第9話 新人研修発表
開発の方向 / 新部長就任
1991年1月7日の新規事業本部の組織変更があり 技術部へ米村部長が赴任してきた。
これまで技術部の部長職は平田本部長が兼任していたが、技術部の事業が徐々に拡大してきたことにより 技術部の管理監督の強化のために専任部長が配置された。
米村部長は長身で細身、広い額にメガネを掛けており 目の表情は見えないが、彼は他の部長等と違い居室にいても あまり威圧感を感じさせないタイプであった。
米村部長が赴任してから1週間くらい過ぎた日に、彼は川緑のところへ来ると「あんなあ 今月の部課長会議で報告してもらえんやろか。」と言った。
川緑は「ということは研究費を使ってもいいということでしょうか。」と部長に聞くと「いや そらまだ、決まっとらへんのやけどな、おっさんらがあんたの仕事の進捗を聞きたいゆうとるんよ。」と言った。
部長によると 先日の川緑の部課長会議での報告の後に 部長等の間で賛否両論の議論があり、川緑の提案に対して直ぐにGOというわけにはいかず 様子を見るということになったようであった。
1月18日午前10時に 新規事業部定例の部課長会議が開かれた。
先日の米村部長から依頼の報告は 川緑に代わって新人実習生の浜崎さんが行った。
浜崎さんは研修テーマ「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」の中で2つの課題に取り組んでいた。
1つの課題は UVカラーインクをUV露光する時に 照射した光の内 インク中の光重合開始剤に吸収される光量を厳密に求めることであった。
もう1つの課題は 光重合開始剤に吸収される光の量とインクの硬化性とを比較検討して、それらの関係を考察することであった。
浜崎さんの研究の期待される成果は UVカラーインク中の光重合開始剤の光の吸収量と硬化性との関係を定式化することであった。
川緑は もしその関係を定式化できれば その式はUVカラーインクの設計に役立てられるはずであり、競合他社との開発競争に優位に立つことができると考えていた。
この時の浜崎さんの報告は 研究の結論や考察までは至っておらず 途中経過報告となった。
報告を聞いていた部課長等は 首をかしげたり 腕を組んで目をつぶったりしながら考え込んでいたが 特にコメントはしなかった。
1月21日午前10時頃に 松頭産業社の菊川課長が技術部にやってきて「川緑さん 依頼の品をもってきたで!」と言った。
彼が持ってきたのはケイトウ電機社製の開発品であり 光をナノメートル単位で分光し計測するスペクトル計測装置であった。
スペクトル計測装置を借り入れることになった事の始まりは 先日の部課長会議の後に、別途行われた松頭産業社との会議であった。
その会議は 川緑の担当する光ファイバー用UV硬化型樹脂開発業務に関する会議であり、松尾産業社の野崎部長と菊川課長が参加し 技術部の米村部長と川上課長と森田課長と川緑が参加した。
会議の目的は 光ファイバー用UV硬化型樹脂の開発推進であり、川緑はそのために必要な技術の構築と その具体的な取り組みについて 黒板に書いて説明を行った。
川緑は説明の中で 幾つかの実験装置とその価格を示した。
川緑の話を聞いていた米村部長等は「うーん。」と言ったきりで、この取り組みについてやれともやるなとも指示はなかった。
声を発したのは菊川課長であり「この取り組みは やらんとあきまへんで!」と少し強い口調で言った。 すかさず野崎部長が「おい 菊川、お前それ 内政干渉やで!」と制するように言った。
菊川課長の発言に対しても 米村部長から 何らかの意思の指示は示されなかった。
会議後に菊川課長は「川緑さん 私にできることがあったらゆうてな 協力するで!」と言った。
その言葉に反応した川緑は「菊川さん UV光源の発光スペクトルを測定したいんですが いい装置を知りませんか?」と投げかけた。
菊川課長は その後ケイトウ電機社の技術者に掛け合い、同社で開発したばかりのスペクトル計測装置を借りて、この日に持ってきてくれたのであった。
菊川課長は 川緑にとっては非常に頼りになる男であった。
課長の人とのコミュニケーション能力には秀でたものがあり、関係会社の管理職や技術者との繋がりが強く、関連会社の内部情報や開発品の動向に精通していた。
このような経緯で入手したスペクトル計測装置は川緑等の「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」を行うために なくてはならないものであった。
普段の川緑の実験では UV光源から照射される光量の測定には 市販のUV光量計を用いていたが、この装置で計測される光量は 受光素子の感度特性に応じて計測される量であり、UV光源の発光特性を反映しているものではなかった。
そこで UV硬化型樹脂の硬化性について UV光源の影響を議論する場合には UV光源の発光特性を知ることが必要であり不可欠であった。
菊川課長の話では 借りてきたスペクトル計測装置は メーカーでの使用予定があり 借りられるのは数日間だけであった。
浜崎さんと川緑は 直ぐに スペクトル計測装置を用いて 社内にある幾つかの高圧水銀ランプやメタルハライドランプの発光スペクトルの測定を始めた。
彼等は 発光スペクトルの測定と同時に 従来のUV光量計を用いて ランプの光量を計測した。
それは UV光量計の受光素子の感度のデータと ランプの発光特性とを紐付けして 比較するためであった。
新人研修発表 / 硬化性の近似式
1991年3月12日の新人研修発表会は 150名くらいが入れる広さの講堂で行われた。
講堂には 発表者のために演台とマイクが用意されており 演台の後ろに張られた大きなスクリーンに発表用の資料が映し出された。
資料のスクリーンへの投影は 傍聴席の最前列に置かれたオーバーヘッドプロジェクター(OHP)を用いて行われた。
OHPの操作は新人の教育担当者が行い また担当者は実習生の発表後の質疑応答の時に新人をサポートする役割も担っていた。
傍聴席の最前列の中央には技術本部長と研究本部長が座り、その周りには 各本部の部課長等が座っていた。
それぞれの発表者には 15分間の発表時間と 5分間の質疑応答時間が割り当てられていた。
新人研修発表会は 表向きは教育担当者の指導の下に 新人が自発的に研究を行い その成果を報告するものであったが、報告内容の良し悪しは 教育担当者の手腕にかかっていたので 会社の幹部等から教育担当者が評価を受けるといった側面もあった。
浜崎さんの発表は3番目であり 川緑がOHPの操作を受け持った。
彼の発表のテーマは「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」であった。
発表が始まると 浜崎さんは 落ち着いた口調でよどみなく発表を始めた。
彼の発表のポイントは UV露光時にUVカラーインク中の光重合開始剤に吸収される光量と インクの硬化性との関連を数式を用いて近似して 考察することであった。
彼の研究は川緑が考える「UV硬化型樹脂の硬化の理論」を構築するための第一歩であった。
それは 黒体放射における温度と放出される光エネルギーとを関連付けようとした Wienの式やRayleigh-Jeansの式と同じように、その後の Max Planckの式に到達するための試金石だと考えていた。
浜崎さんが行った実験は 石英板とUVカラーインクを交互に重ね合わせて インクを5層とした試験サンプルを作製し、UV露光を行い 硬化したインクの硬化状態を評価するものであった。
彼は 5層のUVカラーインクの硬化状態をゲル分率測定により求め、別途 5層の各層のUVカラーインク中の光重合開始剤に吸収される光の量を計算により求めて、それらの関係を数式で近似し考察を行っていた。
浜崎さんの研究の結果は 光重合開始剤に吸収される光の量の二階対数を取った時に インクの硬化の状態変化は 直線に近似されるというものであった。
彼の考察は 求めた硬化の近似式から導かれるものであった。
彼によると 直線の傾きがインクの反応性を示し、直線の立ち上がり地点が インクの光硬化の開始に必要な光量を示し、また 直線が示す硬化度が100%の点がインクの硬化が完了する点を示すものであった。
実際は 光量に対するUVカラーインクの硬化性は インクの硬化度が100%付近では実測値が直線から外れる挙動を示していた。
川緑には 硬化度の実測値が近似式から外れる挙動こそ 最も重要な点であった。
今回の硬化状態の近似式は Wienの式やRayleigh-Jeansの式 と同じように、現象の一部分の挙動を説明できるが、また説明できない部分もあるということを示しており、このことは インクの硬化性を議論するためには足りない要素があることを意味していた。
しかし 川緑は この近似式が黒体輻射の初期の近似式がそうであったように「UV硬化型樹脂の硬化性」の本質に迫るために必要なものとなるはずだと考えた。
浜崎さんの発表は予定されていた時間内に終わり、その後 質疑応答の時間となった。
最前列の吉岡研究本部長が右手を上げ「光重合開始剤の光の吸収量だが グラフを見るとLambert-Beerの法則に従っていないように見えるが?」と言った。
この質問に対して 発表者はその意味が分からなかったようで当惑していた。
吉岡研究本部長の近くにいた川緑は「代ってお答えします。」と言い「ここでいう光の吸収量は 波長250nmから500nmの間の積算光量です。この波長間には吸収の強いところも弱いところもありますので・・・」と言っている途中で、吉岡研究本部長は 左手を挙げてうなづき川緑の説明を止めた。
川緑は本部長が彼の説明しようとした内容を理解したことが分かった。
次に 有働技術本部長が発表者に「君は 数学が得意なんだね。」と言った。
発表者は「いいえ コンピューターも 最初は使えませんでした。教えてもらいました。」と答えた。
その後 傍聴席からいくつかの質問があったが いずれも今回の硬化性の近似式の持つ意味について触れたものはなく 拍子抜けさせられるようなものであった。
浜崎さんはこれらの問いに答えて 彼の新人研修発表は終了した。
この日の午後7時から 平塚駅の近くの「鳥秀」という名の焼鳥屋で 浜崎さん等新人の慰労会が予定されていて、川上課長をはじめ 気が合うメンバーがこれに参加していた。
その頃 会社で出張の準備をしていた川緑に 慰労会場にいた福永係長から電話があった。
受話器を取り「はい 技術部です。」と言うと 受話器から「何 仕事やってんの。止めろよ 早く来い OK?」と言う声が聞こえ 川緑の答えを待たずに電話が切られた。
焼鳥の「鳥秀」は川上課長が行きつけにしていた店であり 川緑は彼に連れられて何度か来たことがあった。
のれんを潜り開き戸を開けると 店内は5m×3m位の広さで 7名から8名掛けのカウンター席と 横に4名掛けのテーブル席があった。
「へい、らっしゃい!」通称「マスター」と呼ばれている店主の声に「こんばんは。」と答えて 店内を見渡すと そこは会社のメンバーで貸切状態になっていた。
ビールを片手に川緑は浜崎さん等実習生に「お疲れ様でした。」と声をかけて 会話に加わった。
浜崎さんは 一仕事終えて 緊張が解けたような 陽気な表情になっていた。
川緑は彼の発表の印象を話し その中で有働技術本部長に「数学が得意だね」褒められた時に「教えてもらいました。」と言ったことに対して「そういう時は、勉強しましたと言えばいいよ。」と言った。
それは 新人の研究発表会であっても 周りからは発表者本人の主体性が評価の対象となるからであったが、それでも川緑は彼の素直な態度に好感を持てた。
以前から川緑は上司に 浜崎さんを技術部に採ってもらいたいとの要望を伝えていた。
その理由は 彼にこのまま「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」を続けてもらい UV硬化の理論の構築を進めたいと考えていたからであった。
彼には このような仕事をこなしていける素養を川緑は感じていた。
というのは今回の実習中で 彼がそれまで経験したことがない業務を行う時に、例えば新しい実験であったり 数値解析用のプログラムを作成する時に、彼が好奇心を持って取り組んでいるのが分かったからであった。
新人研修発表会の翌日 川緑は川上課長から浜崎さんの配属先が他の部署に決まったことと 4月の人事異動では 川緑のチームには誰も配属されないことが知らされた。
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