第4話 新規テーマ
新規テーマ / 光ファイバー用UVカラーインク
1988年1月5日は この年の仕事始めの日であった。
川緑は職場から2km程離れた所にある会社の社宅から自転車で出勤した。
彼は昨年の4月に結婚して それまでいた会社に隣接する独身寮から社宅へと移っていた。
午前8時50分に川緑が出社し3課の居室の扉を開けると、部屋にいた森田係長が声をかけてきた。
彼は「今年はよろしくお願いしますよ。」と言って 川緑を応接テーブルへと誘導した。
この年から川緑はこれまで担当していた耐熱塗料関連の業務に加えて 新規テーマをサポートすることになっていた。
森田係長は テーブルに付くと 川緑に これから担当してもらう新規塗料について話を始めた。
彼は川緑に担当してもらう新規塗料が光ファイバー用UVカラーインクであることを伝え、その開発の背景について説明を始めた。
この頃 国内の通信事業の大手JTT社は 2015年までに日本中の各家庭にまで光ファイバー網を普及させると言うビジネスプラン FTTH(Fiber To The Home) を公表し、国内で光ファイバーを生産する電線メーカー各社へ光ファイバーの増産を依頼していた。
JTT社から依頼を受けたのは 光ファイバー製造設備を持つ電線メーカーの住倉電工社と古友電工社と藤河電線社の大手3社と他の4社であった。
各社が作る光ファイバーの構造は 光を伝播する石英の芯線とその外側に一次被覆層と二次被覆層と呼ばれる樹脂層があり 更に外側にカラーと呼ばれる着色層からなっていた。
二次被覆層まで施され ボビンと呼ばれる大きな糸巻き形状の冶具に巻き取られた光ファイバーは、 巻き取り装置を用いて別のボビンに巻き移される間に カラーインクを塗装し乾燥された。
カラーインクの塗装は ダイと呼ばれるカップ状の容器の底に小さな穴が開いた塗装装置を用いて行われ、インクを充填したダイを光ファイバーが通過する時に塗装が行われた。
その後 光ファイバーは4本単位や8本単にテープ状に樹脂で束ねられた。
テープ状に加工された光ファイバーは 光ケーブル内のスロットと呼ばれる螺旋状に仕切られたスペースに積層するように装着された。
最後に光ケーブルの防水処理と外装が施されたものが商品となり出荷された。
光ファイバーの構造の話が終わると 森田係長は 光ファイバー用UVカラーインクの開発の意義について話し始めた。
初期の光ファイバーは1mの長さ当たり150円程の価格であったが、JTT社が進めるFTTH計画の実現には大幅なコストダウンが必要であった。
このためJTT社は電線メーカー各社へ光ファイバーの発注数量をアップする一方で 価格を年率10%ダウンするようにと申し入れた。
JTT社の申し出は 電線メーカー各社にとってはとても厳しいものであり、その要求に対応しなければ収益を得られず設備投資額も回収できなくなるという死活問題となった。
電線メーカー各社では 光ファイバーを増産するに当たり 光ファイバーの生産工程の工数分析を行った結果、光ファイバーを増産するのに最もネックとなるのがカラーインクの塗装工程であることを突き止めた。
初期の光ファイバーでは カラーインクには熱硬化型のインクが用いられており、インクの硬化には電気加熱炉が用いられていた。
しかし熱硬化タイプのカラーインクは硬化に時間が掛かるため、カラーリング工程の高速化には限界があった。
そこで 電線メーカー各社は カラーリング工程の高速化のためにUV硬化型カラーインクとUV照射装置を用いた新規カラーリングシステムの導入の検討を始めた。
電線メーカー各社は光ファイバーのカラーリング工程をUV化するために 国内のインクメーカーや塗料メーカーへ高速硬化タイプのUVカラーインクの開発を依頼し、またランプメーカー各社へインクの硬化に適したUV照射装置の開発を依頼した。
森田係長は 「JTT社の話では 光ファイバーネットワークの構築は世の中を変えるものらしいけど、それができるかどうかはUVカラーインクの開発ができるかどうかにかかっているわけよ。」と言った。
彼は続けて「でもね、3課はね 光ファイバー用UVカラーインク開発の着手が競合他社に1年遅れているのよ。 自社にUV硬化型カラーインクの品揃えが無かったからね。」と言った。
電線メーカー各社へのUVカラーインクの売り込み交渉は 当初 3課の森田係長と営業担当の渕上課長と北野係長と商社の松頭産業社のメンバーが行っていた。
関東周辺の電線メーカーへの対応は 北野係長と松頭産業社の菊川課長が受け持ち、関西周辺の電線メーカーへの対応は 渕上課長と松頭産業社の野崎部長と奥田さんが担当していた。
森田係長は彼等と何度も電線メーカー各社を回り、試作したUVカラーインクサンプルの評価を依頼する交渉を行った結果 徐々に電線メーカーの数社からサンプルの依頼が入るようになった。
そして電線メーカー各社の対応には 人手が必要となっていた。
森田係長は「そこで 川緑さんの出番となったわけよ。」と業務のサポート役を川緑に頼んだ。
開発業務のサポート / インクサンプル作製
この日の午後に 3課の実験室で森田係長は 川緑にUVカラーインクのサンプルの作り方について説明を始めた。
最初に森田係長は「川緑君は薬品にかぶれたりする?」と聞いた。
「いや そういう経験はありません。」との答えに係長は「インクの原材料にかぶれ易い体質の人もいてね、そういう人はこの作業はできないんだ。 もし かぶれたら知らせてよね。」と言った。
森田係長は 実験室の棚に種類別に並べてあった化学品類を指し示しながら UVカラーインクの作製に用いる原材料の概略とかぶれ易さを説明した。
UVカラーインクを構成する原材料は 主にベースとなる高分子樹脂や低分子樹脂と 顔料等の着色材料と 光により重合反応を引き起こす光重合開始剤、及び添加剤とから構成されていた。
これらの原材料を用いたUVカラーインクの作製では まず 着色ペーストと呼ばれる顔料を低分子樹脂に分散した仕掛品と、クリヤーベースと呼ばれる光重合開始剤を高分子樹脂と低分子樹脂の混合品に溶解した仕掛品が作られた。
着色ペーストは サンドミルと呼ばれる分散機を用いて作製された。
サンドミルは 冷却装置の付いた容器と ディスク状の回転翼と 回転翼を回すモーターとシャフトからなり、容器には ガラス等でできたメディアという小さな粒子が充填されていた。
この容器に 顔料と低分子樹脂を混合したものを投入し ディスク状の回転翼を回すことにより、メディア同士が衝突し その間に挟まれた顔料の粒子が細かく潰される仕組みであった。
クリヤーベースは 加温装置のついたステンレス容器に高分子樹脂と低分子樹脂を所定の量だけ量り取り、これを攪拌機を用いてかき混ぜながら 所定の量の光重合開始剤や添加剤を投入し、攪拌、溶解、ろ過して作られた。
係長は 分散機や攪拌機の取り扱い方を説明しながら「これらを動かすときは 巻き込まれないか安全確認するんだよ! 大怪我するからね!」と言った。
午後3時の休憩時間の後に 森田係長は UVカラーインクのサンプル依頼を受けたときの 対応の手順について説明を行った。
電線メーカーからインクサンプルの依頼を受け場合 まず 3課で共用のサンプル管理台帳に依頼先と依頼サンプルの色と数量と納期と依頼元の希望等が記入された。
サンプル作製は まず依頼の数量に応じたインクの配合表の作成からはじまった。
インクの配合表は 依頼の数量よりも多目の量を作る配合量で作成された。
これはサンプル提出量に加えて保管用の控えサンプル分とサンプル作製時の目欠と呼ばれるロス分を考慮した数量であった。
次に 配合表を基にして インクの配合が行われた。
インクの作製量の適した容器を用意し これに仕掛品の着色ペーストとクリヤーベースの所定の量を秤取り、攪拌機を用いてインクが混合攪拌された。
次に 配合されたインクの品質検査が行われた。
配合されたインクは その少量がサンプリングされ インクの性能規格に取り決められた項目について それぞれ検査が行われた。
最後に インクの缶詰が行われた。
検査済みのインクは 精密ろ過機を用いてろ過され 所定の量をポリ容器に秤取り缶詰された。
ポリ容器には内容物と取り扱い注意事項を表示したラベルを貼って電線メーカー各社へ送付された。
森田係長はUVカラーインクの取り扱い方やサンプル対応の説明を終えると「後は君に任せるからね 判らないことがあったらいつでも聞いてね。」と言った。
川緑はUV硬化タイプのカラーインクを取り扱うのは初めてであった。
彼は このインクが一体どういうものかを感じ取るために全色のインクを作ってみることにした。
彼は また インクを構成する全ての原材料について その分子構造や特性値や取り扱い注意事項をノートに書き出して それらの素性を理解しようとした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます