をまとめるために 研究の取り掛かりとなったUVカラーインクの設計思想を振り返り、その設計思想と比較しながら これまでの実験データを見直すことにした。


  「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」は 得られる研究結果がUV硬化型樹脂の硬化性を何らかの形で説明できるものであり、インクの硬化性を厳密に比較ができることを目標をとしていた。 


 目標を達成するための研究の方針は UVカラーインクの硬化性の向上のために UV光源の光エネルギーの消費経路を明確にし、光エネルギーの消費量を数値化し、そのことにより光エネルギーの利用効率を良くする方向を目指すこととしていた。


 これまでに得られた実験データの1つは UVカラーインクを構成する1つの体積素片を考えた時に、体積素片の硬化性が体積素片中の光重合開始剤に吸収される光の量の2階対数に比例することを示したものであった。


 また実験データの1つは 体積素片の硬化性が その体積素片が置かれた位置により異なり その傾向が界面付近で大きいことを示したものであった。


 また実験データの1つは 体積素片の硬化性が酸素濃度の影響を受けることを示したものであった。


 そして昨年末に得られたデータは キセノン分光照射実験と顕微FT-IR分析で得られたUVカラーインクの見掛けの分光感度データであった。 


 見掛けの分光感度データは 実習生の永野さんが画像データ取得して パートの奥村さんが数値データに読み替えてくれたものであった。 


 川緑は机に広げた情報やデータを見ながら それらをひとつにまとめるアイデアを考えていた。


 彼がイメージしていたのは 樹脂の硬化性に関わる要因である樹脂の組成や塗布形状やUV光源の特性や露光量や酸素濃度や温度等が変化した時に 樹脂の硬化性がどのように変化するのかを数値計算するために必要な理論式であった。


 川緑は見掛けの分光感度のデータを見ながら そのデータが硬化の理論をまとめるための重要なデータであると感じ そのデータが意味することを考えていた。


 見掛けの分光感度のデータは キセノンランプの光を 横軸に波長分散し縦軸に強度分散した矩形の露光面で硬化した面内のインクの硬化状態を 0から1の間の硬化度に換算したデータであり、それぞれの地点の硬化度を0.05刻みに結んだ曲線は人の指紋のような形状をしていた。                                        


 川緑は 人の指紋のような形状の中の硬化度が0.5の曲線に注目した。           

硬化度が0.5の曲線は それぞれの波長の光でインクを露光した時に ある光の強度で一定時間だけ露光した時にインクの硬化度が0.5になることを示していた。 


 硬化度が0.5と言うことは その地点のインクを構成する厚み方向の全ての体積素片の硬化度の平均値が0.5と言うことであった。


 川緑は硬化度が0.5の曲線を解析するために仮説を立てた。         


 その仮説は UVカラーインクにはインク中の光重合開始剤が吸収する各波長の光に対して特有な「真の分光感度」を持つというものであった。


 もしそうなら 先の硬化度が0.5の地点にある厚み方向の全ての体積素片について、光重合開始剤が吸収する光の量と硬化の空間的効率と酸素阻害の因子に加えて、ある係数「真の分光感度」を硬化の式に盛り込み、得られた硬化度を積算し、厚み方向の体積素片の数で割った値が0.5になるはずであると考えた。


 この仮設に基づいて 川緑は波長λに対する「真の分光感度」K(λ)を求める計算を行った。 


 彼は まず 見掛けの分光感度のデータを基に それぞれの波長に対する硬化度が0.5となる地点に照射された光の量を求めた。


 次に 求めた光の照射量を基に それぞれの地点の厚み方向の全ての体積素片中の光重合開始剤が吸収する光の量を求めた。


 また それぞれの体積素片について その位置による硬化性に与える影響の度合いと 酸素阻害の因子とを求めた。


 最後に それぞれの波長λの光に対応する硬化度0.5の地点にある全ての体積素片ついて それぞれ求めた硬化に関わる因子を硬化の式に代入し、更に任意の値K(λ)を入力し それぞれの体積素片の硬化度を求め、全ての体積素片の数で割った値を求めた。 


  この計算の時に K(λ)に 1から1000までの正の整数を順に入力しながら体積素片の硬化度の平均値を計算し その値が0.5となった時のK(λ)を求めるK(λ)とした。              


 この数値計算は パソコンで計算ソフトを作成して行い 分光照射実験を行った波長250nmから500nmの間の251の波長について行った。


 全ての因子を入力し 計算ソフトを走らせると 1時間程で 251個のK(λ)が算出され、川緑は 得られたK(λ)をパソコン上のグラフに表示させた。


 横軸に波長λを取り縦軸にK(λ)を取った枠内に K(λ)の奇妙な曲線が描き出された。     

K(λ)の曲線は 波長310nm付近と波長390nm付近に極大値を持つラクダのこぶのような形をしており それ以外の波長範囲では0の値を示していた。


 「真の分光感度」K(λ)は このような硬化性に関わる因子があると仮定して求めた係数であったが この因子を盛り込んだ硬化の式が 実際のUVカラーインクの硬化状態を表現できるものであれば K(λ)は普遍的な因子として存在するのだろうと川緑は感じた。



   研究のまとめ  /  理論の検証


 2月24日午後4時頃に 川緑はケイトウ電機社のUVランプ開発品を用いた UVカラーインク現行品の露光実験の結果をまとめていた。                                  


 同時に彼は それぞれのUVランプ開発品の発光スペクトルのデータを基にUVカラーインクの硬化性の数値計算を行い 露光実験結果との比較を行った。


 彼が行った実験は UVランプの開発品6個のそれぞれについて UVカラーインク現行品8色を組み合わせた露光実験であり、UVランプの露光時間とインクの硬化状態との関係を求めたものであった。


 露光実験の結果をまとめたグラフは 縦軸にUVカラーインクの硬化度を取り横軸にUV露光時間を取り その中に各種UVランプを用いて露光したインクの硬化度の変化をプロットしていた。 


 硬化度のプロットは ランプとインクのどの組み合わせも同様の形状を示し 硬化度変化は その立ち上がり部分では緩やかであり 徐々に大きくなり その後 漸近的に飽和状態に近づく傾向を示した。


 また グラフに示されたプロットは ランプの種類によりインクを硬化させやすいものがあり、またインクの種類により硬化しやすいものがあることを示していた。


 次に 川緑は 露光実験結果をまとめたグラフに 計算結果をまとめたグラフを重ね合わせた。


 実験結果と計算結果を見比べると それらの硬化度の変化の傾向は一致しており 計算結果が示すインクを硬化させやすいランプや硬化しやすいインクも実験結果と一致していた。


 しかし グラフ表示した硬化度の実測値と計算値のプロットを詳しく見比べていく内に、川緑は それらに違いがあることに気づいた。   


 その違いは 硬化度の実測値が計算値と比較して 露光時間が多いところで硬化度が低い方へずれる傾向を示していることであった。 

この傾向は インクとランプのいずれの組み合わせについても同様であった。


 硬化の式を用いた硬化度の計算結果が 露光時間が多いところで一様にずれる傾向に 川緑は計算の基となる硬化の式に何か足りない要素があると思った。                 


 足りない要素が何であるのかを調べるために 川緑は硬化の式を構成する全ての因子について それらを定式化していった経過を確認していった。


 硬化の式の中の「真の分光感度」 K(λ)を求めた過程を振り返っていた時に 彼は K(λ)が UVカラーインクの硬化度0.5 の地点の情報を基に求めたことに何かあるのではと思った。


 もし UVカラーインクの硬化度 0.5 よりも高い地点のデータを基に K(λ) 求めた時に その値が変化するのであれば 計算によって求めたインクの硬化度が変わってくると考えた。


 そう考えると 川緑は 何らかの反応系において 今回の結果の実験結果の様に その反応の進行と共に 反応性が低下する現象を記述した本があるとだろうと思った。                


 この日の午後9時頃に 川緑は 自宅で ファインマン物理学の本を見直していると 第Ⅱ巻 光 熱 波動 の第17章に Saha の電離式を見つけた。


 Saha の電離式は インドの物理学者 Meghnad Saha が 気体の電離度について記述した式であった。 


 Saha の電離式は 気体分子がエネルギーを受け取りイオンと電子に分かれたり 再結合してエネルギーを放出する反応系において、気体分子の温度と密度とイオン化エネルギーをパラメーターとして電離度を記述したものであった。


 Saha の電離式によれば 気体分子の密度が小さくなれば それに応じて電離度も小さくなった。 


 川緑は Saha の電離式が示す反応の挙動は UVカラーインクの硬化反応にも適用できるのではないかと考えた。             


 Saha の電離式を硬化の理論式に盛り込むと UVカラーインクは インクの重合反応が進行すると 反応性の成分が少なくなり 硬化性が低下することが予想された。



 2月25日午前6時頃に出社すると 川緑は UV硬化型樹脂の硬化の理論に Saha の電離式を組み込み UV硬化型樹脂の硬化性の計算ソフトの修正を行った。


 修正した計算ソフトに UVカラーインクの組成情報や塗布厚みやUV光源情報や温度や酸素濃度を入力し、露光時間を0.01秒から0.1秒、1秒 と指数的に10000秒まで設定して ソフトを走らせた。 


 計算結果は パソコン上にグラフにして表され 横軸に取った露光時間に対応する硬化度がプロットで表示された。


 表示されたUVカラーインクの硬化度は 修正前のソフトの計算結果に比較して 露光時間が大きいところでインクの硬化性を低下させる傾向を示し 実測値とよく一致した。


 計算結果と硬化の式を見ていた川緑は 4年前に「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」に着手した時に 研究の目標と方針を立てたことを思い出した。


 研究の目標は「研究結果が UV硬化型樹脂の硬化性を何らかの形で説明できるものであり、UVカラーインクの硬化性を厳密に比較ができること」であり 研究の方針は「 UVカラーインクの硬化性の向上を目指して UV光源の光エネルギーの消費経路と消費量を数値化し、光エネルギーの利用効率を良くする方向を目指すこと」であった。


 川緑は 研究の目標を達成したと感じ また研究の方針が正しかったと思うと同時に、UV硬化型樹脂の硬化性の本質を垣間見ることが出来たような気がした。

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