第13話 新人研修発表
新人研修発表 / 硬化性の近似式
1992年3月17日午前9時に 会社の講堂で下期の新人研修発表会が始まった。
新規事業部 技術部で研修を行った高野さんの発表は10時30分の予定時刻に始まった。
彼の発表テーマは 昨年の実習生のテーマと同じく「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」であり、サブタイトルは 高野さんが名付けた「UV硬化ってなんだろう?」であった。
彼の発表内容は UVカラーインクの硬化性を数値計算により求めることを目的としたものであり、そのための硬化性の近似式を求める取り組みであった。
昨年の実習生の浜崎さんの発表のポイントは「UVカラーインクの硬化性はインクに照射されるUV光の量の2階対数に比例する」であり、UVカラーインク各色についての関係式を提案していた。
この関係式は 硬化性の実測値を基に近似したものであったが 実測値からずれる部分もあった。
高野さんは この実測値からのずれを表現する硬化の式を得るために、UV樹脂の硬化のモデルに新しい2つの仮設を盛り込む取り組みを行っていた。
1つ目の仮設は 塗布したUVカラーインクを便宜的に微小な体積素片群として考えた時に、それぞれの体積素片の硬化性は それぞれの体積素片に照射されるUV光の量の2階対数に比例するというものであった。
2つ目の仮設は インクを構成する体積素片は その位置により硬化性が異なるというものであった。
これは インク中の光重合開始剤が重合反応を引き起こす時に 重合反応の範囲が 光重合開始剤の元の位置からの距離に対して確率分布で示されるという考え方を基にしていた。
高野さんは これら2つの仮説を盛り込んだ硬化の近似式を基にした硬化性の数値計算ソフトを作成し、UVカラーインク各色について UV露光時間とインクを構成する体積素片群の硬化度との関係を計算により求めていた。
また彼は UVカラーインク各色についてUV露光実験を行い、先の硬化度の数値計算結果との比較を行っていた。
硬化度の計算結果は インク各色のUV露光実験結果とよく一致していた。
インクの厚み方向の硬化度の計算結果は 先のビエラボ社での顕微FT-IR装置を用いた分析結果を再現し、また UV露光時間と硬化度の計算結果も 実測値と同様の傾向を示していた。
彼は 報告の最後に 2つの仮説が実証されたことと、この仮説を用いた硬化性の数値計算ソフトがUVカラーインクの開発に有効であることを述べた。
高野さんの発表が終わり質疑応答の時間になると 傍聴席から多くの挙手が上がった。
質問者の多くは 2つ目の仮説の「体積素片の位置による硬化性の違い」について質問した。
この概念は UV硬化型の樹脂に限らず熱硬化型の樹脂や2液硬化型の樹脂についても適用されるものなので、それらの樹脂材料の設計技術者等が興味を持って質問していた。
高野さんは 質問者にその概念のイメージを分かりやすく説明するために「それはプールの中で泳ぐ魚の群れのようなものです。」と言った。
この例え話は プールの中央付近で泳ぐ魚は自分の周りに自由な空間があるために活発に泳げるが、プールの壁の付近にいる魚は泳げる空間が狭く、活発に泳げないという意味であった。
すると その例え話に対して傍聴席から「魚の中には トビウオもいるよ。」という声やその声に呼応した笑も飛び出して 会場は妙な盛り上がりを見せた。
一方 彼の発表内容について 否定的な意見を述べる発言もあった。
それらは 2つ目の仮説は本当に正しいのかとの意見や、樹脂の硬化性を議論する上では樹脂の粘度変化の影響を考慮すべきではないかとの意見であった。
新人研修発表会の午後の部に 新規事業部研究所部の実習生の宮島 さんの発表があった。 彼の研究テーマは 高野さんのテーマと同じく UV硬化型樹脂の硬化性に関するものであった。
彼の発表は UV硬化型樹脂の厚み方向の硬化の状態を分析した結果の報告であった。
彼の発表内容は UV硬化した樹脂を その表面からサンドペーパーを用いて徐々に削り取り、削り取った粉末を臭化カリウム(KBr)粉末に混ぜて押し固めたサンプルを作製し、それらを赤外分光分析装置を用いて分析した結果をまとめたものであった。
彼は UV硬化型樹脂の厚み方向の硬化の状態変化をグラフに示していたが、示された状態変化は滑らかな曲線ではなく凸凹したものであった。
彼の発表が終わり質疑応答の時間になると 最初に有働技術本部長が質問した。
彼は 宮島さんが示したデータについて「その実験方法は 誰が考えたの?」と聞いた。
本部長の質問は 高野さんの実験と比較してのものと思われ、宮島さんは 彼の実習指導者の名前を出すのを躊躇してした。
宮島さんの発表を聞いていた川緑は 彼と高野さんの取り組み方に大きな違いがあると感じた。
一方は 単に現象を分析しその結果を考察しようとしたものであり、もう一方は現象に対して仮説を立ててそれを実証する方法を考えたことであった。
この日の午後7時頃 川緑は技術部の居室で電線メーカー各社向けの報告書を作成していた。 報告書ができると彼は コピーを取るために1階の複写機がある部屋へ向かった。
川緑が1階の部屋のドアノブに手を掛けようとした時に 部屋の奥の方から平田本部長の怒ったような声が聞こえてきた。
本部長は 米村部長に「これはうちの部でやることではないな。」と言い「このまま突っ走ったら とんでもないことになる。 やめさせろ!」と言うのが聞こえた。
川緑は 気にせず部屋に入り、入り口近くにあった複写機で報告書のコピーを取り始めた。
本部長は 川緑には注意を払うことなく 米村部長に 来年度の人員配置をどうするのか聞いていた。
川緑が居室へ戻り 明日の出張の準備をしていると、暫くして米村部長が戻ってきた。
川緑は「先ほどの話は 私のことを言っていたのですか?」と聞くと 彼は頭を抱えるようにして「そうや」と答えた。
やるしかないやろ / 研究の可否
翌3月18日午後1時頃に 日菱電線工業社の技術部門の佐野氏が東西ペイント社の東京工場へやってきた。
この日、佐野氏の要望により 工場のUVカラーインクの製造ラインの見学が行われ、技術部から米村部長と川緑が出張して対応に当たった。
午後5時頃に 佐野氏の見学が終わると、彼は関係者に御礼の言葉を述べて工場を後にした。
佐野氏を見送った米村部長と川緑も東京工場を出た。
東京工場から最寄の私鉄の駅へ向かう途中に 米村部長は 無言で居酒屋へ入っていったので、それを見た川緑も彼の後に続いた。
2人掛けのテーブル席に座り 彼等が飲食物の注文をすると 間もなく飲み物が届いた。
米村部長のグラスにビールを注ぐと 川緑は直ぐに昨日の平田本部長の話のことを聞いた。
「平田本部長は 私の研究を止めさせようとしているのですか。」と聞くと 米村部長は「高野君の あのテーマな、平田さんが了解してやらせとるテーマやけどな、おっさんは研究本部長の吉岡さんと技術本部長の有働さんが言ったことを気にしとるんよ。」と言った。
新人研修発表会の時に 吉岡研究本部長は高野さんの発表の後に「この研究は 一度チームリーダーの話を聞きたい。」と言っていた。
米村部長は 平田本部長が吉岡研究本部長の発言を、高野さんのテーマは技術部でやるべきことなのかと問われたと受け取ったと言った。
また彼は 平田本部長が有働技術本部長の研究部の実習生への「その実験方法は 誰が考えたの? 」との発言を、新規事業部の研究部と技術部で教育実習生等が同じようなテーマに取り組んでいながら、お互いに連携が取れていないと指摘されたと受け取ったと言った。
米村部長の話を聞いた川緑は「この研究は他社に負けないUV硬化型樹脂を設計に必要な取り組みです。研究部がやっていることとは関係ありません。」と言うと 米村部長は困った表情になった。
米村部長の様子に 川緑は研究活動を止められてしまうような危機感を覚えた。
研究活動を止められたらUVカラーインクの開発競争で競合他社に負ける戦いを強いられると感じた川緑は「私はいつも机の中に辞表を入れています。」と覚悟を伝えた。
すると部長は「昨日の高野君の研究発表を聞いとった人の中には 共感してくれた人もおるんよ。 短気を出したらあかんよ。」と言った。
「それでは このまま続けてもいいですか?」と川緑が聞くと「やるしかないやろ。」と部長は言った。
米村部長は「わし、一つ失敗したと思うとるんは 今回のテーマを始めるときな 技術研究所に一言いわなんだことや。」と言った。
技術研究所には UV硬化型樹脂関連の研究も行っている部署もあり、そこの一部は新規事業部関連の業務も請け負っていた。
「一言いう」とは 高野さんが研究を始める時に 事前に技術研究所に研究依頼をするか、または共同研究を申し込むということであった。
米村部長は続けて「と言うのはやな 技術研究所の担当部長は うちの様な小さい部署がどうやゆうても絶対に乗ってきよらへんやろ。 そうすると 後はこっちでどうやろうと何も言われる筋合いは無いとゆうことや。」と言った。
話を聞きながら川緑は 部長は会社で仕事をするには関連部署への気配りが必要だと言っているのだろうと思ったが、なんだか映画に出てきそうな渡世人のしきたりの様でもあり、新規事業部の商品開発力や技術開発力を構築するための本質からは外れたことのように感じた。
3月26日午後4時頃に 新規事業部の技術部内の来年度の人事異動の発表があった。
光ファイバー用樹脂材料関連のチームは 川上課長が東京工場へ異動となり、営業の北野係長が資材部へ移り、実習生の高野さんの生産本部への配属が決まった。
上司の川上課長の異動の後のポストは 米村部長が兼任することとなり 川緑は また1人チームの担当者となった。
4月10日午後2時頃に ケイトウ電機社の内藤次長から川緑に電話があった。
「その後の進捗はどうですか?」と内藤次長に聞かれ「すみません。分析装置の購入の件ですが、まだ社内の調整が取れてなくて 研究が止まっています。」と川緑は答えた。
川緑は TKM会の取り組みが進んでいない理由を詳細に説明しなければいけないと感じ「あのう 一度会って話をしませんか? 飲食店等ではいかかですか?」と言うと彼は「ああ それなら釣りに行きませんか?」と言った。
川緑は彼の言葉に少し驚いたが「ええ、ぜひお願いします。」と答えた。
4月18日午前2時過ぎに 川緑は家を出ると 車で西湘バイパスを西へ向かい国府津で降りると北上し、酒匂川に架かる橋の近くで車を止めた。
暫くすると 後方から来たタウンエースが川緑の横を通り過ぎて止まり、車から内藤次長が出てきた。
川緑は車を出て「おはようございます。」と挨拶すると タウンエースに乗り込んだ。
車は西へ向かい 南足柄から林道に入り暫く進んだ所で止まると、2人は明るくなるのを待った。
午前4時半頃に 内藤次長に促され 川緑は荷物を持って彼の後に続いて谷川へ下った。
木々が覆い薄暗い谷川に降りると、そこから沢を登りはじめ、良さそうなポイントを見つけては 2人は竿を出した。
午前8時半頃に 2人は明るくなった谷川の川岸に足を止めて朝食をとった。
内藤次長は 持参のコッフェルに谷川の水をくみ取りお湯を沸かし みそ汁を作ってくれた。
2人は近くの岩に腰を下ろし それぞれ持参したおにぎりを食べた。
午前11時頃に納竿となり、内藤次長の釣果は山女魚2匹、川緑は山女魚1匹と虹鱒1匹だった。
内藤次長は20年くらい前からここに通っていると言い、その間に森林が伐採され雨が降ると山の土が流されて山女魚の生息数も少なくなったと言った。
結局この日は 内藤次長から仕事の進捗について聞かれることもなく 川緑も仕事の進捗状況を 伝えることもしなかった。
川緑は 仕事の話を切り出すタイミングも取れず そうする気分にもなれなかったが、内藤次長の懐の深さを感じていた。
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