第15話 新人研修発表
新人研修発表 / 酸素阻害
1992年10月7日午前9時に 会社の講堂で前期の新人研修発表会が始まった。
新規事業部技術部の実習生永野さんの発表は2番目であり、司会者が指名すると彼は登壇した。
川緑は 発表資料の投影を担当し 会場の最前列に置かれたOHPに1枚目の資料をかざした。
会場のスクリーンには 研修テーマ「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」とサブタイトル「酸素阻害」の文字が映し出された。
永野さんは 過去の2人の実習生と同様に落ち着いて発表を始めた。
彼の研究の内容は これまでの新人実習生等の研究の延長線上にあるものであった。
1人目の実習生浜崎さんの研究のポイントは UVカラーインクの硬化性がそのインクに照射するUV光の量の二階対数に比例するというものであった。
2人目の実習生高野さんの研究のポイントは 塗布されたUVカラーインクを体積素片の集合体と考えた時に、それぞれの体積素片の硬化性が 吸収されるUV光量の二階対数に比例することと、体積素片の位置により硬化性が異なるというものであった。
永野さんの研究のポイントは これまでのUV硬化型樹脂の硬化性の研究を基に組み立ててきた硬化の近似式に酸素阻害の要因を盛り込むものであった。
酸素阻害のモデルは 気体分子の運動論を基に塗布したUVカラーインクの近傍の酸素分子がインク表面に衝突するときに持つ運動エネルギーを 酸素阻害の現象と関連付けたものであった。
永野さんは この酸素阻害のモデルを検証するために 酸素濃度を変えた環境下でUVカラーインクを露光したサンプルを作製し、硬化したインクの厚み方向の硬化状態を分析し解析を行っていた。
UVカラーインクの露光はHe-Cdレーザー照射装置を用いて行い、露光を行ったインクの厚み方向の硬化の状態の分析は顕微FT-IR装置を用いて行っていた。
彼の実験データは 酸素の濃度が大きいほどインクの硬化状態が悪くなり、その傾向は塗布したインク表面付近において顕著なことを示していた。
彼は 硬化状態の実験データとインクの硬化の式を用いた計算結果との比較を行っていた。
比較結果を基に 永野さんはインクの硬化に影響する「酸素阻害」の要因を切り分けて、この部分を定式化し硬化の式に加えていた。
永野さんの研究の成果は 「酸素阻害」 を定式化しUVカラーインクの硬化性への影響の数値計算を可能にしたことであった。
彼が導いた式は UVカラーインクの組成と塗布条件とUV露光条件と温度と酸素濃度が決まれば インクの硬化状態を計算によって求められることを示していた。
永野さんの発表が終わり質疑応答の時間となると 最前列の中央付近で聞いていた吉岡研究本部長が口を開いた。
本部長は「酸素阻害の現象はUVカラーインクのユーザーも認識していることかね?」と聞いた。
永野さんは「はい 電線メーカー各社では光ファイバーの生産性向上が最重要課題ですので、生産性を低下させる酸素阻害の対策が行われています。」と答えた。
「酸素阻害」という単語は アクリル系のUV硬化型樹脂を取り扱う技術者以外には聞きなれない言葉であった。
質疑応答の時間が終わり 川緑は発表資料を整理しながら周りを見回すと、会場の左前方席に座っていた他の新人実習生の多くは長机に突っ伏すようにして眠っているようだった。 彼等は永野さんの発表の内容を必死に理解しようとして、それが出来ず眠りに落ちたようであった。
新人研修発表会に前後して 川緑は相変わらず電線メーカー各社の対応に追われていた。
古友電工社三重事業所向けの新タイプUVカラーインク各色は 既に東京工場への製造引継ぎが完了していたが、三重事業所からの注文に対して納期が間に合わない状況が生じていた。
納期対応の混乱は 三重事業所からの新タイプのUVカラーインクの注文量が急増したことと、東京工場での新タイプUVカラーインクの製造環境の整備が整っていなかったことが原因であった。
新タイプのUVカラーインクは 従来タイプのインクに比較して粘度が高く これを製造するために専用の製造設備を使っていたが、その設備で対応できる生産量は限られていた。
東京工場の製造能力を超える注文が入った場合は 代理店の松頭産業社の事務担当の浦本氏から川緑の所へ電話が入った。
彼女は「三重事業所さんから新タイプUVカラーインクの注文が入ったんですが 東京工場さんでは対応できないそうです。来週初めまでに新タイプのUVカラーインク13色が届かないと、先方のラインが止まるそうです。」と言ってきた。
10月8日午前9時30分頃にに 松頭産業社から川緑に電話があり 新タイプのUVカラーインクの注文がまわってきた。
注文を受けた川緑は 他の全ての業務を止めて 新タイプのUVカラーインクの製造を行った。
注文数量の半分を作製し ボトルに缶詰した時には 翌9日の午前3時を回っていた。
川緑は 守衛所へ行き 当直の堀川さんに技術部に泊まることを伝えて 居室に戻り仮眠を取った。
この日に 技術部の月次報告会が予定されていたが 川緑は業務報告書を提出すると 会議には参加せずに 新タイプのUVカラーインクの製造を続けた。
午後3時頃に 川緑は注文分のUVカラーインクを作り終えると インクを缶詰してラベルを貼り、品質検査表とともに 段ボールに詰めて発送した。
いつやる? / 共同研究中断
新タイプのUVカラーインクの発送を終えて 川緑が居室へ戻ったところへ 営業の渕上課長から電話が入った。
課長は「古友電工社の千葉事業所から連絡がありましてな、三重事業所へ供給している新タイプのインクとは別の新しいタイプのインクの開発依頼したいとのことですわ。 お前さん 近いうちに先方へ行って話を聞いてもらえんじゃろか。」と言った。
川緑は 千葉事業所へ 三重事業所と同時期に新タイプのUVカラーインクを紹介していたが、千葉事業所は 更に高速硬化タイプのUVカラーインクの開発を依頼してきたとのことであった。
課長は続けて「仕事の量からいって お前さん もう既にパンクしとるじゃろ。そこに新規の開発テーマをやるのは無理じゃと思う。 そこでケイトウ電機さんとの共同研究の件は 遅らしてもらえんかと思うんじゃが。」と言った。
彼の言葉に カチンときた川緑は「TKM会の共同研究をやらなかったら 他社に勝てる樹脂材料を設計できる自信はありません。」と言い「いずれ この研究をやる羽目になります。」と付け加えた。
川緑の口調に押されてか 彼は「この件は米村さんとよく相談しといて。」と言って電話を切った。
電話が終わると川緑は、寝不足の頭に血が上って妙な圧迫感を感じていた。
川緑は 渕上課長が川緑の仕事量の事を気にかけていて TKM会の共同研究の仕事を遅らせる提案をしてくれたのは分かっていたし、彼が 共同研究の仕事よりも 現行ユーザーの対応が優先すると考えていることも分かっていた。
納期に追われて仕事をする状況が長く続いていることに 川緑は それが仕事だから仕方がないという気持ちと、このまま時間が過ぎていったら 樹脂材料の開発技術の向上は見込めなくなり、将来に 負ける戦いを強いられるという考えが交錯するようになった。
川緑は この会社に務める限りは 無駄に時間を潰してしまう状況の改善は見込めないと感じた。
10月15日午後2時に 技術部の会議室で 松頭産業社と技術部とで 関連業務について今後の方針打ち合わせが行われた。
打ち合わせは 松頭産業社の野崎部長と菊川課長が参加し 技術部からは米村部長と渕上課長と川緑が参加して行われた。
実習生の永野さんは 今週から下期の実習先の技術研究所へ移動していた。
打ち合わせ議題の1つ目は 電線メーカー各社向けのUVカラーインクの取り組みであり、2つ目は 新規UV樹脂材開発の取り組みであり、3つ目は TKMの共同研究の進め方についてであった。
3つ目のTKMの共同研究は この半年間殆ど進んでいなかった。
その理由は 1つ目と2つ目の案件に忙殺されていたことと、共同研究の推進に必要な顕微FT-IR装置の購入が遅れしまったことであった。
実習生の永野さんが戦列を離れ 共同研究の実務を行う人手が足りない状況について、打ち合わせの参加者等は TKM会をどのように進めるべきかとの意見が交わされた。
米村部長は 松頭産業社の2人に「TKM会の件は どうやったら ケイトウ電機さんにうまく断れるかと思うとるんよ。」と切り出した。
それを聞いた野崎部長と菊川課長は 川緑の方を向いて「そうなの?止めるの?」とでも言いたげな表情を見せた。
川緑は その時に はじめて米村部長の考えを聞いたので、少なからず驚き 部長の発言が彼の考えなのか、或いは新規事業部の意思決定なのか分かりかねていた。
川緑は 強い口調で「TKM会は樹脂材料の開発技術のレベルを向上させるものです。 この取り組みができないようでは 今後 競合他社に勝る戦略は立てられませんよ。」と言った。
川緑の主張に渕上課長は「TKM会は また時機を見て取り組んだら。」と言った。
ここで松頭産業社の2人がTKM会を止めることに賛同すれば この話は終わると思い川緑は「ちょっと待ってください! TKM会で報告できる資料をまとめます。」と言うと野崎部長は「そら 助かるわ。」と言った。
しかし 米村部長は 川緑の方を向いて「ほやけど 古友電工社向けの新色UVカラーインクと住倉電工社向けの新規UV樹脂材料の開発は 直ぐにやらんとあかんやろ。」と言い、少し間をおいて「いつやる?」と言った。
川緑は彼の問いに対する返答に窮してしまった。
この日の打ち合わせでは TKM会の共同研究の今後については結論が出ないまま終わった。
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