第7話 技術の仕事

   社外発表案件  /  フォトポリマーコンファレンス  


 1989年12月4日午前10時頃に 新規事業本部技術部の居室に研究部の杉本部長がやってきた。

彼は川緑を見つけると「川緑さん!来年6月のフォトポリにトライしてみんかね。」と言った。 


 フォトポリとは フォトポリマーコンファレンスのことであり フォトポリマー関連技術の発展を目指すフォトポリマー学会主催の国際会議のことであった。 


 彼の発言の背景には 川緑が担当している光ファイバー用のUVカラーインクのテーマが新規性のあるテーマであることと、先日の社内研究発表会での川緑の報告が他部門の部課長等に好評であったことが理由としてあった。 


 川緑は 今がUVカラーインクの開発の正念場だと感じており 開発に集中したいと考えて「せっかくのお話ですが、ちょっと今は時間が取れません。」と難色を示した。


 すると部長は「来年の話だよ。 まだ時間はある。 それに忙しい時ほどいい仕事ができるものだよ。」と言って、川緑を押し切ってしまった。


 部長が居室を出て行くと、川緑は社外発表をやるなら 今考えているUV硬化型樹脂の硬化性の研究を形にしようと考えた。


 彼は 高速硬化性のUVカラーインクの開発には インクの硬化性を数値計算できるような理論の開発が必要だと考えていた。


 UV硬化性の数値化が出来れば UVカラーインクの設計思想をより明確なものとすることが出来て、開発の方針を具体化できると考えていた。



 1990年1月8日午前6時に出社した川緑は 守衛所で鍵を受け取り 技術棟に向かい 建屋の扉を開けて 2階の居室に上がり 彼の机につくと動きを止めて考え込んだ。


 彼の机は 技術部の中では一番散らかっていた。

机の上には幾つものファイルや本や報告書が散乱し、机の下にはインクサンプルや色見本を梱包するための大小さまざまな段ボール箱が積み上げてあり、机の横の柱には ユーザーからの依頼をメモした紙切れが30件程 セロテープで貼り付けられていた。

 彼は UV硬化型樹脂の硬化性を数値化することを考えていた。 

彼は以前にノートにリストアップしていたUV硬化型樹脂の硬化性に影響する要素を見直していた。

リストを眺めながら 彼は まずUV光の照射エネルギーと硬化の状態との関係を近似する数式ができないかと考えた。 


 そう思うと 彼は机の上の報告書や引き出しの中の実験データを取り出して、それらの中からUVカラーインクの硬化性に関するデータを調べ始めた。


 UV露光量とインクのゲル分率の関係をグラフにしたデータを見ていた時に 彼は ふと 横軸を露光量の二階対数に取ったらどうなるかと考えた。 


 これまでUVカラーインクの硬化性のデータをグラフにする時は 横軸を露光量の一階対数に取って ゲル分率との関係を表示していた。 


 例えば 露光量を 1、2、4、8、16、32mJ/c㎡ と取り グラフの横軸に表示していた。   

これは 露光量を等間隔表示すると 露光量が多いところでゲル分率の変化率が小さくなり、グラフが間延びした形になるからであった。 


 川緑は幾つかのインクの硬化性の実験データを基に 露光量を二階対数にとったグラフを作成した。

すると グラフに表示された曲線の一部分が一定の傾きを持つ直線になった。                      


 このように露光量の二階対数を取るとゲル分率の変化の一部分が直線で示されることについて、川緑は UVカラーインクの硬化性の本質に関わる何かを表しているのではないかと考えた。


 彼は幾つかのUVカラーインクの硬化性のデータについて 露光量を二階対数に置き換えたグラフを作成し、得られたグラフの直線部分を近似する数式を求めてA4紙に書いた。 


 午前8時前に川上課長が出社してくると 川緑は彼に声をかけて A4紙に書いた関係式を見せて意見を聞いた。     

課長は「うーん、難しいな、でもこの関係は本当のような気がする。」と言った。


 その後 森田課長が出社してきたので 川緑は彼にも同様に聞いてみた。                     

A4紙をまじまじと見た後に 彼は「この式で Logが二回かかる理由は?」と聞いた。 


 その理由こそ 川緑が聞きたかったことであったが「良く分かりませんが 一回目のLogはインクの光の吸収に関わるもので 二回目のLogは重合反応に関わるものではないかと。」 と答えた。


 それから暫くの間 3人での議論となり、そこへ技術部の他のメンバーが出社してくると 彼等も入り意見を交換しているうちに午前中が過ぎてしまった。


 硬化性の近似式について会社のメンバーと話をしている時に 川緑は黒体放射スペクトルの式のことを思い出した。                              

それは 彼が学生の時に受けた量子化学の授業で聞いた話であった。 


 1900年頃に 小さな穴の開いた中空の黒体を加熱した時に 穴から放射される電磁波の波長とエネルギー密度の関係を定式化しようと考えた人達がいた。


 ドイツの物理学者 Wilhrlm Wien が提唱したWienの式は 短波長側で観測値と一致し、また イギリスの二人の物理学者が提唱した Rayleigh-Jeansの式は 長波長側で観測値と一致した。  


 最終的には ドイツの物理学者 Max Planckが Wienの式を基に エネルギーの量子仮説を盛り込んで 観測値と一致する式を見出した。 


 講義の中で 川緑の印象に残ったのは Wienの式やRayleigh-Jeansの式であり、彼等は彼等の提唱する式が黒体放射スペクトルの全てを表現していなくても、そこには 何か黒体放射の本質に関わるものがあると考えて その式を提案したことだった。          


 研究への取り組みの中で 観測結果を近似する関係式を提示することは 川緑には物事の本質を追及するために必要なことの様に思われた。



 1990年4月12日午後4時頃に技術部の居室で川緑は上司の森田課長と研究部の杉本部長に 第7回フォトポリマーコンファレンスで発表するペーパーのチェックを依頼していた。 


 テーマ名を「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」としたペーパーは A4紙4枚からなり、その内容はUV硬化型樹脂の反応性に関する2つの部分からなっていた。 


  内容の1つは 光重合開始剤の反応性を評価する電気化学実験の紹介であり、もう1つは露光量とUV硬化型樹脂の硬化性の関係式の提案であった。


 2人はペーパーを読み終えると それぞれ川緑にコメントを返した。


 内容の1つの光重合開始剤の反応性を評価する電気化学実験の紹介については 二人ともこれを公表することにOKであった。


 もう1つのポイントである露光量とUV硬化型樹脂の硬化性の関係式の提案については 意見が分かれた。


 森田課長は「このまま出してみてももいいんじゃないですか。」と言い、杉本部長は「一般的でない考え方を社外で発表するのは どうかね。」と否定的な考えを示した。          


 杉本部長が危惧した点は 一般的でない考え方を社外に提案すると 社外の技術者等はいろんな角度から質問をすることが予想されるが、それらの問いに対応することができるのかどうかということであった。 


 もし そのような局面で川緑が回答に窮したら 発表を許可した会社側の資質が問われることになるということであった。


 今回川緑がUV硬化型樹脂の硬化性の関係式を一般に提案しようとしたのは 黒体放射スペクトルに関する Wienの式やRayleigh-Jeansの式に習って、その式が現時点で現象の全てを説明できなくても、その後の研究には 重要な役割を果たすことができるという観点からであった。   


 それでも この件については もっと深く掘り下げた研究を行い 理論武装しなければ 公の場で堂々と話をすることはできないだろうと思い、川緑はペーパーを修正することにした。



 6月20日から22日の間に 東京にある大学の校内で 第7回フォトポリマーコンファレンスが開催された。                                             

22日の午前中に B会場で 川緑の発表が予定されており 彼は4番手だった。


 B会場は50人くらいが入る大学の教室であり、森田課長と川緑は定刻前にB会場に入ると 教壇に向かって左側の最前列に並んで座った。  


 定刻に発表会が始まり 1番手の発表者の北京大学の先生が教壇にたった。        

彼は 手に持った紙に書かれた漢字を見て発音し 少し癖のある日本語で発表を行った。  


 二番手の発表も 三番手の発表も 発表者は 日本語で発表した。                


 彼等の発表の内容は どちらかというと製品開発から離れた学術的な研究であって、彼等の発表の最後は研究成果を将来の商品に繋げたいといった結びになっていた。


 順番が来ると 川緑は教壇に上がり 手持ちの原稿の順番を確認して 発表を始めた。 

彼は最初に「発表は 英語で行います。」と日本語で断りを入れた。


 発表は 自社で開発中の光ファイバー用のUVカラーインクの紹介から始まり、UVカラーインクに高速硬化性が求められていることに触れ、発表テーマの「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」の必要性について述べた。                         


 彼は発表の中で UVカラーインクの硬化性をゲル分率で評価した実験結果と インクに用いる光重合開始剤の反応性を電気化学実験により評価した結果とを比較し考察を行った。


 発表が終わり質疑応答の時間となると 最初に前から3列目の中央付近に座っていたダルム・ジャパン社の宇野氏が挙手をした。 


 ダルク・ジャパン社は外資系の化学品メーカーであり 光重合開始剤の製造販売を行っていた。

技術担当の宇野氏は何度か東西ペイント社へ商談に来たことがあって面識があった。 


 宇野氏は「光重合開始剤の光の吸収ピークと感度のピークは一致しますか?」と聞いた。 

この質問は 川緑にとっても興味のある問題であったが答えは判らなかった。


 川緑は発表で紹介した光重合開始剤の反応効率を電気化学実験で求める手法に、分光光源を用いれば問題の答えが判るはずだと思った。    


 他の質問者等は 光重合開始剤の種類による反応性の違いについての問いや 電気化学実験で観測される電位の意味について質問した。


 発表会が終わり 電車で帰宅途中に 川緑の最寄の駅で中下車した森田課長は川緑誘うと近くの焼鳥屋に行き慰労会を行った。



   事業部の方針  /  渉外技術の仕事

 

 1990年10月1日付けで 新規事業部の技術部内の体制の変更が行われた。

光ファイバー用UV樹脂関連の開発チームの管理職は 森田課長から川上課長に代わった。


 川上課長は40歳台後半、小柄で中肉、白髪で日焼けした顔、竹を割ったような気性で、人の好き嫌いがはっきり分かる方であった。                              

気の合わない上司とは 距離を置き 部下の面倒はよく見るタイプの課長であった。


 この日に技術部の商談テーブルで 川上課長は川緑と業務の進め方について打ち合わせを行った。     

川緑は彼の業務内容をまとめた報告資料を課長に渡すと 資料に沿って報告を行った。

 報告書には「現状」と書かれた項目に 川緑が担当するユーザーとの折衝状況が示されていた。

また報告書には「重点取り組み」と書かれた項目に 川緑が重点的に取り組んでいる2つの業務とその業務遂行に必要な実験装置について示されていた。


  「重点取り組み」 の1つ目は 電線メーカー向け光ファイバー用UVカラーインク等の樹脂材料開発業務であり 市場のシェア拡大と新規ユーザーの獲得を目指す内容であった。


  「重点取り組み」 の2つ目は  「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」の取り組みであり 樹脂材料の開発技術力の向上を目指す内容であった。

報告書の最後に 川緑が必要と考える幾つかの実験装置とその価格が示されていた。     


 川緑の報告を聞いた川上課長は「川緑君が考えているように仕事をしたらいいよ。」と言い 「まあ しかし 研究費が取れるかどうかは分からんなあ。」と言った。



 10月1日の新規事業部の体制変更に伴い 5日に技術部の各チームから事業部の責任者等への開発テーマの進捗報告会議が開かれた。


 会議室には 中央に大きな円形のテーブルが配置され、その奥に平田本部長と杉本部長が席を取り、彼等の左右に課長職等が座っていた。

各チームの報告者は テーブルの手前の席について報告を行った。


 川緑は 先日 川上課長に報告した開発テーマの現状と重点取り組みについて報告を行った。           


 川緑は報告の中で 他社との開発体制の違いに言及し「技術部の業務はユーザー対応に追われることが多く、技術力を向上させるのに必要な基本的な実験ができていません。」 と言った。


 また彼は報告の中で 「今後 光ファイバー用樹脂材料の開発で勝ち残るためには 独自の技術力を向上させる取り組みが必要です。」と言った。


 彼の報告の間 腕を組んで下を向いて聞いていた平田本部長は 視線を川緑に向けると「君が言っていることは かなりアカデミックな内容のようだが。」と言った。 


 この言葉を聞いた時に 川緑は本部長の就任の挨拶で「君たちに 研究をやってもらおうとは思っていない。 」と言ったのを思い出した。


 間をおかずに 川緑は「いいえ違います。 この取り組みは 新商品を開発するのに必要な 泥臭いものです。」と少し声を大きくして言った。 


 すると本部長は「君が言っていることは技術部でできることなのか?」と言った。


 川緑が「できるかどうかではなくて やらないと競合他社に負けると思います。」と答えると 本部長は少し強めの口調で「では 君の提案は研究部にやってもらうか、それとも君が研究本部へ行ってやるか。」と言った。


 川緑は「それは人事権や決裁権を持つ組織の責任者が判断することでしょう。」と思ったが そのことを口に出さないでいた。


 二人の会話は途切れ 川緑の報告は気まずい雰囲気の中で予定の時間が過ぎて終わりとなった。


 会議室を出た川緑は 報告会での本部長の発言を振り返っていた。

彼は本部長の発言から感じられる新規事業部の方針と技術部の仕事を考えていた。

 

 川緑は 本部長の新規事業部の方針は新規事業を創出するために研究部と技術部の業務分担を明確にすることだろうと感じていた。


 新規事業部に所属する技術者の配置は 研究部ではドクターや院卒者が配置され、技術部では学卒者が配置されていたことも新規事業部の方針の一環であろうと感じていた。


 そうであるなら 事業部の責任者等が考える技術部の仕事とは ユーザー対応に徹することであり、基本的な研究はその範疇から外れるものだろうと川緑は感じた。


 一方で 川緑は競合他社との開発競争に今の体制で立ち向かうには、何か他社をリードするための独自の技術の構築が必要だと考えていた。


 川緑が考える独自の技術は、彼が光ファイバー用UV硬化型樹枝を開発のために立てた設計思想を具体化するために必要な技術であり、それは 本部長から見ると研究部の仕事に映るだろうと思われた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る