第16話 社外発表案件

   背水の陣  /  国際会議の案件


 1992年10月19午前10時頃に 研究部の杉本部長が技術部の居室にやってくると「米村さん ちょっといいかね。」に声をかけて 部長の机の所へ向かい 暫くの間なにやら話をしていた。   


 話が終わると 杉本部長は川緑の机に来て「来年のラドテックに何かいいテーマはないかいね。」と言った。 


 ラドテックとは電子線・放射線技術に関わる設備メーカーや材料メーカー等が最新の商品や技術を発表する国際会議であり、アメリカとヨーロッパとアジアの地域の関係団体が 持ち回りで開催しているものであり、来年は日本での開催が予定されていた。           


 杉本部長は ラドテックの支援団体であるラドテック研究会の会員であり、東西ペイント社からのラドテックへのエントリィを推進していて 技術部にその話を持ってきたということであった。       


 川緑は ラドテックへのエントリィがTKM会の共同研究を進める上で 背水の陣を張ることになると思い、杉本部長に「技術部で取組んでいます共同研究のテーマが良いかと思います。」と言った。


 川緑は「TKM会の共同研究は UVカラーインクの設計技術の向上だけでなく 業界全体の技術レベルの向上に繋がる取り組みですから。」と付け加えた。


 部長は「そうかいね。でもなあ 米村さんに聞いたら川緑さんは今忙しいといっとったが。」と言った。

川緑は「実験する時間ができたら やれると思います。」と言いながら、やるかやらないかの判断は川緑にはどうしようもないことであって 言っても意味のないことだと思い直した。    


 「ほんなら 一応候補として考えとくから準備しといてね。」と言って部長は退室して行った。


 

 ラドテックAsia‘93の社内募集に手を挙げた途端 それを妨げるように 川緑に仕事の依頼が押し寄せてきた。 


 10月21日午前11時頃に 昭立電線社光ケーブル技術課の担当者から川緑に電話が入った。 

彼は「今週中に海底ケーブル用のUVカラーインク12色のサンプルの発送をお願いします。」と言った。


 海底ケーブル用光ファイバーは 日本国内に張り巡らされている光ファイバーの様に 途中で分岐したり結線したりすることがないので、使用されるUVカラーインクには剥離機能は不必要であった。


 そのため 依頼のUVカラーインクの作製には、現行のインクの配合から剥離剤を除くことになった。 


 インクの配合から剥離剤を除くことは 現行のインクの設計変更を行う作業となり、今週の注文納期に東京工場では対応できないために、川緑が対応する業務となった。


 また 海底ケーブル対応の光ファイバー用UVカラーインクの件は 東京工場への製造依託と引継ぎ業務も伴う作業となった。



 10月23日午前10時に東京工場でUVカラーインクの生産対応に関する会議が開かれた。     


 会議には松頭産業社の菊川課長と 東京工場の製造部の園田部長と生産管理課や品質管理課のメンバー等と 技術部の米村部長と川緑が参加した。                       


 会議の議題は ここ数ヶ月の間にハイペースで増え続けているUVカラーインクの注文に対して 東京工場がどのように対応するかであった。 


 最近のUVカラーインクの注文の動きは 古友電工社向けの新色インクや日立電線社向けの海底ケーブル用の新タイプのインクの生産に加えて、現行のインクの生産量も増加してきていた。 


 菊川課長は これらのUVカラーインクの需要について 電線メーカー各社に当たって情報を収集し 需要見込みの動向をまとめて報告した。                             


 彼の報告を聞いていた製造部の園田部長は頭を抱えて「この需要見込みは 現状の生産設備での生産能力を超えてしまう。」言った。


 東京工場サイドは UVカラーインクの生産コストを抑えて販売利益を確保するために できるだけ設備投資は避けたいところだが、光ファイバーの生産量は増加の一途をたどっており 注文に対応できなくなるのは明らかであった。


 設備投資を行うか あるいは他工場や関連会社の設備を借りるか等の対応が急務となり、近日中に東京工場サイドは 対応の方針を決定することになった。



 10月27日午前10時頃に 明日のTKM会での報告のための実験の準備を行っていた川緑のところに 昭立電線社の光ケーブル技術課から電話があった。


 電話の内容は 新タイプのUVカラーインク各色のそれぞれ2kgの追加サンプルの依頼であった。


 川緑は 直ぐに松頭産業社の菊川課長に電話して 昭立電線社のインクサンプル対応の件を優先することを伝えて、同時に 懸案のTKM会の延期のお願いと ケイトウ電機社への連絡を依頼した。


 暫くすると 菊川課長から折り返しの電話があった。

課長は ケイトウ電機社の内藤次長電話して「川緑さんは 今ユーザー対応が追い付かなくて混乱しています。」と言ったところ 次長は「TKM会は延期してかまいませんよ。」と言ったとのことであった。



   思わぬ助っ人  /  重要なデータ


 10月27日の午後2時頃に 川緑は依頼を受けたUVカラーインクのサンプルを作製していた。


 TKM会活動が進展しない状態が続き 川緑は ケイトウ電機社の内藤次長や松頭産業社の菊川課長に申し訳ない気持ちで作業しているところへ 前期の実習生の永野さんがやってきた。


 彼は「川緑さん TKM会の件で何か実験することがあったら手伝いますよ。」と言った。

驚いて作業の手を止めた川緑は「いったいどうしたの?」と尋ねた。


 彼は「下期の実習先では まだ自分の研究テーマが決まっていないんです。 教育担当者の方から とりあえず顕微FT-IR装置の使い方をマスターするようにと言われました。」と言い「川緑さんの仕事で顕微FT-IR装置を使う実験があったら手伝いますよ。」と言った。


 川緑は 永野さんの方に向き直ると「是非お願いします。」と言って頭を下げた。        


 川緑が依頼した実験は UVカラーインクの硬化性を議論する上で要となる実験であった。    

それはUVカラーインクのそれぞれに固有の分光感度を求める実験であった。            


 UVカラーインク等のUV硬化型樹脂には それぞれに特有な光の感度があり 分光された光に対する感度を分光感度と呼んでいた。 


 分光感度を求める実験には 一般に紫外域から可視域の波長に連続した発光帯を持つキセノンランプが光源として用いられた。


 分光感度を求める実験には キセノンランプの光を波長分散と強度分散した光に加工して照射するキセノン分光照射機が用いられた。


 川緑は 技術研究所が保有するキセノン分光照射機と 技術部が保有する顕微FT-IR装置を用いて UVカラーインクの分光感度を求める実験を 永野さんに依頼した。


 川緑は 赤外線を透過するフッ化カルシウム基板(サイズΦ50mm×2mm)にUVカラーインクを薄く塗布し、これをキセノン分光照射機を用いて露光したサンプルを作製した。


 川緑は 作製した露光サンプルを永野さんに渡し 顕微FT-IR装置を用いた分析を依頼した。


 依頼した分析は サンプルの2cm×4cmの露光面を等間隔の格子状に切った格子点約2000点の赤外線吸収スペクトルの測定と測定データの解析であった。 

1つの露光サンプルについて 赤外線吸収スペクトルの測定に掛かる時間は約8時間と予想された。


 川緑は永野さんにUVカラーインクの分光感度を求める実験を任せると、実験室に戻りユーザー向けの新タイプのUVカラーインクの作製を続けた。


 ところが 永野さんが実験を始めて2時間もすると 彼は川緑のところへやってきて「川緑さん 測定中に装置が止まってしまいました。」と言った。


 永野さんは 露光サンプルを顕微FT-IR装置にセットし コマンド方式により測定条件を入力し 測定を開始するところまでは問題なかったが、その後の自動測定中に 突然 測定が中断してしまったと言った。                                       


 自動測定は サンプルを乗せたオートステージが動いて 1つの測定点の測定を行うと 検出した赤外線吸収スペクトルデータを自動保存して、次の測定点に移動して同様の操作を行うものであった。 


 この操作中に 何らかの理由により 自動測定が中断されて 装置が止まっていたのであった。 


 川緑は 試験サンプルの測定が中断した地点を顕微鏡で観察すると そこに直径が0.07mmくらいの小さなゴミがあるのを見つけた。

このゴミが赤外線を遮断してしまい 検出器に光が届かなくなり測定が中断していたと分った。

このゴミは 実験室で試験サンプル作製時に室内を漂っていたものが付着したものであった。


 次の日の午前中に 川緑はクリーンルーム内で試験サンプルを作製すると これをクリーン容器に入れて永野さんに渡し分光感度を求める実験を依頼した。


 

 翌29日午前11時頃に 居室で事務作業を行なっていた川緑のところへ永野さんがやってくると「川緑さん データ取れましたよ。」と言った。                        


 そのデータを見ると川緑は「素晴らしい!」 と声を発した。 


 永野さんは 顕微FT-IRを用いて試験サンプルの測定を行い約2000個の吸収スペクトルデータを取得し、データ解析を行った結果をA4紙に印刷して持ってきていた。


 彼は 約2000個の測定点の赤外吸収スペクトルの中からUVカラーインクの硬化の状態に関係する吸収のピークを取り出して 強度比較して得られた数値データをグラフに表示していた。 


 彼は 試験サンプルの未硬化の部分の吸収のピーク強度を0とし また十分硬化している部分の吸収ピークの強度を1として、約2000個の吸収ピークの強度を数値化してグラフにしていた。   


 グラフは横軸に光の波長を取り縦軸に光の照射強度を取ったものであり、その中にそれぞれの測定点に対応する相対強度がプロットされ、それぞれのプロットを0.05刻みの値に分けて19本の線で結んだ等高線は、人の指紋のような形状をしていた。


 人の指紋のような画像を見た川緑は 直感的に この図形にはUVカラーインクの硬化性の本質に関わる情報が含まれていると感じた。                         


 川緑は 彼に「ありがとう。これは とっても貴重なデータです。」とお礼を言ってデータを受け取った。


 川緑は 直ぐにその画像が意味するものを読み解くために 必要な数値情報を読み取ることにした。


 まず 川緑は A4サイズの画像データをA1サイズに拡大コピーして画像を見やすくした。

次に 拡大した画像の横軸の光の波長250nmから500nmまでを1nm毎に250等分したそれぞれの点から垂直に251本の直線を引いた。

最後に 画像データ上に引いた251本の直線と19本の等高線が交差する点4769点から横軸までの距離を物差しを使って測り記録することにした。


 川緑は この読み取り作業をパートタイムで働いていた奥村さんに頼むことにした。     

奥村さんは40歳代前半くらいの主婦で 小柄で細身の体形であり面長で大人しそうな外見とはことなりはっきりものをいうタイプであった。


 彼女は 技術部のメンバーから依頼を受けて彼らの作業を手伝っていたが 頼まれた仕事が気に入らないとやってくれないこともあった。                          


 暫く前に 技術部の居室にいた福永係長が「奥村さん ちょっとこの辺を掃除しといて。」と言った時に彼女は「あーら 私掃除が嫌いだからここで働いているのよ。」と言ったのを川緑は聞いていた。


 彼女は 川緑からの仕事の依頼を引き受けてくれて、彼女の勤務時間の一部をその作業に割り当ててくれた。


 彼女が A1用紙から数値データを読み取る作業を終えるには 1か月間くらいかかると思われた。 


 川緑は 彼女の作業が終わるまでに 得られる数値データが意味するものを読み解き、その結果得られる情報を基に懸案のUV硬化の理論を組み立てて、その理論をTKM会の活動に反映しなければならないと思った。

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