第1話 入社

   塗料メーカーに入社 / 新人研修


 1982年4月1日午前10時に 大阪にある東西ペイント株式会社の5階の会議室で 社長は新入社員等を前に祝辞を述べ始めた。

彼は祝辞の中で「今日、この席に皆さんが集うのも これは何かのご縁です。これから皆さんと共に、会社をよりよいものにしていきましょう。」と言った。


 新入社員の一人 川緑 清(かわみどり きよし)は総合塗料メーカーの東西ペイント社に技術職として入社した。  

 身長170cm 体重60kg 24歳の川緑は熊本県の出身であり、熊本市内の高校を卒業し東京の私立大学の理工学部化学課を卒業していた。

川緑は話し上手で社交的というタイプではなかったが 性格は温厚で素直であった。

      

 東西ペイント社は大手の総合塗料メーカーであり、本社を大阪市に構え、研究所は神奈川県にあり、4都県に4つの製造工場を有していた。

会社の組織形態は事業部制をとっており、自動車塗料本部を筆頭とする5つの塗料本部で構成されていた。 


 この年の本社採用の大卒の社員は14名であり技術職はその内の9名であった。技術職の新入社員等は兵庫県にある会社の独身寮に入居し、そこを拠点に1週間の大阪本社教育が行われ、その後の3週間の兵庫県にある工場での製造体験実習が行われた。


 同年5月に 新入社員等は神奈川県平塚市にある事業所に移動し、事業場に隣接する独身寮に入居した。

平塚事業場には 研究本部と各事業部の研究部があり、また製造工場があった。


 新入社員等は 事業場の人事課預かりとなり、この年の上期と下期のそれぞれに事業場内のいくつかの部署に配置され実習教育を受けることになった。


 実習教育は それぞれの部署の教育担当者の指導の下に行われた。      実習生等は 実習期間中に担当テーマを割り当てられ、前期末と後期末に 新人研修発表会の場で 各人の成果を報告することが義務付けられていた。


 実習生等が担当テーマの設定や発表用の資料の良し悪しは 教育実習担当者の手腕によるところが大きく、実習生らの中には 彼らの担当者について いい人に当たったと喜ぶものや 外れたとがっかりするものがいた。


 前期末と下期末に行われる新人研修発表会には 各塗料本部の関係者が出席しており、彼等の中には これまでこの会社を支えてきた優れた技術者や次年度の正式配属のための人選にかかわる関係者も参加しており、実習生にとっては とても緊張する発表会の場となっていた。


 新人研修が終わると 後日 人事担当者から実習生一人ひとりに配属先が告げられ、平塚事業場に残るものと 他県の工場に配置されるものとに分かれた。

  

  工場に配属  /  建材用塗料を担当


 1983年3月22日午前8時30分頃に川緑は 東京都大田区にある東京工場に入り、受付で記帳すると 配属先の工業用塗料技術部2課を訪ねた。                                      


 2課は 3階建ての技術棟の1階にあった。

川緑は2課の居室の扉を開けて「おはようございます。こちらに配属になりました川緑清です。」と言うと、屋の奥の方から やや小柄で中肉の眼鏡をかけた40歳代の男が笑顔で近づいてきた。

「やあ、来たね。」と笑顔で声をかけたのは 2課の下山課長であった。

下山課長は彼に居室にいた2課のメンバーを紹介し、入り口近くにあった机を彼にあてがうと、2課の作業場所を案内した。


 2課の作業場所は 居室と居室に隣接した実験室があり、実験室にはスプレー塗装ブース室と幾つかの乾燥炉が配置された部屋と担当者毎に割り当てられた実験台が配置された部屋があった。


 下山課長は 2課の作業場所を案内しながら 2課で担当している業務について説明を行った。

2課は楽器等の木工用塗料や化粧板等の建材用塗料の設計、販売を行っており、川緑はトンネル内壁の化粧板に用いられる建材用の現行の耐熱塗料(ガラス塗料)を担当することになった。 


 川緑の具体的な担当業務については 2課の村上係長から説明が行われた。

30歳代後半、中肉中背の村上係長は 川緑が担当する業務とガラス塗料について、ゆっくりとした口調で 時々間合いを取りながら説明を行った。 


 彼の説明によると、川緑に任される業務は 関東圏内の現行の建材メーカー向けのガラス塗料の製造販売と新規ユーザーの開拓であった。

ガラス塗料は水ガラスと呼ばれる無機系の樹脂に着色顔料や硬化剤等を配合した水性塗料であった。

ガラス塗料は7色の原色を混ぜ合わせることにより色々な色を出すことが出来た。

ガラス塗料はスレート板等の建材にスプレー塗装し、300度の高温で焼成し固める塗料であった。                             ガラス塗料は1kg当たり500円の価格で販売しており、他の工業用塗料に比較すると高価な塗料であった。


 村上係長の話が終わると、暫くして川緑は「技術の仕事で大事なことはなんですか?」と聞いてみた。

村上係長は 少し考えて「そうだねー、色々あるけど 設計連絡票を書くことかな。」と言った。


 係長の説明では、塗料の製造販売は 設計連絡票と呼ばれる書式で運用管理されており、それは技術課で作成し、関係部署に配布され、それを基に生産管理課や製造課や品質管理課や営業部が動いて商品の製造や販売活動が営まれるとのことであった。


 村上係長は「話は変わるけど、この塗料にはユーザーからの品質改良依頼があってね、まだ対応できていないんだ。きよちゃん、よろしく頼むよ。」と言った。


 彼の話では、1年ほど前から茨城県にある化粧板メーカーより要望があり水ガラス塗料を塗装した化粧板の表面を艶ありにしてもらいたいとのことであった。


 現行の水ガラス塗料は 主にトンネルの内壁に用いられる化粧板用に用いられており、車のヘッドライトの反射を防止するために化粧板の表面は艶なしとなるように設計されていた。

化粧板メーカーでは 新規に地下街外壁用の化粧板の商品化を計画しており、そのためには化粧板に高級感を出すために艶ありの仕上がりが必要とのことであった。


 これまで2課では ガラス塗料の塗装面の艶出しのための検討を行っていたが、ユーザーのニーズにこたえられる塗料は出来ていなかった。

ガラス塗料の塗装面に艶がないのは、塗料中に含まれる粒子が塗装面に凸凹をつくり、表面に当たる光を散乱するからであった。


 そこで 表面の艶出しのために塗料中に含まれる粒子を細かく分散する検討が行われたが、そうすると表面に艶がでる一方、塗料の使用可能な時間(ポットライフ)が短くなり実用性がなくなるとのことであった。


 村上係長から仕事の説明を受けた後、川緑は実験室へ行くと、ノートに書き留めていた手順に従い水ガラス塗料を作製し、スレート板にスプレー塗装し、加熱炉で焼上げる一連の操作を繰り返し行った。

彼は、この操作を繰り返すことにより 担当する塗料がいったいどういうものかを感じ取ろうとした。

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