第2話 工場勤務
異動のお知らせ / 塗料の改良と量産
1985年2月6日は 川緑が東京工場に勤めてから2年近くが経っていた。
この日の午後に 川緑は技術棟の実験室で電子天秤を用いて塗料を量り採っていた。
そこへ工業用塗料技術部の山西部長がやってきた。
部長は50歳代後半で ふっくらした体型、広い額、眼鏡をかけて 温厚そうな表情をしており、やさしい口調で「川緑君、ちょっといいかな。」と言った。
「すみません。今 手が離せないのですが。」と答えると 部長は「異動のことで話があるのだが、時間はかからないよ。」と言った。
塗料の入った容器を実験台の上に置き、部長の方へ近づくと 部長は「来月末に あなたは 神奈川の工業用塗料研究部3課へ移り、そこで新しい塗料の開発を担当することになるでしょう。 君の仕事が本部に認められたようだね。」と言った。
何と答えてよいか分らずにいる緑川に 部長は「この異動に関して 何か不服はないですね。」と念を押すように聞いた。
「はい、ありません。」と答えた川緑に 部長は「このことは、まだ、誰にも言わないでもらいたい。」と言った。
山西部長が実験室を出て行った後に 川緑は妙な脱力感を感じていた。
ここでの仕事は残業も多く 2課のメンバーが「3K職場」というような部署であったが、ここには お世話になった人達がいて、その人たちのお蔭で川緑はやってこれたので、何か言いようのない困惑感を感じていた。
山西部長が言った「君の仕事が認められた」とは 川緑が設計した艶ありのガラス塗料が化粧板メーカーに採用されて 東京工場の経営に貢献したことを示していた。
化粧板メーカーでは 艶ありガラス塗料を用いた新商品の開発が行われ、新設中の上野駅構内の内壁や地下街の外壁への採用が決まり、東京工場では改良塗料を受注し量産が行われていた。
川緑が行ったガラス塗料の艶の改良は次のような内容であった。
従来のガラス塗料は塗装面の艶と塗料のポットライフがバーターの関係にあった。
塗装面が艶消しになるのは 塗料中に含まれる粒子のサイズの影響であり、粒子を細かく分散すると艶は出るがポットライフが短くなった。
塗料中に含まれる粒子には 着色顔料と硬化剤と硬化助剤の3つがあった。
川緑は 塗料の艶と塗料のポットライフとの関係を掴むために それぞれの粒子を個別に分散したペーストを作製し、それらを用いて作製したガラス塗料の艶とポットライフの評価を行った。
次に彼は作製した分散ペーストのそれぞれを フィルターを用いてろ過を行い、その後 ろ液中のそれぞれの成分の定量分析を行った。
ろ液中の成分の定量分析は 工場の試験分析課に依頼して行った。
彼は これらの実験と分析の結果から ガラス塗料のポットライフを短くする成分を見つけ出した。
その成分の添加量と分散条件を規定することにより実用的なポットライフを持ち、かつ塗膜に光沢のあるガラス塗料を得た。
川緑のガラス塗料の改良と商品化の背景には 東京工場の腕のよい職人達が関わっていた。
仕事の仲間 / 東京工場の職人達
川緑には 彼に仕事を教えてくれた3名の職人達がいた。
1人は 製造技術課の吉田係長であった。
彼は50歳代後半、中背細身の体型、面長で温和な表情をしており、仕事の関係者等からは 分散の名人と呼ばれ、特に大型の3本ロールの操作では彼の右に出るものは居なかった。
3本ロールはスチール製のロールを3本隣接して配置された装置であり、それぞれのロールが異なる速度で回転し その速度の差が ずりのシェアをつくり、この力とロール間のギャップ幅の調整により分散を行う機械であった。
それぞれのロールは その温度を均一に保つために、内部には 冷却水が 流されていた。
川緑は吉田係長の指導を受けて ロール分散機を用いたガラス塗料の分散試験を行っていた。
吉田係長は 緑川をつれて工場に入ると、ロール分散機を動かしながら 操作のポイントや注意事項を教えた。
吉田係長は 分散ペーストをロールにかけると、すぐに装置の左右にあるハンドルに手を掛けた。
このハンドルは ロールとロールとのギャップを調整するものであり、この操作こそが 顔料等の分散状態の良し悪しを決定した。
彼は回転するロール表面にある分散ペーストの状態を確認しながら ハンドルを操作し、徐々に ロール間のギャップを狭めていき所定の粒度まで分散操作を行った。
吉田係長は 分散作業時に左右のハンドルの締め具合が僅かに異なると、締め方が強い方のロールの一部分により大きな摩擦熱が発生し、この熱により 僅かにロールが膨張することと、そうなると分散を制御できなくなることを教えてくれた。
係長は「私は この機械の操作が好きなんです。この機械を使っていいものができると嬉しいのです。」と言った。
1人は 製造技術課の宮本さんであった。
彼は40歳くらい、やや小柄で細身の体型、控えめな感じの人だが、彼のスプレー塗装技術は会社で一番の腕と聞いていた。
彼を知る人の話では、彼は指定された塗装膜厚に対して 1μm以内の誤差で塗装できる腕を持っているとのことだった。
スプレーガンは 塗料を入れるための数百ccの容器と圧縮空気により塗料を霧化するする機構が備わったガンであり、エア圧と吐出量を調整するつまみが付いていた。
宮本さんは 粘性特性や塗布後の濡れ性や乾燥性等の特性が異なるいろいろな塗料を、それぞれのスプレー特性を見極めて狙い通りの厚みに塗装できる技術を持っていた。
川緑は宮本さんの指導を受けて スプレーガンを用いたガラス塗料の塗装試験を行っていた。
宮本さんは塗装膜の発色性や耐久性等の評価には 指定された膜厚を均一に塗装した塗装膜の作製が必要であると教えた。
宮本さんはスプレーガンの流量やエア圧を調整しながらガラス塗料をスプレーし、川緑に「こうすると霧化した塗料が逃げるのが分るでしょう」とか「塗装面の乾き方を良く見なさい。」と言って、スプレー作業に必要なポイントと塗装面の良し悪しの見分け方を指導した。
1人は 製造課の木村さんであった。
彼は40歳代中頃、やや小柄で細身の体型、面長の顔に黒縁の眼鏡を掛けていた。
彼は塗料の製造設備の取り扱いに精通おり、製造コストを抑えて短納期で製品を作ることが出来た。
特に ガラス塗料のように少量多品種の製造が求められる色物塗料の製造では、彼の技術が製造コストを押さえて製品の利益率の向上に貢献していた。
今回のガラス塗料の改良品は 現行のガラス塗料に加えて製造されることになり、更に それぞれの色数を加えると製造課の作業量の増加は著しくなった。
木村さんの塗料の製造作業は タクトタイムを抑えるために 作業の手順を組み替え、ものづくりにマイナスとなる作業時間を少なくする工夫をしていた。
また 彼は タクトタイムを抑えるために 設備や容器の洗浄やろ過フィルターの交換のタイミングにも知恵を絞っていた。
川緑にガラス塗料の製造の相談を受けた木村さんは「川緑さんが設計した塗料は 俺がつくってやるよ。」と言った。
川緑は 彼等 腕のよい職人達が教えてくれたことを振り返りながら、東京工場が彼等の技術によって支えられてきたと感じていた。
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