第14話 3人目の実習生
3人目の実習生 / ユーザートラブル
1992年5月8日午前9時頃に 技術部に上期の新人実習生の永野さんが配置されてきた。
永野さんは 中肉小柄で ぼさぼさ頭に眼鏡を掛けており、社交的なタイプであり 人見知りすることなく 技術部のメンバーに話しかけていた。
教育担当となった川緑は これまでの実習生等と同じように 最初はUV硬化型樹脂関連の資料を読んでもらい、また過去の実習生の研修発表の報告書を読んでもらうことにした。
永野さんは 暫く それらの資料を読んでいたが、その後 落ち着かない様子になり もっと手足を動かす仕事をしたいと言ってきた。
この頃に 川緑は古友電工社三重事業所向けのUVカラーインクの開発に追われていた。
三重事業所は 同社の千葉事業所よりも遅れて光ファイバーの生産を始めていた。
三重事業所の光ファイバー製造ラインは最新のものであり、より高性能でより低コストの光ファイバーの生産を目指したものであり、そのためにラインに投入するUVカラーインクにも硬化性の優れたものが求められていた。
光ファイバー生産の主幹部門の生産技術部は 新規事業部に 千葉事業所で用いているUVカラーインクよりも更に高速硬化タイプのインクの開発を求めていた。
彼等の要望を受けて川緑は これまでの3社共同研究で得られた知見を基にして UVカラーインクの設計思想を再構築し インクの開発を行っていた。
UVカラーインクの開発は インクに吸収される光のエネルギーに注目し、インクの重合反応に寄与する光のエネルギーの割合を求め、インクの設計に反映させるものであった。
このような取り組みを基に 川緑は 新タイプのUVカラーインク8色のサンプルを各1kg作製すると、インクサンプルとその技術報告書を合わせて 三重事業所へ提出し インクの性能評価を依頼した。
インクサンプルを受け取った三重事業所の生産技術部では 約1週間かけてインクサンプルを用いた光ファイバーの試作を行い インクの性能評価を行った。
5月13日午後4時頃に 松頭産業社の菊川課長から川緑に電話が入った。
菊川課長は 古友電工社三重事業所から知らされた 新タイプのUVカラーインクの評価結果を伝えたが、それは川緑の予想外の結果であった。
菊川課長によると 8色のUVカラーインクの中で白色インクを用いて試作した光ファイバーのみ光の伝送損失が大きく 損失のレベルはNGであり 新タイプのインクは採用できないとのことであった。
5月20日午後2時に 松頭産業社の菊川課長と営業の渕上課長と川緑は 新タイプのUVカラーインクの評価結果の詳細を聞くために古友電工社三重事業所を訪問した。
3名は 通された会議室で待っていると 暫くして生産技術課の秋吉課長と村崎主任と資材の担当者2名とがやってきた。
彼等が席に着くと 秋吉課長は 開口一番「対応が遅い!」とどやしつけた。
村崎主任は「御社に連絡を入れてから一週間も経ってますよ!」ときつい口調で言った。
訪問者3人は 口を揃えて「申し訳ありません。」と言って頭を下げた。
秋吉課長は 中背ふっくら体形であり 一見温厚そうな丸顔であったが 声の質は太く歯切れの良いものであった。
村崎主任は 大柄でガッチリした体形であり 面長で顎鬚を蓄えていて どこか鐘馗様を思わせる風貌であった。
秋吉課長は「光ファイバーの製造ラインを1日止めると どれくらいの損失になるか知ってますか?」 と言い「お金の件については 別途相談させてもらいます。」と言った。
彼らの話を聞いていた川緑は 頭から冷や汗が流れるのが分かった。
今回のトラブル発生について再度謝罪した 川緑等は 早急に対策を行うことと 出来るだけ早く対策のスケジュールを提出することを約束して 会議を退出した。
古友河電工社で発生した新タイプのUVカラーインクによる光ファイバーの光の伝送特性の低下の問題は 川緑たちにとって厄介なものであった。
それは 新規事業部では光ファイバーの伝送特性を評価出来ないからであり、いったいUVカラーインクが光ファイバーにどのように影響しているのか直接に観察することができないからであった。
翌日 午前8時頃に出社した川緑は 古友電工社三重事業所のトラブルの原因究明に当たり 先方に提出したUVカラーインクの控えサンプルを取り出して インクの状態を観察することから始めた。
川緑は 50ccのポリビンに入った控えサンプルのそれぞれから インクを少量ずつビーカーに取り出して外観を比較して見た。
すると それらのサンプルは 互いに少しだけ色の濃さが異なっていることが分かった。
川緑は それぞれのインクを1滴ずつガラス板上に滴下し 顕微鏡を用いて観察すると 色味が薄いサンプルには 無数の白色顔料の会合が見られた。
これは顔料の二次凝集と言われる現象であり インクを製造する過程や 製造後経時で分散状態にあった顔料が 何らかの原因で再凝集するものであった。
控えサンプルに見られた顔料の凝集は 三重事業所での光ファイバーの光の伝送損失を引き起こした原因であるものと思われた。
光ファイバーは精密な圧力センサーにも用いられているように 光ファイバーにかかる僅かな圧力差を光の伝送損失の変化としてとらえることができるので UVカラーインク中に顔料凝集等の不均一な部分があれば光の伝送損失を大きくする事が予想された。
川緑は 顔料の二次凝集について 再現試験を行い、その結果 二次凝集の原因はインクに配合している白顔料と添加剤との組み合わせと、それらを調合する製造工程にあることが分かった。
5月27日午前10時頃に 川緑は 東京工場で 製造部と品質管理部と対策チームを組んで 対策案とスケジュールを立てると、午後に その内容を Eメールで古友電工社三重事業所へ報告した。
報告したUVカラーインクの二次凝集対策案は 短期間に対応できる対策案と時間を要する対策案とを分けて それらを並行して進めるものであった。
短期間の対応策は UVカラーインクの製造条件の変更を行うものであり 時間を要する対策案は 顔料や添加剤の種類や添加量の変更を行うものであった。
対策チームと松頭産業社は これらの対策活動を行いながら 毎週UVカラーインクの対策品サンプルを古友電工社三重事業所へハンドキャリーを行った。
5月25日午前10時に 川緑は東京工場で試作したUVカラーインク対策品20kgを受け取った。
対策品は UVカラーインクの濾過条件を変えたものであった。
川緑は松頭産業社で菊川課長と合流すると 新幹線で名古屋へ行き 在来線に乗り継ぎ タクシーで古友電工社三重事業所へ入った。
この日の午後9時30分頃に 生産技術課の村崎主任へ対策品を手手渡し、待たせておいたタクシーで2人が亀山の坂本旅館に着いたのは午後10時時頃であった。
翌26日午前10時頃に 菊川課長は坂本旅館近くの電話ボックスから村崎主任へ電話を入れて 昨日のUVカラーインク対策品の評価結果を聞いていた。
電話ボックスのガラス越しに見える菊川課長の表情から 川緑は昨日の評価結果が思わしくなかったことが分かった。
その日の午後2時頃に 2人は三重事業所へ入り 村崎主任に昨日の試験結果について聞いた。
主任は UVカラーインク対策品をコートした光ファイバーの伝送特性評価結果はNGであり 前回品からの改善は見られなかったと言い「次の対策品が届いたら直ぐに評価します。」と言った。
この日から約1か月間 毎週UVカラーインク新色の対策品を三重事業所へハンドキャリーして 対策品をコートした光ファイバーの伝送特性を評価結果を知らせてもらうというパターンが繰り返された。
この間 菊川課長は三重事業所にくぎ付けとなり 光ファイバー製造ラインの空き状況の情報入手やUVカラーインク対策品の納期調整を行った。
最終的には 新タイプUVカラーインク新色による光ファイバーの光伝送特性の低下の問題は解決し 新タイプのUVカラーインクは三重事業場で採用されることとなった。
今回の光ファイバーの光伝送特性の低下のトラブルは インク中の着色顔料の二次凝集により 光ファイバー表面にかかる圧力が不均一になり 芯線を伝搬する光のごく一部が散乱されることによるものと結論付けられた。
トラブルの原因となった顔料の二次凝集の発生は インク成分と顔料と添加剤の組み合わせとそれぞれの添加量によることが分かり またUVカラーインクの製造方法が二次凝集の発生を進行させていたことも分かった。
研究テーマ / 研究設備
6月3日に 川緑は 業務の合間に 実習生の永野さんの研究テーマを考えていた。
川緑は 新人研修のテーマを従来の実習生のテーマと同様「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」としてサブタイトルを「酸素阻害」とすることを考えていた。
アクリル系のUV硬化型樹脂は UV硬化の際に空気中の酸素により その硬化が阻害されることが知られており、その現象は「酸素阻害」と呼ばれていた。
光ファイバーの製造ラインでは 光ファイバーの生産性向上のために インクの硬化を阻害する酸素の濃度を下げるために UVカラーインクの露光工程には 窒素パージが行われていた。
高速硬化タイプのUVカラーインクの設計においても インクの硬化性と酸素濃度との関係は研究すべき重要な要因であった。
川緑は酸素のUV硬化型樹脂の硬化性への影響を研究するためのモデルを考えていた。
気体の分子運動論によれば 理想気体は空間の一軸方向に運動エネルギー(1/2)・kTを持つことが知られていた。
一方 質量Mの酸素分子が一方向に速度vで動いているときの運動エネルギーは (1/2)・Mv^2であるから これらのエネルギーが等しいと考えると これらの関係から 25℃では酸素分子の速度は音速くらいの値となった。
川緑は UV硬化型樹脂を塗布した時に その表面近傍にある一つの酸素分子の挙動を考えた。
先の計算結果から ある時間に一つの酸素分子は任意の方向に平均として音速で進むとすると、その酸素分子が近接するUV硬化型樹脂の表面に向かう割合はその方向の速度成分として表わされた。
一つの酸素分子が UV硬化型樹脂の表面から厚み方向の硬化性に影響する度合いは その酸素分子が持つ運動エネルギーに比例すると仮定すると、複数の酸素分子が影響する度合いはそれぞれの酸素分子が樹脂表面へ向かう速度成分の二乗に比例する運動エネルギーの重ね合わせで表現されると考えた。
川緑は永野さんの研究に このような酸素分子の運動とUV硬化型樹脂の硬化性とを紐付けしたモデルを考えて 酸素阻害を数値化する取り組みを考えていた。
6月4日午前10時頃に 川緑は 古友電工社に張り付いていた菊川課長に電話して ケイトウ電機社の新商品のUVレーザーのデモ機の貸し出しを依頼した。
ケイトウ電機社製のUVレーザーは 波長325nmの光を照射する露光機であり、実験系を単純化して UVカラーインクへの酸素の影響を精度よく観測するために必要な装置であった。
川緑の考える 酸素阻害の研究は 酸素濃度を変えた雰囲気下でUVレーザーを用いてUVカラーインクの露光実験を行い、インクの硬化状態を先述の酸素分子の運動のモデルを基に説明しようというものであった。
この実験には もう一つ必要不可欠な装置があり、それはナイコ・ジャパン社へ発注済みの顕微FT-IR装置であった。
6月17日午前10時頃に 新規事業部に運送業者のトラックが到着し、業者等は 1.2m四方くらいのコンテナ2つに入ったナイコ・ジャパン社製の顕微FT-IR装置を実験室に搬入した。
10時30分頃に ナイコ・ジャパン社の柳田氏等が来社すると、彼は顕微FT-IR装置の梱包を解いて 装置を組み立て始めた。
顕微FT-IR装置購入の件は 川緑の意向により 分析課が希望したビエラボ社の製品ではなくナイコ・ジャパン社の製品となっていた。
但し 新規事業部でのナイコ・ジャパン社の装置の購入には 技術研究所の技術者が装置を利用できることという条件付きであった。
7月16日午後2時頃に 技術部にナイコ・ジャパン社の技術の栗崎氏がやって来た。
彼女は 永野さんと川緑に顕微FT-IR装置の操作方法の中のコマンド方式と呼ばれる特殊な操作方法について指導を行った。
コマンド方式とは 顕微FT-IR装置に付随のパソコンからオペレーターが装置の操作を対話形式により行う方法であった。
コマンド方式で装置の操作を行うことにより オートステージを動かす時の待ち時間や測定時間等をコントロールすることができ、通常の自動測定に比べて測定時間を短縮することができた。
栗崎氏に指導を受けながら 川緑達は顕微FT-IR装置のオートステージ上に分析サンプルをセットして コマンド方式のモードで分析を行った。
約1時間の自動測定で200点の測定を行った結果は 川緑の期待通りの 定量分析が可能な赤外吸収スペクトルが得られ、川緑は 目的とする樹脂の硬化状態の解析が可能になったと確信した。
7月23日午後2時頃に ケイトウ電機社放電灯事業部の川辺氏が新規事業部へやって来た。
彼は 松頭産業社の菊川課長の依頼を受けて UVレーザー開発品のデモ機を運んできた。
UV(He-Cd)レーザー照射装置は波長325nmの紫外線を照射する装置であり 実習生の永野さんの研究で UVカラーインクの露光実験に用いるものであった。
ケイトウ電機社の川辺氏は 装置を渡すと「申し訳ないのですが He-Cdレーザーは次の使用予定がありまして、貸し出しができるのは1週間だけです。」と言った。
永野さんと川緑は 1週間でできる実験計画を立てると 直ぐに「酸素阻害」の研究に取り掛かった。
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