第11話 共同研究

   共同研究どうやろか?  /  TKM会


 1991年7月25日午前10時に 川緑は新横浜の近くにある松頭産業社を訪問した。            


 この日に川緑は松頭産業社の菊川課長からの紹介で発田光学社の技術者と面会して打ち合わせを行った。

発田光学社は光学部品の製造販売を行ており 川緑は彼に光ガイドの試作を依頼した。  


 光ガイドは 光ファイバーを30cm位の長さに切って束ねた後に その一端に集光レンズを取り付けたものであり、UVカラーインクのUV光照射実験に用いるためのものであった。 


 打ち合わせが終わり発田光学社の技術者が退室すると、入れ替わりで入室した菊川課長は 川緑に「別件なんやけどな。」と切り出し「実は 御社とケイトウ電機さんとうちとで共同研究やりたいと思うてんけど どうやろか。」と言った。                     


 課長は 電線メーカー各社のニーズに答えて光ファイバーの生産性を向上させるためには 3社の共同研究が必要だと言い、将来の新規UV樹脂材料の開発にも役に立つはずと主張した。


 松頭産業社は東西ペイント社の販売代理店であるが、ケイトウ電機社のUV光源の販売代理店でもあり、彼はこのコネクションを事業に結び付けたいと考えていた。


 課長の話は川緑にとっては渡りに船のような提案であった。                       


 1年程前に川緑はUV硬化型樹脂の硬化性の研究には UV光源に関する知見が必要と考えて、技術部の月次報告会の席でUV照射装置メーカーの西芝ライト社との共同研究を提案したことがあった。


 しかし 自社はその会社との取引がないことと、共同研究のための秘密保持契約等の手続きが煩雑だとの理由から その提案は取り上げられなかった経緯があったからであった。



 8月1日午前9時に 新横浜駅から車で約20分くらいの所にあるケイトウ電機社の放電灯事業部で、菊川課長が企画した3社による共同研究の第1回目の会合が行われた。     

この会合は 3社の社名をとって TKM会と名付けられた。 

 

 会合には ケイトウ電機社から放電灯事業部の内藤次長と森永氏と久保氏と鎌田氏が出席し、松頭産業社から菊川課長が参加し、東西ペイント社から米村部長と川上課長と川緑が加わった。


 この日の会議は 関係者の顔合わせが目的であり 具体的な議題はなかったが、参加者等にはお互いに相手方と組むことによるメリットがあるのかどうかの感触をつかみたい思惑が感じられた。


 3社には それぞれが目指している方向に共通点があった。                   

それは 3社が電線メーカー各社の光ファイバー増産計画に貢献することにより、それぞれの商品の売り上げ拡大やシェア拡大を目指すということであった。


 この時点で 東西ペイント社はいくつかの電線メーカーにUVカラーインクを供給しており、また高速硬化タイプのインクを開発中であり、更にインク以外の新規樹脂材料の開発も手掛けていた。 


 一方、ケイトウ電機社は 多くの電線メーカーに光ファイバー製造用のUV照射装置を供給しており、更に市場のシェア拡大のためにエネルギー効率のよいUV光源の開発を模索していた。


 それぞれ会社の思惑を具体化するためには それぞれの会社がどのような技術力を有していて、その技術がそれぞれの会社の製品のパフォーマンスの向上にどのように役立てることが出来るのかを知る必要があった。


 会合の最後に 今後の共同研究の具体的な方針についての議論があり、次回の会合までに3社それぞれの取り組み内容をまとめて提案することになった。


 今後TKM会がどうなるかは ケイトウ電機社放電灯事業部の責任者と松頭産業社の責任者と東西ペイント社新規事業部の責任者の判断に委ねられることになった。


 今日の会議での関係者等の発言を聞いた川緑は TKM会の今後に前向きな推進力を感じていた。

川緑は TKM会がUV硬化型樹脂の硬化性の研究を進めるための大義名分となると考えて、新規事業部サイドの活動計画に研究内容を盛り込むことにした。



  8月28日午前11時に 米村部長と川上課長と川緑はJR新横浜駅近くにある松頭産業社の事務所を訪ね、そこで野崎部長と菊川課長と奥田氏と合流しケイトウ電機社へ向かった。                                           

この日に菊川課長が企画提案した3社の共同研究TKM会が予定されていた。


 TKM会の開催は 3社のそれぞれの部門責任者等から部門の方針としてGOサインが出されたからではなく、とりあえず泳がせ様子を見ようという責任者等の判断でスタートすることになった。


 放電灯事業部の会議室に入ると そこには内藤次長と数名の技術者と営業部から数名の参加者等が待機していた。                                                  

会議に参加した3社のメンバーそれぞれの自己紹介が行われ、その後 本題に入った。 


 今回の会議は 川緑のまとめた共同研究案をたたき台にして 関係者等の意見を集約し、今後の方針を決定することがその目的であった。           


 川緑の共同研究案のテーマは「ランプ特性とUV硬化樹脂の硬化性に関する実験」であり、報告書の内容は4つの検討を柱としたものであった。


 検討の1つ目は ブロードな発光波長域をもつキセノン分光光源を用いたUVカラーインクの露光実験の検討であり、UVカラーインクの各波長の光に対する感光性を評価するものであった。 


 検討の2つ目は 露光したUVカラーインクの微小なエリアの硬化状態を定量的に評価する実験方法の検討であり、この方法を用いて1つ目の検討で得られる実験サンプルを評価し、インクの硬化性の波長の影響を数値化するものであった。


 検討の3つ目は ケイトウ電機社の現行のUVランプと現行のUVカラーインク各色とを組み合わせた露光実験の実施であり、UVカラーインクの硬化に適したUVランプを比較検討するものであった。


 検討の4つ目は 以上の3つの検討結果を基に「UV硬化型樹脂の硬化の理論」を構築し、その理論を基にUVカラーインクの硬化状態を数値計算するシミュレーションソフトを作成し、その計算結果をインクとUVランプの設計に反映するものであった。 


 報告の最後に 川緑は会議の参加者へ「今回報告しました一連の検討がうまくいくかどうかは、UVカラーインクの微小なエリアの硬化状態を評価することが出来るかどうかにかかっています。 評価装置として顕微FT-IR装置を考えています。」と言った。


 顕微FT-IR装置とは 顕微鏡付きの赤外分光分析装置のことであり、顕微鏡を通して赤外線を照射し試料の微小なエリアの分子の状態を分析する最新の装置であった。


 川緑は続けて「弊社にはその実験に対応できる装置はありません。 今後 この実験に使える装置の調査が必要です。」と述べた。


 川緑の報告が終わると、今後の進め方について議論が行われた。      


 ケイトウ電機社側からは 彼等のUVランプ開発品を用いて現行のUVカラーインクの露光実験を行いたいとの要望があり、そのためにUVランプ開発品を新規事業部へ持ち込みUV露光実験環境を整備したいとの提案があった。  


 ケイトウ電機社の提案は 彼等が今後試作するUVランプのそれぞれについて、現行UVカラーインクのそれぞれを組み合わせた露光実験の実施であり、膨大な作業量となることが予想された。


 川緑は彼等の要望を共同研究に盛り込むことは必要なことだと感じたが、それは 川緑が提案した4つの検討の後に行うべきだと主張した。


 彼がそのように主張したのは 単に彼等の開発品ランプと現行のUVカラーインクを組み合わせた露光実験を行っても、現状では その結果を考察する術がなく、その後の開発の方向を見出すことができないと考えたからであった。 


 午後7時30分まで会議は続いたが 今後取組むべき研究の詳細の合意には至らなかった。       

参加者等の間で合意に至ったのは まず川緑の考える微小なエリアの硬化性の評価が可能かどうかの調査を行い、その結果を参考に その後の共同研究の方針を再検討することであった。


 会議が終わりケイトウ電機社を出ると 川緑は米村部長に「この仕事は私一人では無理です。人を付けてもらえませんか。」と言った。                                                部長は「そうやなあ。」と言った後は口を閉ざしてしまった。



   怒るやろな  /  研究設備


 9月3日午前11時に 松頭産業社の会議室で 川緑はナイコ・ジャパン社の営業担当の柳田氏と打ち合わせを行った。    

ナイコ・ジャパン社は分析機器の製造販売を行う会社であり、最新の顕微FT-IR装置を取り扱っていた。


 川緑は 彼が考えている実験の詳細を柳田氏に説明し、ナイコ・ジャパン社の最新の顕微FT-IR装置を用いてその実験が可能かどうかを尋ねた。


 川緑が説明した実験は 平らな基板にUVカラーインクを薄く塗布し、紫外線を分光した光で露光したサンプルを作製し、これを顕微FT-IR装置を用いて赤外分光分析を行い、サンプルの微小なエリアについて硬化状態を分析するというものであった。


 分析エリアは サンプルの2 cm×4cmの範囲であり、分析は2cm×4cmの範囲を格子状に分割した格子点約2000点について行うものであった。


 川緑が希望する顕微FT-IR装置は 分析装置と顕微鏡とオートステージが連動しているものであり、分析サンプルの1つの測定点について、φ10μmからφ50μmのエリアの測定が可能であり、ステージの移動ピッチが、数μmから数百μmであり、一日で数千点の測定が可能なものであった。


 川緑は 柳田氏に「このような測定が可能であり、それぞれの測定点で綺麗な形の赤外吸収スペクトルが取れて、インクの硬化状態に関わる吸収の違いを定量的に取り扱える装置を探しています。」と要求事項を伝えた。  


 柳田氏は「弊社の装置で御社のご要望にお応えできるものがあるかどうか、一度持ち帰り検討してみます。」と言った。


 彼は「ご希望に沿うような仕様の装置につきましては、一式の価格が2000万円以上になります。 申し訳ないのですがデモ用の装置の貸し出しは行っておりません。」と続けた。


 後日に 川緑は国内で顕微FT-IR装置を取り扱う分析機器メーカー数社を訪れた。    

しかし いずれの会社からも川緑の希望に対応できる装置はないとの回答が帰ってきた。      


 彼等の保有する分析装置は オートステージの位置合わせの精度や移動速度において、川緑の希望に添いかねるとのことであった。



 9月26日午後4時頃に 川緑は分析機器メーカー各社の顕微FT-IR 装置の調査について、それぞれの装置の性能とコストの比較結果をまとめて川上課長と米村部長へ報告を行った。           


 米村部長は 報告書の中に丸印を付けたナイコ・ジャパン社のFT-IR装置のところを見て、 首を傾げながら「2000万円ね。 稟議書を出してみるか。 しれっと。 怒るやろな。」と「誰が」という主語を外して言った。

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