第6話 コンテスト

   UVカラーインクの設計思想  /  実験方法の考案


 1989年4月5日午前10時頃 川緑に技術企画管理部から社内メールで分厚い封筒が届いた。

封筒の中身はUV硬化型樹脂の硬化性に関する100件の文献であった。


 技術企画管理部には文献や特許のオンライン検索システムがあり各部署の依頼に対応していた。

先週 川緑は技術企画管理部の担当者と打ち合せ UV硬化型樹脂関連の文献調査を依頼していた。

川緑は 懸案のUV硬化型樹脂の硬化性の研究を始めるに当たり 文献調査から始めることにした。


 川緑が文献を読み進めていると 中に UV硬化型樹脂の起源について書かれた文献があった。     

その文献には 4000年前のエジプトでミイラを作るために遺体に樹脂液を浸した包帯を巻き日光に当てて乾かしたという記述があったと書かれていた。  


 UV硬化型樹脂の取り扱い経験のある人なら 反応性の樹脂液が人の皮膚を刺激し かぶれを引き起こすことを知っているが、樹脂液を浸した包帯を皮膚に巻くと その刺激の効果は著しいものとなるため ミイラの皮膚はどうなったのかと想像させた。

 

 UV硬化型樹脂の反応性について書かれた文献の多くは、樹脂の反応速度に関する研究を取り上げたものであった。 


 ある反応系の反応速度は 反応に関与する成分の濃度と経過時間との関係を表すデータを取得し、それらの関係をプロットした時に得られる傾きから求められていた。                    


 この方法に従い 重合反応に関与する樹脂成分や重合開始剤の濃度の時間変化を測定すれば、それぞれのUVインクの硬化性を 反応速度という側面から比較ができると思われた。 


 しかし この評価方法は 限定された条件下で行われるので UV硬化型樹脂が実際に使用される状況とは異なるものとなり、そのままUV硬化型樹脂の設計に反映させることはできないと思われた。


 川緑がイメージしていた硬化性の評価方法は インクの実使用下での評価と可能な方法であり、その評価結果がインクの設計に反映されるものであった。


 文献の中に 毛色の変わったものもあった。                     

それは中国の北京大学の文献であり UV硬化型樹脂を高磁場下でUV硬化させると、磁場のない時に比較して 硬化物のガラス転移点が20℃高くなるという内容であった。


 磁化率を測るGouyの磁気天秤を用いた高分子材料の磁化に関する実験例は多くあり、おそらく UV硬化型の樹脂材料についても 何らかの作用を及ぼすものだろうと思われた。


 有機溶媒に溶解した光重合開始剤を高場下に置いた時、磁場の作用で光重合開始剤分子のベンゼン環に電流が流れ、Flemingの左手の法則によりベンゼン環に力が働き、磁力線に垂直な方向にベンゼン環の平面が配列することが予想された。 


 この時 重力方向の磁束密度に強弱があれば 光重合開始剤の分子は磁束密度が低い方へ引っ張られるので、それらの分子はベンゼン環の面を揃えて配列することが予測された。


 川緑は 高磁場下で光重合開始剤の分子にUV照射を行った時に 活性種の反応は方向性をもつのだろうか、また UV照射を行う時に 活性種による連鎖反応は 方向性を持つのだろうかと考えた。


 もしそうなら北京大学の論文のように 方向性を持った重合反応は 樹脂の架橋密度や物性値に影響するのだろうかと想像した。


 結局 川緑の文献調査では UV硬化型樹脂の実使用下で その硬化状態を評価できる方法を見出すことはできなかった。


 川緑は 光ファイバー用の高速硬化タイプのUVカラーインクを開発するには 実使用下でのインクの硬化性を より良く理解することが必要であり、そのためには UV硬化型樹脂の硬化のメカニズムを厳密に理解することが必要だと考えた。 


 そこで 彼は独自に「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」に着手することにした。


 5月8日午前10時頃 実験室から居室に戻った川緑は 川上課長と上司の森田課長に声をかけて彼等を居室の給湯室の前にあるテーブルに誘導した。


 彼等がテーブルに着くと 川緑は高速硬化タイプのUVカラーインクの開発のために「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」を始めたいことと その理由を説明した。


 森田課長は「そういうことは、できるときにやっといたがいいよね。」と言った。         

川上課長は「いいぞ、やれ、どんどんやれ!」とエールを送った。


 勿論 彼等は所属部署の責任者の了解なしに このような業務を決める立場ではなく、川緑の考えに個人的に賛同するということであった。


 川上課長と森田課長の言動は 上層部を向いて仕事をするとか ご機嫌を伺うといったことはなく、むしろ業務の方針等について部長等に対して反発する場面が多く見られた。                                               


 川緑には彼等の態度が職場に自由で明るい雰囲気を与えているように見えた。

彼等の言葉に元気づけられて 川緑は「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」を始めることにした。


 机に戻った川緑は まず UVカラーインクの硬化性に影響する要因にどのようなものがあるのか調査を始めた。                          


 彼は 文献や書籍等に記載されていた情報から UVカラーインクの硬化反応に影響する要因をノートに書き出し、それらをインクの組成面に関わるものとインクの組成面以外に関わるものとに分類した。


 次に それら要因のそれぞれが硬化性に与える影響を評価する方法を考え始めた。 


 また 川緑は「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」を進めるには 明確な目標と方針が必要だと考えた。

目標と方針がなければ 先々研究活動自体が方向性をなくし、うやむやになってしまうと思った。 

 

 彼は研究目標を 少なくとも得られる研究結果が UV硬化型樹脂の硬化性を何らかの形で説明できるものであり、UVカラーインクの硬化性を厳密に比較ができることとした。 


 彼は研究の方針を UVカラーインクの硬化性の向上を目指して UV光源の光エネルギーの消費経路と消費量を数値化し、光エネルギーの利用効率を良くする方向を目指すこととした。


 6月29日午前8時頃 始業時間前に出社した川緑は UV硬化型樹脂の硬化性の研究の中で 光重合開始剤の反応性を評価する方法を考えていた。


 UVカラーインクの硬化反応は 光重合開始剤の光吸収による活性化により進行するものであった。

一方 光重合開始剤が吸収する光の量は インクに吸収される光の中で 着色材や樹脂分子や添加剤等に吸収される分を除いた量であった。 


 このことは  UV硬化反応がインクの成分の影響を受けることを意味しており、光重合開始剤の反応性のみを評価するには その他の成分の影響を切り取って考える必要があった。


 川緑は 光重合開始剤が吸収したエネルギーを利用して 何か化学反応を起こせないかと考えた。

光重合開始剤が吸収するエネルギーは の波長の逆数にPlanck定数を掛けたものであり、例えば 波長が350nmの紫外線がもつエネルギーは、5.7×10E-19Jであった。


 一方 第一鉄イオン(Fe2+)が酸化されて第二鉄イオン(Fe3+)になるのに必要なエネルギーは  1.8×10E-19Jであり、先の光のエネルギーよりも小さいことが分かった。 


 川緑は これらの2つの化学反応を組み合わせて 光重合開始剤の反応性を評価することが出来ないかと考えた。


  1989年8月1日午後2時頃に 懸案の光重合開始剤の反応性の評価を行うために 川緑は次のような実験装置を作製した。 


 200ccのビーカー2つを 2つの隣接するスターラーに乗せて それぞれのビーカーに白金電極を差し、白金電極同士は電流電圧計を介して銅線で接続した。 


 それぞれのビーカーに 光重合開始剤と塩化第一鉄を 水とエチルアルコールの混合液に溶かした溶液を 100ccずつを注いだ。


 次に チューブを用いて その一端を片方のビーカーに差込み 試料溶液を吸い上げて チューブの他端をもう1つのビーカーに差し入れ 双方の溶液をチューブを通して連結した。


 それぞれのビーカーの溶液に 窒素をバブリングして 第一鉄イオンと活性化した光重合開始剤が空気中の酸素により酸化されることを防止した。


 5分間のバブリングを行い実験系を安定させた後に UV照射装置を用いて 片方のビーカーの試料溶液にUV光を照射した。 


 川緑は UV光照射した時に ビーカー中の光重合開始剤が吸収したエネルギーにより第一鉄イオンが酸化されて 他方のビーカー中の溶液との間に電位差が生じて電圧計の針が動くことを期待した。


 ところが 試料溶液にUV光を照射してもアナログ式の電流電圧計の針は動かなかった。 

川緑は首をかしげ「うーん!」と言って 針が動かない理由を考えていた。


 すると そこへ杉本部長がやってきて「いったい、何の実験をやっとるんかね?」と声をかけた。

川緑は彼に「電気化学の実験をやってまして、この針が動くはずなんですが。」と言った。 


 彼は 暫く電流電圧計を見ていたが「針が動いとるぞ!」と言った。         

川緑が見ると 確かに 針がメモリのゼロ付近で小刻みに動いていた。


 針の動きを見た瞬間に 川緑は事態が把握できた。 

彼が想定した反応のプロセスは進行して電極間に電位差が生じたが 電流電圧計の内部抵抗が小さいために 電極間を電流が流れてしまい電位差が計測されなかったということだった。


 川緑は 直ぐに研究本部へ行って 以前にアンテナ用保護塗料で交流のあった島崎係長を探した。川緑は 実験の状況を説明して 彼に内部抵抗の高い電圧計を貸してくれるように頼んだ。

島崎係長は「面白い実験をやってるな。いい装置を貸してやるからがんばれよ。」と言った。 


 技術部の実験室に戻った川緑は 実験をやり直すことにした。

先と同じ手順で準備し 実験系を安定化させると UV照射装置のシャッターを開けた。


 彼は同時に ストップウォッチを押しながら 電圧計の液晶表示に目をやると 電圧が上昇しているのが見えた。 

電圧の発生を確認すると 川緑は1分ごとに電圧の値を読み取りノートに記録していった。  


 実験開始から20分くらい経つと 電圧の値は一定の値で安定し、その後 UV照射装置のシャッターを閉じると 液晶表示の電圧は降下し始めた。 


 川緑は実験結果をノートに記録すると、その後 幾つかの光重合開始剤について同様の実験を行い、また 2つの光重合開始剤を混合した系についても実験を行った。


 次に 川緑はUV光源を高圧水銀ランプからメタルハライドランプに交換して同様の実験を行った。


 実験により得られたデータは 光重合開始剤の種類や組み合わせによって、また光源の種類によって異なり 到達する電圧の最大値も異なった。                                               


 これらの実験結果は それぞれの光重合開始剤が 第一鉄イオンをどれだけ酸化させ易いかを示しており、光重合開始剤の反応性を表しているものと思われた。 


 川緑はこの一連の電気化学実験を行う中で 興味を惹かれる現象を目撃した。            


 多くの試験サンプルは UV照射時に 電圧がプラス側へ変化したが 中に1つだけ マイナス側へ変化するサンプルがあった。

そのサンプルは 光重合開始剤の反応が異なるタイプのものであった。


 川緑は 異なるタイプの光重合開始剤を用いた試料溶液を それぞれビーカーに注ぎ、双方のビーカーに同時にUV照射すれば 光のエネルギー変換効率の良いバッテリーができるのではと想像した。


 想像の世界から戻った川緑は 今日の実験結果を基に 反応性の良い光重合開始剤と その組み合わせを UVカラーインクの設計に反映させることにした。



   やりましたで!  /  社内発表会


  1989年11月2日午前10時頃に 技術部の居室の電話が鳴った。

受話器を取った川緑が「はい 技術部です。」と言うと「川緑さん やりましたで! スクリーニングに生き残りましたで!」という菊川課長の熱気のある声が聞こえてきた。


 この日の1ヶ月程前に 川緑は電気化学実験の結果を基に 硬化性を改善したUVカラーインクを試作していた。


 その後 彼は 営業の北野係長と松頭産業社の菊川課長と供に電線メーカー各社を訪問し、UVカラーインク試作品の紹介とインクサンプルの評価を依頼していた。


 菊川課長の話では この1ヶ月間に電線メーカー各社では 塗料メーカーやインクメーカー各社からUVカラーインクインクサンプルを入手し、これらを横並びに評価を行うコンテストが行われたとのことであった。


 また彼によると 電線メーカー各社での今回のコンテストは UVカラーインクの候補品を絞り込むための1次のスクリーニングであり、その結果 川緑のインク試作品は生き残ったとのことであった。


 更に彼は 藤河電線社からの情報では 今回のコンテストに参加した塗料メーカーやインクメーカーは総数15社であり その内スクリーニングで残ったのは5社であったと言った。

 

 最後に彼は「川緑さん 電線メーカー各社さんは 今回のインクサンプルに満足してはいません。更に硬化性のよいインクを要求しています。 これから1年から2年かけて 更にコンテストを行い 彼等の希望するインクを追求するそうです。 ここが踏ん張りどころです。 がんばりましょう。」と言った。


 菊川課長の話を聞いた川緑は 現時点では彼の設計思想は間違ってはいなかったと感じた一方、今後を考えると 今の課長以下実務一人の体制は心もとないものと思った。


 12月1日午前10時から平塚事業所の講堂で社内研究発表会が開かれた。      

150名くらいが入れる広さの講堂の奥には 大きなスクリーンが張られており、その前に置かれた演台には発表者用のマイクが用意されていた。 


 傍聴席は講堂の前方から中央部まで長机が配置され 後方は立見席となっていた。

最前列の中央には 技術本部長と研究本部長が座り その周りに各本部の部課長等が陣取っていた。  


 午後2時に川緑の発表の番が回ってくると 彼は登壇し発表用資料を演壇に置きマイクを叩いて音声が繋がるか確認した。


 彼は「報告を始めます。」と言って スクリーンに映し出された発表のテーマ「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」をポインターで示した。


 彼は約20分間の発表時間の中で 新規UVカラーインクの開発の背景と開発内容と成果について報告を行った。


 彼の報告内容は 電気化学実験により求めた光重合開始剤の反応性の評価結果と その結果を基に設計したUVカラーインクが電線メーカー各社で仮採用となったことであった。


 川緑の発表が終わると 最前列の吉岡研究本部長が質問した。

やや上背がありふっくら体型の彼は「電気化学の実験は 君が考えたのか?」と聞いた。


 川緑は「はい そうです。この実験は 硬化性に優れたUVカラーインクを開発するために考えたものです。」 と答えた。


 次に 研究本部長の隣にいた有働技術本部長が質問した。

彼は「君の開発テーマは何人でやってるの?」と聞いた。


 川緑は「課長と私の2人です。競合他社はもっと多くの人手をかけているそうです。」と答えたが、その答えに対するコメントは無かった。

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