第10話 開発が進まない日々

   月曜病  /  1人開発体制


 1991年4月1日付けで 新事業本部内の組織変更があった。


 部内の2つのチームは 人員の増強が行われたが 光ファイバー用UV樹脂材料開発チームには変化はなく 川上課長の下に川緑1人の体制であった。



 4月5日午前10時頃に 川緑は会社を出ると JR平塚駅から電車に乗り東京駅へ向かった。


 東京駅から京葉線内房線に乗り 八幡宿駅で電車を降りると、松頭産業社の菊川課長が先に来ており 彼は改札口を出たところで電話で話をしていた。                    

彼は電話で訪問先の担当者へこれから伺うことを伝えていたところだった。


 八幡宿駅から車で5分程行った所に 目的地の古友電工社があった。              


 千葉事業場の守衛所で受け付けを行うと 彼等は技術棟へ向かった。              

技術棟の窓口で来社の用件を伝えると、受付の女性が愛想よく 彼等を会議室へと案内した。


 会議室で暫く待っていると 技術課の高岡課長と今田氏と荒巻氏と安武氏がやってきた。                                                   


 高岡課長は「御社のUVカラーインクを 従来品から高速硬化タイプに切り替えたいと考えています。」と言い「それに当たっては UVカラーインク全色の特性値を記載した報告書と納入仕様書の提出をお願いします。」と続けた。


 千葉事業所では これまで光ファイバーの生産性向上のために 塗料メーカーやインクメーカー各社からUVカラーインクサンプルを入手し評価を行っていた。 

評価の結果 新規事業部の高速硬化タイプのUVカラーインクが選ばれていた。


 川緑は彼等に「弊社のUVカラーインクをご評価頂き ありがとうございました。 ご依頼のありました資料につきましては 後日 報告にあがります。」と答えた。


 古友電工社からの帰りの電車中で 川緑は今日の打ち合わせの内容を振り返った。

千葉事業所での高速硬化タイプのUVカラーインク採用は とても良いニュースであったが 同時に 今後のユーザー対応の業務が頭をよぎった。 


 彼の頭をよぎったのは 依頼のあった報告書の作成や納入仕様書の作成の他に 東京工場でのUVカラーインクの試験製造から引継ぎまでの一連の業務であった。            

川緑は 当分の間はUV硬化型樹脂の硬化性の研究を進めるのは難しいだろうと思った。


 そう思いながら ふと隣に座っていた菊川課長に目をやると 彼は「ストレスを解消する本」と書かれた本を持っていて「最近 こんな本を読んでいるんです。」と言った。                 


 川緑が「いったい どうしたんですか。」と聞くと 彼は「月曜病です。」と答えた。 


 彼は商社の立場で色々な事業に取り組み 売り上げに繋げていきたいと考えていて、休日に仕事のことを考えすぎて眠れなくなり 月曜日には会社へ行きたくなくなるとのことであった。


 彼の考えている仕事の中には 電線メーカーをターゲットに 現在売り出しているUVカラーインクのシェアアップの他に新規樹脂材料の開発と展開もあった。                


 彼は 川緑のチームが増員されれば そのような思惑も実現できるものと考えていた。


 ところが 今年度の新規事業部の組織変更でも 体制は変わらず川緑1人であったことに 彼はひどいショックを受けていると言った。                    


 彼のそのような言動を見ていると 人は何か こうしたいという強い使命感があって そのことを妨げられると その強い使命感が自分自身を苦しめるものだと川緑は感じた。



 4月26日午後21時頃に 帰宅すると川緑に宅配便が届いていた。

箱を開けると 中には2冊の通信教育のテキストが入っていた。                       


 会社では 技術職で一定期間勤めた従業員を対象に通信教育の受講が推奨されていた。

この日の1ヶ月程前に 川緑は上司に勧められて通信教育の受講申請書を提出していた。


 届いた通信教育のテキストの一つは「実力管理者基礎コース」ともう一つは「英文テクニカルライティング」であった。 


 いずれの通信教育も半年間コースであり 毎月レポートを提出すると事務局での採点があり、合格点を取ることが出来たら修了書と受講料の半額が返ってくるというものであった。


 川緑は軽い気持ちで受講することにしたが 届いたテキストをぱらぱらとめくり 内容を確認すると急に力が抜ける感じがした。                


 それは これらの通信教育を受講して 果たして何か身に付くことがあるのだろうかという疑念に襲われたことと、受講に時間が取られることに強い抵抗を感じたからであった。


 川緑は 懸案のUV硬化型樹脂の硬化性の研究を深めるためには 自分自身の学識が足りないことを感じていた。


 川緑の考えるUV硬化型樹脂の硬化性の研究は UVカラーインクの硬化性を数値計算で求めるシステムを開発し、そのシステムをインクの設計に用いることにより 他社に負けない商品を作ることを目的としていた。


 しかし川緑は 今の自分の能力ではそのシステム開発は難しいと考えており 将来できるようにするために自宅で物理と数学の本を読んでいた。 


 物理の本はリチャード・ファインマンの 「ファインマン物理学」 を読み、数学の本はC・R・ワイリーの「工業数学」を読んでいた。                                    


 彼の学習方法は これらの本の全文をノートに書き写し 理解できたところは自分の言葉で注釈を入れ、理解できないところは その部分を後で調べられるようにコメントを書き込む作業であった。


 そのような作業は とても時間がかかるものであり 川緑は通信教育に時間を取られることが耐えられないことに感じられた。



 4月27日は休日であったが 川緑は一日中会社で仕事をしていた。


 今年 電線メーカー各社へ高速硬化タイプのUVカラーインクサンプルを提出して以来 川緑の仕事の量は急増していた。


 毎日 電線メーカー各社から新色のインクサンプルや色見本や技術資料の要求があり、川緑は それらの要求に答えるために 毎週休日出勤で対応していた。


 休日に仕事をしながら 川緑は 菊川課長の「月曜病」を思い出して 行き場のない状況を感じているときに ふと辞表を書いておこうと思いついた。 


 「長らくお世話になりました。このたび一身上の都合により東西ペイント(株)を辞職します。 平成3年  新規事業部 川緑 清」と A4紙にボールペンで書くと、川緑は 紙を折りたたんで封筒に入れ 表に「辞表」と書いて机の引き出しの奥にしまった。



   七流  /  工場監査


 1991年6月12日午前11時頃に 営業の北野係長から川緑に電話があった。


 この日に係長は藤河電線社を訪問しており、打ち合わせの中で 先方の技術担当者から「御社は二流でも三流でもない、七流だ!」 と叱咤されたと言った。


 北野係長の話では 藤河電線社に届いたUVカラーインクのボトルの一部にインクの漏れ出しが発生していて 作業者がボトルの蓋を開けると中にごみが混入していたとのことであった。      


 係長は これから インク漏れしたボトルを東京工場の品質管理課へ持ち込み、インク漏れの原因調査とごみの分析を依頼すると言った。



 6月14日午後1時に東京工場の品質管理課の会議室に関係者が集まり対策会議が開かれた。

会議には品質管理課の樋口課長と坂口係長と営業の北野係長と技術の川緑が参加した。


 会議が始まると 坂口係長から今回の藤河電線社のトラブルについての状況説明があった。                 


 彼の説明によると ボトルからのインク漏れは ボトルの内蓋に取り付けられたリング状の ゴム製のパッキンがインクを吸収して膨潤し内蓋を持ち上げてたことにより、輸送中にインクがボトルの外へ漏れ出したとのことであった。


 また ボトル内に混入したごみは 東京工場での分析の結果 その成分がボトルと同じ物質であるポリプロピレンであったとのことであった。           


 ごみの混入は ボトルのメーカーでこれを成型した時に発生したバリがボトル内に残存していたものと結論付けられた。


 次に 会議では トラブルの対策案が議論され 具体策と担当者とスケジュールが取り決められた。


 会議の最後に 樋口課長は「東京工場は UVカラーインクに求められるような高品質の製品を作れるようにならなければ将来はない。 全力で品質改善に取り組む。」と強い口調で言った。


 この頃 新規事業部の光ファイバー用のUVカラーインクは複数の電線メーカーに採用されており、徐々に 受注量が増加し 製造工場を平塚の試作課から東京工場に移しつつあった。


 東京工場は大田区にあり 周りには民家や町工場が密集していた。      

東京工場は このような立地環境にあったので 石油化学製品を多く取り扱う工場としては火災事故だけはなんとしても避けたいところであった。 


 そこで東西ペイント社は 東京工場で製造する製品は できるだけ引火性の低いものを対象とするという方針があった。  


 光ファイバー用UVインクは 引火性が低く付加価値が高い商品であり、将来の需要の伸びも期待できる商品であったので 東京工場サイドはこの商品を生産することに意欲を示していた。

        

 そのような背景が樋口課長の「全力で、品質改善に取り組む。」との強い口調に繋がっていた。



 6月27日午後に 藤河電線社の技術課からの要請を受けて 東京工場のUV カラーインク製造ラインの監査が予定されていた。                            


 今回のトラブルは藤河電線社で重大な問題として取り上げられており、今日の工場監査は ここで製造されるUVカラーインクが先方の求める品質に足りるものかを判断するものとなっていた。


 この日の午前中に 東京工場の品質管理課の会議室で 関連部署のメンバーと営業担当と技術担当の緑川が集まり事前の打ち合わせが行われた。                            


 打ち合わせでは 藤河電線社への報告の内容確認と 工場見学のルートの確認と 各部署で対応を行う担当者の確認等が行われた。 


 午後1時頃に 藤河電線社技術課の藤村課長と川辺氏と小森氏が来社した。           

松頭産業社の営業部の田野部長と菊川課長が彼等に同伴してきた。          


 事務棟2階の会議室に 関係者一同が集まると 東京工場監査が始まった。            

品質管理課の今村部長から これまでの一連のUVカラーインクに関するトラブルについての状況説明と 先方へのお詫びの言葉があった。


 次に品質管理課の樋口課長から トラブル対策を盛り込んだUVカラーインク製造の品質管理表の説明が行われた。


 その後 坂口係長は藤河電線社の面々をUVカラーインクの製造工場へ案内した。


 工場見学が終わり一同が会議室へ戻ると 藤河電線社の藤村課長から今回の監査についての感想が述べられた。                              


 藤村課長は厳しい表情のままであったが 東京工場サイドへのお叱りの言葉はなく 今後も引き続きUVカラーインクの品質向上に向けて努力してもらいたい旨の発言があった。

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