第38話 最後の所感

   接着仕様の最適化 / 研究のまとめ


 2014年4月4日(金)午後4時頃に 川緑は 熊本事業場のインクジェット事業部のインクチームの実験室で パソコンの前に座り UV接着技術開発のまとめの作業を行っていた。    


 熊本事業場は 昨年の構造改革での人の異動により 社員数が半減しており 多くの社員は 他の事業体に異動したり 派遣業務の対応で事業場を離れていた。


 川緑は インクジェット事業部のインクチームに所属して インクジェットに用いられるインクや洗浄液の評価を行いながら ODD事業部案件のUV接着技術開発を兼務していた。


 この日に彼は UV接着技術開発のまとめの作業の中で 光学部品の接着仕様に関する特許明細書を書いていた。


 彼は 開発したUV硬化型接着剤の接着仕様を最適化するシステムを用いて 必要なデータを取得した接着剤について 光学部品の接着後の位置ズレを最小化する接着形状を求めていた。


 彼は 彼のUV硬化型樹脂の硬化の理論に 硬化への時間の影響と 硬化状態と機械的強度の関係を加えて 接着仕様を求めるシステムを開発しており これを使って 光学部品を接着する際の接着形状を計算していた。

 

 彼は UV硬化型接着剤の組成や硬化性や特性や塗布形状の情報と 光学部品の寸法 形状 重量の情報と UV露光条件等の情報をシステムに入力し それぞれの条件の組み合わせについて 接着剤の位置固定性を算出していた。


 シミュレーションにより最適化された光学部品の接着形状は 現行の光ピックアップに採用されているそれとは異なるものであった。



 4月7日(月)午前10時に 川緑は 技術部の会議室で 事業場の知財担当の谷本主任と特許出願の打ち合わせを始めた。


 川緑は「光ピックアップの品質改善を目的とした 光学部品の接着仕様の特許を出願したいと思います。」と言って 明細書を作成に必要な図面と請求項を書いた資料を示した。


 谷本主任は 暫くそれらの資料を見ていたが 川緑の方へ目をやると「この接着仕様は 自社の光ディスクドライブに採用されるのですか?」と聞いた。


 川緑は「いいえ 採用の予定はありませんが 将来の光学デバイスの製造には有効なものになると思います。」と言った。


 谷本主任は「そうですか。 実は事業部の方針で 今期は経費削減のために 製品に採用される技術に関する特許しか出願できないんです。」と言った。



   技術者の経験を伝えよう / 最後の所感


 2016年5月26日(木)の技術部の昼会は 川緑の当番であった。


 昼会は 技術のメンバーが一人ずつ持ち回りで担当し 100名程の技術のメンバーの前に立ち 社訓の斉唱をリードし その後に近況等について思うところを述べるのが慣習となっていた。


 川緑は 今年8月に定年退職日を迎えるので この日が最後の昼会当番となっていた。


 川緑は この日の昼会で 以前に勤めていた東西ペイント社での仕事の経験を基にした話を行い 退職日の挨拶で 九杉社に勤めて以降の仕事の経験を基にした話をしようと考えていた。


 午後1時になると 川緑は 技術棟居室の窓側へ出 技術棟のメンバーを前にして「昼会を始めます。」と言って 社訓を読んだ。 


 読み終わると「どうぞ お楽にしてください。」と言って所感を話し始めた。


 「今回と 私の退職日の2回の昼会のお時間を頂きまして 私の経験してきたことについてお話をします。何か皆様のご参考になることがあればと思います。少し話の時間が長くなりますので お仕事でお時間の都合あのある方は 遠慮なく退室してください。」と前置きをして本題に入った。


 「私は 大学卒業後に東西ペイント社という塗料メーカーに入社しました。 私は工業用塗料の開発を担当し 主に 耐熱塗料と紫外線硬化型樹脂の開発を行いました。」


 「耐熱塗料の開発では 人工衛星ラアンテナ用の白色塗料の開発と量産を行い 紫外線硬化型樹脂の開発では 光ファイバー用のUVカラーインクの開発と量産化を行いました。今回 光ファイバー用UVカラーインクの開発の件について 少し詳しくお話します。」



 「1980年代に JTT社は 光通信回線のネットワークを用いた通信事業に着手しました。 1988年頃に JTT社は 2015年までに 国内の各家庭に光ファイバー通院網を張り巡らせるというビジネスプラン FTTH(ファイバー・トウ・ザ・ホーム)計画を発表しました。」


 「JTT社は FTTH計画を実現するために 電線メーカー各社へ光ファイバーの増産とコスト削減を依頼しました。 依頼を受けた電線メーカー各社は 光ファイバー生産ラインの生産性向上のための取り組みを行いました。」 


 「光ファイバーの構造は 光を伝播する石英の芯線と その外側に一次被覆層と二次被覆層と呼ばれる樹脂層があり 更に 外側にカラーと呼ばれる着色層からなっていました。 着色された光ファイバーは、4本単位や8本単に、テープ状に樹脂で束ねられました。 テープ化された光ファイバーは、光ケーブル内のスロットと呼ばれる螺旋状の溝の形状に仕切られたスペースに、積層するように装着されました。」


 「光ファイバーの生産性向上の取り組みで 最もネックとなったのが カラーインクの塗装工程でした。 

インクの塗装は ダイと呼ばれるカップ状塗装冶具を用いて行われていました。 インクの塗装工程は 二次被覆層された光ファイバーが ダイを通過する時に ダイに充填されたカラーインクが塗装され 直後に 乾燥され 巻き取られるものでした。」


 「初期の光ファイバーは カラーインクに 熱硬化型のインクが用いられていましたが 熱硬化に時間が掛かるため カラーリング工程の高速化には限界がありました。 そこで 電線メーカー各社は カラーリング工程の高速化のために UV硬化型カラーインクとUV照射装置を用いた新しいカラーリングシステムの導入検討を始めました。」

 

 「電線メーカー各社は カラーリング工程のUV化のために 国内のインクメーカーや塗料メーカー各社に 光ファイバー用のUVカラーインクの開発を依頼しました。 依頼を受けて インクメーカーや塗料メーカーの十数社が光ファイバー用のUVカラーインクの開発競争に参戦しました。」


 「東西ペイント社も 1年程遅れてVカラーインクの開発を始めましたが 開発体制は 担当係長と私の2名でした。 一方 競合他社は UVカラーインクの開発に数十名の技術者が携わっていました。」


 「電線メーカーで行うUVカラーインクの評価は 大変費用がかかるものでした。 光ファイバー単芯を用いたUVカラーインクの評価は 光ファイバーをkm単位の長さで作製し これをボビンと呼ばれる大きな糸巻きに巻き取り いろいろな環境下で光通信試験を行うもので、この評価に数千万円の試験費用がかかるものでした。」


 「また 光ケーブルの評価は 4芯や8芯のテープ形状に加工された光ファイバーを光ケーブル内に配置したものについて いろいろな環境下で光通信試験を行うもので 億円単位の試験費用がかかるものでした。」


 「電線メーカーでの光ファーバー用UVカラーインクの評価は 多くの人手と費用がかかるものであり インクサンプルの評価を依頼しても おいそれとは評価をしてもらえないものでした。 電線メーカー各社の技術担当者が UVカラーインクサンプルを評価するには 彼等がUVカラーインクに求める機能を満足すると納得できる設計思想と実験データが必要でした。」


 「光ファイバー用UVカラーインクに求められる機能には 光ファイバーの生産性向上のための高速硬化性や 光ファイバーを通る光の伝送特性を低下させない物性や 光ファイバー敷設の際の結線作業のための剥離性や それらの特性の長期信頼性が求められていました。」



 「私達は このような光ファイバーに求められる機能を満足するUVカラーインクを開発するために 競合他社に無い新しい技術基盤を構築する方針を立てて インクの硬化性を厳密に評価する基礎研究を始めました。」


 「UVカラーインクの開発を始めて1年後には 開発競争に残っていたメーカーは 5社くらいになっていました。 電線メーカー各社は 残ったメーカーに 更に高速硬化タイプのVカラーインクの開発を依頼しました。」


 「私は 依頼に答えるために UVカラーインクの硬化性の研究を深めました。 私は UVカラーインクの硬化性に関わる要因について調べ それらの要因とインクの硬化状態とを関係付ける理論を考えました。」


 「その頃に 仕事関連の商社の課長さんから私に UV照射装置を開発中のケイトウ電機社との共同研究の提案がありました。 共同研究は UVランプとUVカラーインクの組み合わせの最適化を図るもので 双方の技術の相乗効果により 電線メーカー各社のニーズに答えようと言うものでした。」


 「私は 彼の企画に賛同し これまでの研究を基に UVカラーインクの硬化に適したUVランプの発光スペクトルを求める研究を始めました。」 


 「共同研究の成果は 優れたUVカラーインクとUVランプの開発に繋がり 両社の新製品は 光ファイバー用UVカラーコートの市場で トップシェアを獲得しました。」



 「この時の光ファイバー用UVカラーインクとUVランプの開発の経験から 私の考える 商品開発に必要な2つの要件についてお話しします。」


 「商品開発に必要な要件の1つ目は 明確な設計思想を立てることです。」


 「明確な設計思想とは 開発品に要求される機能について 優先順位をつけてまとめた開発のレシピであり 思想を具体的な開発に落とし込む時に 開発の方向を示唆するものです。」


 「設計思想が 正しければ その中に 開発に必要な要素があり その要素を追求することによって ユーザーのニーズに答える商品に辿り着けるはずです。 逆に 設計思想が間違っていれば 商品はユーザーのニーズとは異なったものになるでしょう。」


 「また 設計思想を明確に説明することは 開発品を評価するユーザーも その思想が開発品に反映されているかどうかを確認し 採用の合否の判定に結びつけることに繋がります。」



 「商品開発に必要な要件の2つ目は 設計思想を開発に落とし込むときに その方向が正しいのか また 元々の設計思想が正しいのかを検証するツールや理論を構築することです。」


 「商品開発を行うときに 開発品の評価結果が 自社とユーザーとで異なるのは良くあることです。 

そのような時に 技術者は 開発の方向が見えなくなり 絨毯爆撃的に試行錯誤の実験を繰り返す状況に陥り 開発が進まないまま 消耗していくことになります。」


 「この様な局面では 開発の方向が正しいのかどうか また 元々の設計思想が正しいのかどうかを検証するツールや理論が必要となります。」


 「『ツール』とは 注目する実験系に作用するエネルギーに注目し エネルギーの流れを掴み 解析するためのモデル実験や その実験系に作用するエネルギーを数値計算するソフトのことです。」


 「UVカラーインクの開発では 光のエネルギーを捕捉するツールの開発を行い カラーLBP定着機の開発では 熱エネルギーや表面エネルギーを捕捉するツールの開発を行い 光ピックアップ用接着剤の開発では 力学的エネルギーを捕捉するツールの開発を行うことによって 商品開発の方向性付けを行ってきました。」


 「『理論』とは 開発品の機能とその機能に影響する様々な要因を関連付けることができる普遍的なものであり 開発品が 本来有する機能を説明できるものです。」


 「商品開発では 設計思想を立てて 開発を進めるうちに 壁に突き当たるのは 良くあることです。そうなると 開発の方向付に迷ったり 元の設計思想に疑念を持つようになります。 そのような場合に 商品開発と並行して『理論』の構築を行うことで 開発の方向性を見出すことが出来 また 元の設計思想が正しいものかどうかを判断できるようになります。」



 「私の商品開発の例では いろいろな商品に用いられる樹脂材料の硬化の状態が 商品の性能に大きく影響すると考えて 『硬化の理論』を構築してきました。」


 「『硬化の理論』 を追及していくと 樹脂材料の本来持つ強靭さと柔軟性や それが実際使用される環境において どの程度 変化するものかを知ることができます。 また 『硬化の理論』は 光ファイバー用UVカラーインクの設計の時の共同研究の事例の様に 異業種との技術交流の橋渡し役となり 両社の技術レベルの向上と商品レベルの向上を可能にします。」


 「今回 私の経験から 商品開発に必要な2つの要件について、お話しました。 今後の皆様のお仕事に、何かご参考になることがあれば幸いです。」


 川緑は 一礼すると 最後の昼会当番を終えた。

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