第36話 UV接着技術開発

   片持ち梁接着試験 / 硬化状態と機械的強度

    

 2010年5月20日(木)午後4時に 厚生棟の食堂で 要素技術開発センターの技術者総員約150名が集まり センターの企画担当者から 新規事業創出の取り組みについての話があった。


 「弾出しWG」と名付けられた取り組みは 技術者の中からランダムに選ばれた6名が1つのチームを作り 合計25のチームのそれぞれが 7月末までに 新規テーマを提案するというものであった。


 新規テーマの内容や作り方は それぞれのチームにまる投げされており チームの1人が まとめ役となり 取り組み方針を決めて 毎週1回の会合を行うことが求められた。



 「弾出しWG」の取り組みの背景には グループ会社の組織変更と構造改革がもたらした SSN社の事業計画への影響があった。


 以前の杉下電気のグループ会社は それぞれにいろいろな事業領域を持っており グループ内の会社同士が同じパイを狙い競合するので 無駄な投資と技術の分散につながると言われていた。


 そこにメスを入れた構造改革は 会社経営のベクトル合わせと投資の集中を目的としたものであったが それぞれの会社の事業領域を限定させてしまい 販売計画額を大幅に減少させていた。


 「弾出しWG」の取り組みは 販売計画の上積みを狙ったものであったが 寄せ集めのメンバーによる付け焼刃感が否めず 新規事業創出の確度は低いものと思われた。



 5月21日(金)午後4時頃に 川緑は UV接着技術開発の取り組みの中で UV硬化型接着剤の硬化状態と機械的強度との関係を求める実験を始めた。


 それは「片持ち梁接着試験」と名づけた実験であり 小さなアルミ製角柱を使って その一端をUV硬化型接着剤を用いて 固定端に水平に接着した時に アルミ製角柱の自重により生じるたわみから 接着剤の弾性率を求める実験であった。


 「片持ち梁接着試験」は 次のような手順により行った。


 まず 2×4×20mmサイズのアルミ製角柱を2つ用意し それぞれの4×20mmの面を水平に保ち それぞれの2×4mmの面を 所定の間隔で 平行で対向するように配置した。


 一方のアルミ製角柱を台座に固定し 対向するアルミ製角柱の遠いほうの端を XYZΘステージ上に固定したエアチャックに挟持した。      


 次に オートコリメーターを用い エアチャックで固定したアルミ製角柱の4×20mmの面が厳密に水平になるように調整した。 


 オートコリメーターは LD光を照射し 反射光を受光することにより 照射面の角度を測定する装置であり 秒単位の精度で角度を測定できる装置であった。


 実験では アルミ角柱上に乗せた2×2mmサイズのミラー板に オートコリメーターを用いてLD光を照射し 反射光をモニターしながら XYZΘステージを操作し アルミ角柱を水平に合わせた。


 次に ディスペンサーを用いてUV硬化型接着剤を アルミ製角柱の対向する面と面の間に塗布し 一定の時間放置し その後 スポット照射タイプのUV照射機を用いて 所定の時間だけ接着剤をUV露光し 所定の時間経過後に エアチャックを開放した。


 エアチャック解放すると 片持ち梁状態のアルミ製角柱はたわみを生じ オートコリメーターに表示される角度は 徐々に変化し あるところで静止した。


 このような「片持ち梁接着試験」により得られた たわみの角度とアルミ角柱の寸法と重量と 接着剤の塗布形状から 接着剤の弾性率を算出した。



 川緑は  「片持ち梁接着試験」方法を用いて BD光ピックアップに用いられる全てのUV硬化型接着剤について 接着剤のUV露光条件と弾性率との関係を求めていった。


 実験により得られたUV硬化型接着剤の弾性率は 観測値であり その値は 接着剤内部の微小な部分のそれぞれの弾性率の平均値を示していた。


 川緑の進めるUV接着技術開発に必要なのは 接着剤の弾性率の平均値ではなく 接着剤を構成する全ての体積素片の弾性率であった。


 川緑は 以前に EIX社のナノインデンテーション装置を用いて 内部の微小なエリアの弾性率を求めたUV硬化型接着剤について  「片持ち梁接着試験」を行い 得られた弾性率の値を解析した。


 そのUV硬化型接着剤は その内部の硬化度と弾性率との相関関係を求めており 接着剤を構成する全ての体積素片の硬化度を計算によって求めれば その計算結果から それぞれの体積素片の弾性率も求めることができるはずであった。


 そこで川緑は  その接着剤について 「片持ち梁接着試験」条件を基に 接着剤を構成する体積素片の硬化度を計算により求め それぞれの弾性率に換算して 得られた弾性率の平均値を求めた。


 計算により求めた接着剤の弾性率の平均値は 「片持ち梁接着試験」で求めた弾性率の実測値と良く一致した。



 川緑は 解析結果を見ながら 懸案のUV接着技術開発は可能であり BD光ピックアップを構成する光学部品の接着仕様は 数値計算により求められると確信した。 


 彼は また UV接着技術の開発は BD光ピックアップの設計を最適化して品質を改善するだけでなく 今後の光学デバイス開発に役に立つと思った。


 しかし接着仕様を数値計算によって求めるシステムの開発には 最新のナノインデンテーション装置や最新のFT-IR装置やその他の研究設備投資が必要であった。



   時間の影響 / KWW関数


 10月23日(土)の日経新聞の朝刊の一面に 杉下電気社の組織再編に関する記事が載せられており 杉下電気社と関連会社を 再編集約して 全体を9の事業体に縮小するとの記述があった。


 新聞の記事を見た川緑は 今年になって ODD事業部と群馬県にある杉下電気社の関連会社との交流が行われていたことについて 背景に今回の組織再編があったことが分った。


 また 川緑は 懸案のUV接着技術開発のテーマ推進に必要な研究設備の購入がペンディング状態になっている理由も分った。



 10月25日(月)午前10時頃に 川緑は UV硬化型接着剤の硬化への時間の影響を調べ始めた。


 BD光ピックアップの製造工程では それぞれの光学部品は それぞれの接着仕様に従って UV硬化型樹脂を塗布し UV露光を行い 所定の位置に固定されていた。


 接着仕様を規定した仕様書には UV露光条件の記載があり その中にUV露光後の保持時間が決められており 保持時間は UV硬化型樹脂が固まるのに必要な時間を 従来の経験値を基に設定されていた。


 BD光ピックアップの製造工程は UV硬化型接着剤を用いて多くの部品を固定する工程が多くあり それぞれの工程にUV露光後の保持時間が設定されているので それらの合計時間は 生産性に大きく影響していた。


 保持時間の短縮は BD光ピックアップの生産性を向上させ コストダウンに貢献するものであったが 一度設定された保持時間を短縮する作業は 簡単なものではなかった。


 保持時間を短縮するには BD光ピックアップに用いられる接着剤のそれぞれについて 保持時間を短縮したサンプルを作製し 完成品の動作試験と信頼性試験を行い 良品歩留まりの変化を求めて 短縮可能な時間範囲を決める作業が必要であった。


 しかし その作業は 膨大な時間と費用がかかるものであり 現実的なものではなかった。


 そこで ODD事業部は 要素技術開発センターへ UV硬化型接着剤のUV露光後の保持時間の短縮検討を依頼していた。

 


 依頼を受けた川緑は「片持ち梁接着試験」方法を用いて BD光ピックアップに用いられているUV硬化型接着剤について それぞれのUV露光後に保持しなければならない時間を求めることにした。


 川緑は それぞれのUV硬化型接着剤について その接着仕様に合わせて「片持ち梁接着試験」を行い UV露光後の経過時間と接着剤の弾性率とを求めた。


 川緑は それぞれのUV硬化型接着剤について「片持ち梁接着試験」の結果を UV露光後の経過時間を横軸に取り 弾性率変化を縦軸にとったグラフにまとめた。


 得られたグラフの形状は 接着剤によって異なるものであり いずれも 経過時間とともに 弾性率が増加していき その値は ある時間経つと一定の値に近づく挙動を示した。


 「片持ち梁接着試験」 で得られたUV露光後の経過時間と接着剤の弾性率との関係は それぞれの部品のUV接着工程について UV露光後に その部品を保持すべき時間を決定するものであった。


 試験で得られた結果は それぞれの接着剤の接着仕様を最適化するものではなかったが 事業部の依頼には答えるものであった。



 10月27日(水)午前11時頃に 川緑は ODD事業部から依頼を受けていた UV硬化型接着剤のUV露光後の保持時間の短縮検討結果を 報告書にまとめていた。


  「片持ち梁接着試験」の結果をまとめたグラフを見ていた川緑は それぞれのUV接着剤のUV露光後の経過時間に対する弾性率の変化を表す形状には 何かその状態変化を表現する数式があるのではないかと思った。


 きっと 過去に 樹脂材料を扱う技術者が 樹脂材料を用いた製品の生産性を改善することを目的に 何らかの研究を行っているはずだと考えた。


 そう考えた川緑は 樹脂材料の状態変化と時間との関係を表す式を記述した文献の調査を始めた。

 


 11月1日(月)午前11時頃に 川緑は 調査を行った文献の中に 熱可塑性樹脂の相転移の時間変化を数式化した論文を見つけた。


 論文は タイトルに Kohlrauch-Williams-Watts (KWW) 関数と名前がついたものであった。


 KWW関数は 熱可塑性樹脂の温度変化によって起こる ガラス/ゴム転移に関する時間の影響を表現した経験則であり 樹脂の弾性率変化を時間の関数として表したものであった。


 KWW関数は 熱可塑性樹脂の弾性率を 自然対数の肩に 時間 t と 緩和時間τと ストレッチング係数β からなる関数 -(t/τ)^β を乗せた式で表したものであった。


 川緑は KWW関数の式を見た時に その形は 彼の硬化の理論式に良く似ていると感じた。


 硬化の理論式は UV硬化型樹脂を塗布しUV露光した時に 樹脂の内部の任意の体積素片の硬化状態を表現するものであったが その式も 自然対数の肩に 関数を乗せたものであった。


 川緑は 硬化の理論式を誘導した過程から 硬化の本質は 樹脂に照射する光のエネルギーと 光により活性化された分子の運動エネルギーとの関係により示されると考えていた。


 分子の運動エネルギーは温度の関数として表されるので 硬化の理論式を基にして  KWW関数を見ると その本質が見えてきた。


 KWW関数は 熱可塑性樹脂を過熱冷却した時に 時間と共に変化する弾性率を表す式であったが その背景には 式には記述されていない 分子の相転移に必要な運動エネルギーと温度との関係があると考えた。       


 そう考えると 川緑は 硬化の理論式に KWW関数を加えることにより これまでに求めてきた UV硬化型接着剤の硬化性と物性との関係に 更に 硬化時間を紐付けすることができると思った。

        

 彼は 懸案のUV接着技術開発の道筋は見えたと感じ その先に BD光ピックアップ設計や将来の光学デバイス設計に必要な 接着仕様を最適化するシステムの開発ができると感じた。   


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