第8話 実習生

   初めての実習生  /  研究に着手


 1990年10月8日午前10時頃に 新規事業部技術部に一人の男性新入社員がやってきた。

居室に入ると彼は「実習生の浜崎です。よろしくお願いします。」と言った。


 実習生の浜崎さんは 中肉中背、ぼさぼさ頭に手を伸ばして 少し照れながら話をするしぐさに 学生の雰囲気が抜けていない感じがした。                                


 教育担当となった川緑は 浜崎さんの関西弁と物おじしない態度が職場に新鮮な風をもたらしてくれるように感じた。


 先日の本部長報告会で 川緑は開発体制見直しと実験装置購入を依頼していた。

その回答は 川緑に実習生を付けることであり、実験装置購入の件は却下されていた。


 川緑は浜崎さんの研修テーマに「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」を選んだ。

このテーマを選んだのは 実習生であればユーザー対応から離れた少し基本的な研究をやっても、上層部は大目に見てくれるだろうという思いからであった。 


 川緑は 現行のUVカラーインクを研究対象として 浜崎さんに2つの研究課題を与えた。


 第1の課題は UVカラーインクにUV光を照射した時に インクを構成するそれぞれの成分のUV光の吸収量を実験により求め、それらのデータを基に光重合開始剤が吸収する光を数値計算により求めるソフトを作成することであった。


 第2の課題は UVカラーインクをUV光硬化した時に 照射したUV光の量とインクの硬化性を比較し、それらの関係について考察することであった。



 10月9日午前9時に浜崎さんが出社すると、先に来ていた川緑は「おはよう。 じゃあはじめましょうか。」と言って仕事の指導に当たった。


 この日の浜崎さんの仕事は 第1の課題を解決するための予備検討であり、UVカラーインクを構成する各成分の分光透過率を測定する作業であった。


 インクの各成分の分光透過率の測定は まず それぞれの成分を測定に適した濃度に希釈して、その後 分光光度計を用いて行われた。


 インクを構成する反応性の高分子樹脂や低分子樹脂は エチルアルコールを用いて 体積比で400分の1に溶解希釈した。

光重合開始剤は エチルアルコールを用いて 体積比で2000分の1に溶解希釈した。

着色材は 紫外線を良く透過する低分子樹脂に分散希釈して 体積比で10000分の1とした。


 各成分を体積比で希釈したのは 後に 透過率のデータを Lambert-Beerの法則に従って計算できるようにするためであった。


 分光透過率の測定は 波長250nmから500nmまでの波長域で1nm毎に行い、得られた数値データは 別途パソコンに取り込んだ。 


 次に 川緑は 得られた分光透過率データを基に計算ソフト作成の指導を行った。               


 この計算ソフトは 任意の厚みに塗布したUVカラーインクの光の吸収特性や 光重合開始剤の光の吸収特性を計算するものであり、後のUVカラーインクの硬化性を考察に用いるためのものであった。

この作業は プログラミングに慣れていない2人には 時間がかかる作業となった。



 10月12日に川緑はインク中の光重合開始剤の光の吸収量を求めるモデル実験の指導を行った。 

そのモデル実験は インクを2枚の石英板で挟み込んだ試料を作製し、試料の分光透過率を求める実験であった。


 このモデルには インク中の光重合開始剤の光の吸収量を厳密に求める狙いと 後のUV照射実験の結果とを紐付けする狙いがあった。 


 1つの狙いは 石英板で挟みインクの表面を平らにすることにより 試料に反射する光や透過する光や吸収する光の量を計算しやすくすることであった。

 

 また 1つの狙いは 2枚の石英板の間にスペーサーを挟むことにより インクの厚みを一定にすることであった。 


 更に 1つの狙は 空気中の酸素による硬化阻害を除くことであった。 


 光ファイバーに用いられるタイプのUVカラーインクは 空気中でUV硬化する時に酸素阻害と呼ばれる酸素による硬化阻害が引き起こされることが知られていた。

インクを石英板で挟むことにより酸素阻害の影響を除くことにした。


 モデル実験を行うには まず石英板の透過率と反射率を厳密に求める予備実験が必要であった。


 石英板の透過率は 分光光度計を用いて 厚さ0.1mmの薄い石英板をリファレンスに厚さ10mmの厚い石英板をサンプルとして測定を行った。 


 石英板は 可視領域では 光をよく透過するが 紫外領域では僅かに光を吸収するので、その吸収を正確に捉えるために厚い石英板を用いた測定を行った。


 また 石英板は 空気との界面で 光を反射するので、薄い石英板をレファレンスに用いることで 反射光の影響をなくしていた。  


 石英板の反射率は 空気をリファレンスに測定した 薄い石英板の分光透過率データと 反射率を変数とした数値計算結果と比較することにより求めることにした。

 

 数値計算では まず 反射率を波長の関数 r(λ)とし 石英の透過率を T(λ)とし 石英板に垂直入射する光が石英板の表裏と裏面で反射を繰り返すモデルを考えた。               


 石英板に入射する光を1次とし 裏面から反射する光を2次として 5次までの反射光について、石英板を透過する量と反射する量を求めた。         


 この様な操作により 光の反射量の合計と透過量の合計は 各波長について r の一乗から r の五乗までの関数からなる数列で示され、それらの比率が石英板の透過率を与えるものとなった。        


 得られた r(λ)を変数とする透過率は 薄い石英板と厚い石英板について測定された透過率と同じはずであった。            


 ところで 変数 r は 元々1より小さい値であるから r の三乗以上の項は0とみなすと 計算式は簡略化されて 二次方程式で示された。                


 得られた二次方程式式を解けば r が求まり 石英板を透過するUV光の量を厳密に求めることができるはずであった。


 予備実験で得られたデータを持って居室に戻った2人は 共用パソコンの前に座って この二次方程式の解を求めるプログラムの作成を始めた。


 ところが なんと 二人とも 二次方程式の解の公式を思い出すことができなかった。        

彼等は 近くにいた5名の技術系メンバーに聞いたが その問いに答えられる者は誰もいなかった。 


 浜崎さんは 居室を飛び出していき、暫くすると どこからかその答えを探し出してきた。        


 川緑は 理科系の大学を出て技術系の仕事をしていても 使わない知識というものはいとも簡単に記憶からなくなってしまうものだと感じた。


 それから1週間程すると、浜崎さんはUVカラーインクの成分に関するデータと石英板に関するデータをパソコンに取り込み、2枚の石英板に挟んだインクに吸収される光の量を求める計算ソフトを作成した。


 浜崎さんの「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」のための実験には もう1つ必要なデータがあった。

それはUV露光実験に用いるUV光源の発光スペクトルのデータであった。


 UV照射機はケイトウ電機社製の高圧水銀ランプを用いていた。


 ケイトウ電機社は 蛍光灯や紫外線照射装置や車のヘッドライト等に用いられる放電灯のメーカーであり、電線メーカーの光ファイバーの製造ラインにもUVランプを供給していた。


 ケイトウ電機社の高圧水銀ランプのカタログに載っていたUV光源の発光スペクトルは 波長300nmから700nmまでを10nm毎に積算した棒グラフであり、これでは数値計算を行うためのデータとしては粗すぎた。 


 そこで川緑は松頭産業社の菊川課長に UVランプの発光スペクトルデータの入手を依頼していた。   


 松頭産業社は ケイトウ電機社の販売代理店でもあり、菊川課長はウシオ電機社の技術者に頼んで高圧水銀ランプの発光スペクトルのデータを入手してくれた。


 UV光源の発光スペクトルのデータが菊川課長から届くと 浜崎さんはデータをパソコンに取り込み インクに吸収される光の量を計算するソフトの作成を進めていった。



   やってしまった感  /  社員旅行 


  1990年11月10日12時頃に 川緑はJR小田原駅を降りると 川上課長と合流し、駅の駐車場にとめてあった福永係長の車に乗り込んだ。 


 ワンボックスカーの運転手を任された川緑は 西へ向かうために東名高速に入った。

高速に入ると 後部座席にいた二人は 早速 缶ビールを開けて飲み始めた。


 午後3時過ぎに 彼等は目的地の浜名湖の館山寺に着いた。                   

この日に 新規事業部の社員旅行に集まったのは 営業部隊を含む新事業本部の総勢39名だった。


 川緑は幹事役に聞いて 割り当てられた部屋に入ると、宴会が始まるまでそこで本を読んでいた。                

「ストリートファイター、前田 日明」という本を読み進めると 彼は本の世界に入り込んで行った。 


 宴会の会場は畳敷きの大広間であり 広間の壁の4面に沿って 長テーブルと座布団が置かれていた。  参加者等が席に着くと 幹事役の挨拶があり 宴会が始まった。


 宴会の最初の頃 川緑は宴会場の入り口近くの席で大人しくしていた。

暫くすると 女性の店員さんに声を掛けられ、彼女についていくと衣装室で着物と鬘で女装させられてしまい、会場へ戻ったところ 幹事役にマイクを持たされ歌を歌うことになった。            


 その後 川緑は会場内を酒をついで回ったところを境に その後の記憶がなくなっていた。


    

 川緑の意識が戻った時は 既に朝になっていて 彼は頭がぼんやりするのを感じていた。

同じ部屋に泊まったメンバーの話を聞くと 昨夜 川緑は大騒ぎをしていたと言った。       


 彼等の話では 川緑は女装のまま 会社の女子を追い掛け回したり、福永さん達にタックルしたり、営業の城山部長と口論し テーブルやその周りを叩いていたと言った。          


 彼等の聞を聞いているうちに 川緑は冷や汗が出てきた。 

同時に 妙に右手が痛むのも その理由が分かった。


 この日の午前中に 新規事業部のメンバーは 浜名湖を散策して過ごして その後散会となった。 



 11月13日午前9時頃に 技術部の居室に研究部の杉本部長がやってきて「川緑さん 今度の部課長会議で 報告をしてくれんね。」と言った。 


 部課長会議は 新規事業部の幹部が集まる会議であり そこで川緑の話を聞くとのことであった。 

「はい、分かりました。」と答えたが 川緑には 彼等が話を聞きたい理由を分かりかねていた。  


 すると 近くにいた川上課長が「話の元は城山営業部長で 彼を納得させられたら川緑君が必要としている実験装置を買ってくれるそうだよ。」と言った。 


  「それは いったいどういうことですか。」と聞くと 川上課長は「覚えていないのか。」とでも言いたそうな表情で次のような話をした。


 先日の社員旅行の時に 川緑が酒に酔って騒いでいるところを 城山部長と川上課長が止めに入ったとのことであった。 


 それでも治まらない川緑に 城山部長は「そういう力は 仕事に向けろ!」と諭されたとのことだった。                              

川緑は「仕事をやりたくても 必要な装置がないからできないんです。」と言ったらしかった。 

すると 城山部長は「私を納得させられたら 買ってやるよ!」と言ったとのことだった。


 このやり取りは川緑の記憶から消えていて 川上課長の話を聞いた時に 川緑はやってしまった感で 頭を抱えてしまった。                                                


 川上課長と森田課長は「結局は それで良かったんだよ。」と川緑に声をかけた。  

川緑は 当面酒は止めようと思い どうしても外せない席があったら 飲む前に格闘技系の本を読むのは止めようと思った。


 数日後に 川緑は城山営業部長へ長い手紙を書いて、これを社内メールで送った。       

手紙の内容は先日の社員旅行での無礼な振る舞いについての謝罪と、彼の担当業務について やるべきと考えていることをまとめたものであった。



 今年の初め頃から 川緑は電線メーカー各社とのやり取りの中で UVカラーインクの改良を行い 高速硬化タイプのUVカラーインクを仕上げて行った。 

その結果 電線メーカーの数社で採用となり 徐々に UVカラーインクの注文量が増えてきていた。                         


 そのような状況の中で 12月10日にイタリアとフランスの電線メーカーからUVインクのサンプル依頼の話が飛び込んできた。

 

 1988年頃には 光ファイバーを用いた光通信事業について アメリカやEUと日本とでは その事業の必要性に差があると言われていた。 


 日本の様な国土面積が小さいところでは光通信は有効な手段であるが、アメリカやEUでは光通信網を張り巡らすには国土が広すぎて大変な作業となるので 無線通信に軸足を置いた政策がとられていると情報誌に記載があった。 


 それでも この頃には 光通信は気象の等の環境の影響を受けにくいことから 信頼性の高い通信手段であることが認められてきつつあった。



  12月18日に 新規事業部で部課長会議が予定されていた。                


 会議が始まる前に 技術部の居室へ城山営業部長が川緑を訪ねてやってきた。                        


 部長は「君の手紙を読ませてもらったよ。」と言い「専門的なことは私にはわからないが 君が言いたいことは私なりに理解したつもりだ。」と さっぱりした表情で言った。  

部長は50歳代前半くらいで、中背がっちりした体形にスーツが似合っていた。


 部課長会議が始まってから 暫くすると杉本部長が 別室で待機していた川緑を呼びに来た。     

部長に付いて会議室に入ると 川緑は会議の参加者等に資料を配り報告を始めた。   


 報告の中で 川緑は まず 技術部のUV硬化型樹脂材料の設計技術の現状について 技術レベルと開発体制を他社の状況との比較で示した。                                     


 次に 今後 新規樹脂材料の開発において 競合他社に優位性を確保するためには 技術レベルの向上が不可欠であることを述べた。                      


 最後に 川緑が考えている「UV硬化樹脂設計技術の構築」について述べた。 


 川緑の報告が終わると 部課長等の間で 議論が交わされた。

彼等の会話から 城山営業部長は川緑の提案に乗り気に見えたが 平田本部長と杉本部長は川緑の話を訝しがっているように見えた。                             

その他の部長等については 特にこの件に関心を示していない様に見えた。


 暫くすると 城山営業部長は「川緑君 君はもういいよ ありがとう。」と言った。

「失礼します。」と言って川緑は会議室を出た。

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