第5話 新規事業部に転属

   技術部に配属  /  開発に着手


 1989年2月1日に会社組織の中に新規事業部が新設された。


 新規事業部は 社内で取り組み中の開発テーマの中で 近い将来に新規事業となりそうなテーマを集めて組織化された事業部であり、研究部と技術部と営業部からなる総勢約40名の組織であった。


 新規事業部は神奈川の平塚事業場に研究部と技術部隊の拠点が置かれ、東京品川区の営業所に営業部隊の拠点が置かれた。


 新規事業部の事業部長は他部署から来た平田部長が担当した。

旧工業用塗料部から 昇格した杉本部長が研究部へ配置され、昇格した川上課長と森田課長と役職変わらずの川緑が技術部へ配置となり、また JEL社からは 福永係長が技術部へ中途編入となった。


  技術部は 3つの開発チームから編制され、 1つはUVカラーインク等の光ファイバー用のUV硬化樹脂開発チーム、1つはプリント回路基板用の電着UVエッチィングレジスト開発チーム、1つはプリント回路基板の絶縁用のソルダーレジスト開発のチームであった。 


 今回の新規事業部が新設は これらの開発テーマのてこ入れを行い、その中から新規事業創出することにより 会社の経営に貢献したいという上層部の思惑が読み取れた。


 森田課長と川緑は 新規事業部の技術部でこれまでの光ファイバー用UVカラーインクの開発を継続することになった。


 この日の午後に 新規事業部の技術部の居室で 技術部のメンバーを対象に 平田事業部長の就任の挨拶があった。

中背細身で日に焼けた顔にめがねをかけた平田事業部長は 挨拶の中で事業部の仕事の方針に関わる話をした。


 話の中で 彼は「君たちの仕事は それぞれのユーザーへの対応をメインとした技術の仕事だ。 君たちに研究をやってもらおうとは思っていない。」と言った。


 彼の言葉に川緑は少し違和感を感じたが 彼が意味する「研究」とは新規樹脂材料の開発に繋がらないような悠長な実験等の仕事のことであろうと思った。


 もっとも 最近の川緑の業務は電線メーカーからのUVカラーインクのサンプル依頼の対応に追われていて 何か「研究」と呼べるような仕事をすることはなかった。


 それに上司の森田課長の昇格により 電線メーカー訪問等も含めた実務は川緑の担当となり「研究」は縁の無い業務ばかりであった。


 2月15日午前9時40分頃に JR東海道線の大船駅の改札口を出た川緑は 営業の北野係長と松頭産業社の菊川課長と合流した。


北野係長は やや背が高く細身で 面長で色白の顔に眼鏡を掛けており、訛りのない話し方をした。


 菊川課長は やや背が高く、ふっくらした体型、パンチパーマ風の髪型に日焼けした顔に色の付いた眼鏡を掛けていて ちょっと怖い人に思われそうな外見であったが、人当たりのよい表情であり関西弁が入ったやわらかい話し方をした。


 この日に彼等は大船駅からタクシーに乗り 大手の電線メーカーの住倉電工社を訪問した。


 守衛所で記帳すると 彼等は技術棟の建物へ入り 受付の女性の方に彼等の訪問を伝えた。

受付の女性への問い合わせは 菊川課長が行い 彼は先方の担当者名と来社の用件を告げた。 


 彼の人当たりのよさは抜群であり、受付の女性は彼の名前と彼が喫煙することを覚えて 灰皿をもって商談室へと案内してくれた。


 彼等の訪問の目的は 住倉電工社の光ファイバーの開発担当者へUVカラーインクの試作品の紹介と試作品の評価依頼のための交渉であった。


 川緑は 試作インクを紹介するために インクの性能を報告書にまとめていた。

報告書にはインクの液特性に関するデータとインクの硬化物特性に関するデータを添付していた。 


 インクの液特性に関わるデータには 粘度や比重や粒度分布や硬化性等の評価項目があった。 


 インクの硬化性に関するデータには インクをUV硬化させたときのゲル化(固化) 比率を求めるゲル分率と呼ばれる評価方法により得られた値を示していた。 


 ゲル分率の評価は 硬化したインク薄膜を 所定の有機溶剤に浸漬し煮沸し、薄膜中の未硬化成分を除いた残分の重量比率を求めるものであった。


 インクの硬化物特性に関わるデータには 機械的強度や弾性率の温度依存性やガラス転移点や剥離性等の評価項目があった。                                      


 機械的強度の測定は 先述の薄膜を短冊状に裁断したものを作製し、これを引っ張り試験機に掛けて 弾性率と伸び率と破断強度を求めた。 


 弾性率の温度依存性とガラス転移点は 先に同じ短冊状の試験サンプルを用い、動的粘弾性測定装置を用いて測定した。


 UVカラーインクの機能には 硬化後にインク表面に剥離性を有することが求められていた。   

インクの剥離性は 光ケーブルを施工する時の個々の光ファイバーの末端部分を別の光ファイバーと結線する時に求められる機能であった。 


 光ファイバーの結線作業は 4芯や8芯毎に樹脂でテープ状に加工してある光ファイバーの末端部分樹脂を剥がし、カラーリングされている光ファイバー同士を突合せ 末端部分をレーザー照射により溶着し結合する作業であった。


 このような結線工程では 作業性の向上のためにテープ状の樹脂を容易に剥がすことが必要となり、そのためにインクの表面に剥離性の機能が求められていた。   



 川緑が報告書の中身を確認していると 商談室の戸が開き 光ファイバー開発担当の石坂主任研究員が入ってきた。


 初対面の川緑は 椅子から立ち上がると名刺を取り出し「お世話になります。技術の川緑です。よろしくお願いします。」と言った。


 石坂主任研究員は30歳代中頃、中背ふっくら体型であり椅子に座ると見た目以上に貫禄があった。


 川緑は用意した報告書を研究員へ手渡すと 試作インクの性能について報告を始めた。

報告の終わりに川緑は「ぜひ 試作インクのご評価をお願いします。」と言った。


 椅子に深くすわり腹の上に腕を組んで目をつぶり考え込んでいた研究員は川緑に「御社のUVカラーインクの設計思想を教えてください。」と言った。 

 

 この質問は川緑を緊張させるものであり 生半可な回答は許されないと思わせるものだった。       

回答如何によっては 研究員が試作インクを評価しない可能性があると感じられたからであった。


 川緑は 他の電線メーカーの技術者から光ファイバーの性能評価には多額の費用がかかると聞いていた。             


 UVカラーインクの初期性能評価は 4色にカラーリングした光ファイバーのそれぞれをkm単位の長さで作製し、これらを束ねてテープ状に加工した後に ボビンに巻き取った状態で光の伝送特性等を試験するものであり、試験に数千万円の費用がかかると聞いていた。   


 更に 光ファイバーを光ケーブルまで加工し性能評価するには 億円単位の費用がかかるとも聞いていた。 


 つまり 川緑が UVカラーインク試作品を評価してもらうためには 石坂主任研究員が 確かに費用や人手や時間をかけてもやる価値があると納得することが必要であった。


 この局面は UVカラーインク評価のGO/NOの決定権を持つ人が 川緑にインク試作品の設計思想を聞いているという状況であった。


 川緑の紹介したUVカラーインク試作品は 森田課長の設計によるものであり、その設計の考え方は以前に彼から聞かされていた。


 川緑は主任研究員に「今回 ご紹介しておりますUVカラーインクは 光ファイバー芯線の光の伝送特性に影響しないように設計しています。 そのために 低粘度タイプで硬化物の弾性率を低く設計しており、また 着色顔料には 粒子径の小さなものを用いています。」と答えた。


 主任研究員は腕を組んでややあごを引き話を聞いていたが 暫くして「青色のUVカラーインクを1リットル、今週の金曜日までに送ってください。」と言った。


 住倉電工社を出た後に 川緑は森田課長が以前に言った言葉を思い出していた。

その言葉は「設計思想が正しければ いつかはいいものが出来るが、それが正しくなければ いつまで経ってもいいものはできない。」 というものであった。


 川緑は 石坂主任研究員がUVカラーインクの設計思想を聞いたのは、恐らく彼もまたそのような考えを持っているからだろうと思った。



   ユーザーの要望  /  超高速硬化性


 2月22日午後1時頃にJR総武線の佐倉駅の改札口で 営業の北野係長と松頭産業社の菊川課長と川緑は合流した。

3人はタクシーに乗り込むと 目的地の電線メーカー大手の藤河電線社へ向かった。


 藤河電線社に着くと 菊川課長が守衛所で記帳している間に 川緑は事業場内を見回した。

事業場内には 送電用の長い銅線を製造しケーブルを作るためか 奥行きの長い工場が立ち並んでおり、正門の近くには木製やプラスチック製の大きな糸巻き状のボビンが数多く並べられていた。


 事前に 藤河電線社の技術課から守衛所に 彼等の来社の連絡があっていたようで、守衛さんは「食堂へ行ってください。 分かりますか。 向こうの建物の2階です。」と言った。


 3人が食堂に上がると 食堂のフロアーの奥のほうから技術課の2人がやってきた。   

彼等の1人が「こんなところですみません。」と言った。


 横長のテーブルが列を作るように配置され 数百席ほどがあると思われる食堂は 天井が高く開放感を感じさせる所であった。                                

菊川課長もそう感じたのか 彼等に「広いところのほうがいいです。」と言った。


 川緑は彼等と名刺交換すると、テーブルに向き合うように座り打ち合わせを始めた。  


 この日の打ち合わせは UVカラーインク試作品の紹介がメインであり 川緑は 試作品の特徴や様々なデータについての説明を行った。 

説明を終えると 川緑は彼等に 今回のUVカラーインク試作品の評価を依頼した。


 報告を聞いた彼等は暫く間をおいて 開発品を評価することに合意を示したが、その言葉には今回のインク試作品を積極的に評価したいという意気込みは感じられなかった。    


 技術課の倉田主任は前の方に身を乗り出して 川緑の目を捉えて「とにかく早く固まるものを、硬化性のよいインクを作ってもらいたい。」と強調した。 


 倉田主任の言葉から 彼等が必要としているUVカラーインクとは 今回紹介した開発品よりも桁違いに早く固まるインクであると分かった。                             


 彼の言葉の背景には 今後のJTT社からの光ファイバーのコストダウン要請があり、光ファイバー事業を成功させるために なんとか光ファイバーの生産性を上げたいという意図が感じられた。


 主任の熱意のある言葉に押された川緑は期待になんとか答えたい気持ちになった。


 帰りの電車の中で 川緑はぼんやりと硬化性が良いということはどういうことか、また硬化するとはどういうことかを考え始めた。


 今回提出したインク試作品の技術報告書に記載された硬化性の項目には インクのゲル分率の測定値が記入されてた。 


 ゲル分率の測定は インク硬化物を有機溶媒で煮沸し未硬化分を除いた硬化物残分の重量を求める方法であり、この方法は 一度に多数の試験サンプルを同時に評価することができる簡便な方法であった。


 一方、ゲル分率のデータは 試験条件によりその値が異なるものでもあった。        

その値は UV光源の種類やインクの塗装厚みや硬化条件や環境条件によって異なり、また有機溶媒の種類や溶出時間等の違いにより異なるものであった。


 技術報告書に記載のインクの粘度や比重や粒度分布等の液特性や、機械的強度や動的粘弾性や 屈折率等の硬化物特性の評価項目は、それぞれの定義が明確であり、その試験方法はJIS工業規格に示されている厳密な評価項目であった。                


 このような評価項目では UVカラーインクに限らず塗料や接着剤等の樹脂材料一般について、評価によって得られる特性値が科学的な本質と結び付いているために、得られる特性値は、普遍的な値として認識されていた。


 ところが硬化性の評価は状況が異なり 得られた結果は普遍的な値として認識されているものではなく対処療法的な評価方法であった。


 樹脂材料の硬化物の硬化の状態を評価する方法は数多くあった。       

例えば 硬化物の硬さや弾性率や伸び率といった機械的強度を評価する方法や、ゲル分率のような化学的な安定性を評価する方法や、屈折率や官能基濃度を光学的に評価する方法等があった。


 しかし そのような評価方法によって得られる数値は ある条件下で硬化させた樹脂材料の硬化状態を一つの側面から見たものであり、その数値が樹脂材料の硬化状態について 普遍的な序列をつけるものとはなり得なかった。


 例えば いくつかの樹脂材料をある条件で硬化させて、それらの硬化状態を硬化物の硬さを評価した結果と ゲル分率で評価した結果とでは、それぞれの評価方法で得られた硬化状態の序列は異なることがしばしばあった。 



 このことは 一般に用いたれている硬化性の評価方法は 樹脂材料の硬化状態を一義的に表現し得るものではないことを示していた。 


 一方で 樹脂材料の硬化の状態が硬化物の機械的強度特性や表面特性や長期信頼性に大きく影響することも事実であった。                                 


 そうであれば 樹脂材料を開発する時に要求される特性を得るには 樹脂材料の硬化の状態を厳密に把握し特性値と関連付ける必要があると予想された。       

また そうしなければ 樹脂材料の設計を誤ってしまうのではないかと川緑は考えた。


 藤河電線社の技術者の言葉「とにかく早く固まるものを、硬化性のよいインクを作ってもらいたい。」に応えるために、川緑は樹脂材料の硬化性をもっと良く理解しなければならないと感じた。

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