第33話 硬化の理論の拡張

   光の吸収モデル / 粒子の影響

  

 2009年8月6日(木)午後4時頃に 川緑は 実験室にある3台のパソコンのモニターに 赤いマジックで「連続運転中」と書いた紙を貼り付けた。


 川緑は UV接着技術開発に必要なデータを取得するために 夏季休暇の間を利用して パソコンの連続運転を行い 自作の数値計算ソフトを走らせた。


 ソフトは UV硬化型接着剤にUV光を照射した時に 接着剤に含まれる球状シリカ粒子により発生する散乱光について 接着剤に吸収される割合を求めるものであった。


 彼は  1000×1000×1000μm サイズのUV硬化型接着剤の露光面の1つの隅にある 10×10×10μm サイズの体積素片の中心位置に1個の球状シリカ粒子を配置したモデルを設定し UV光照射により発生する散乱光の内 全ての体積素片に吸収される光の割合を求める計算を始めた。


 計算は 球状シリカ粒子の粒子径を 0.01μmから10μmまでを16水準に指数分割し UV光の波長の250nmから500nmまでを1nm毎に取り それぞれの粒子と光の組み合わせにより発生する散乱光について行うものであった。


 散乱光の強度分布は UV光の照射方向にあり 粒子の中心を通る直線に対して 球対称となるために 粒子の中心を中心とする単位球を仮定して その1/4の球面方向に散乱する光についてのみ計算を行うことにした。 


 彼は 計算の対象となる散乱光について 単位球の1/4球面を約198,000個に均等分割した面を通る光束を単位として 半径1μm の単位球の表面から法線方向に進むものとして規定した。



 このような計算を行うために 1つの不確定な要素として 球状粒子の光の散乱断面積があった。


 球状粒子に1つの方向からUV光が照射された場合に 散乱する光の強度は その散乱断面積に依存するが それは幾何的な断面積ではなく また粒子は真球ではないために 補正が必要であった。


 川緑は 散乱断面積の補正については 別途 行うことにして 今回は それぞれの粒子径の球状粒子について 幾何学的な散乱断面積を用いて 計算を始めることにした。


 彼は 3台のパソコンを使って 任意の体積素片が吸収する散乱光を求める計算を始めると 数値データのアウトプット速度を確認した。


 アウトプットの速度から 全ての数値計算が完了するには 約3ヶ月間掛かるものと予想された。



 8月24日(月)午後1時に コミュニケーション開発センターの会議室で 金森センター長等により 中断されていた旧材料プロセス研究所のプロジェクトテーマの精査が行われた。


 それぞれのプロジェクトリーダーは 開発テーマのフェーズと現状と課題と今後のスケジュールの説明を行い センター長等は センターの方針にそぐわないテーマや関係事業部との開発委託契約が交わされていないテーマに中止の判断を下した。


 中止となった開発テーマのメンバーは 今後 コミニュケーション開発センターの方針に沿った新規開発テーマを求めて 調査活動を行うことになった。


 機能性樹脂プロジェクトの報告では センター長等は ODD事業部から開発委託を受けていたBD光ピックアップ用のレンズプロテクターとUV接着技術開発のテーマの続行を指示し その他の事業部向けの開発テーマに中止の判断を下した。


 金森センター長は 川緑に「ODD事業部向けの開発テーマは 先方と調整して 年内に完了させてください。」と言った。


 川緑は センター長の口調から 来年に 更なる会社組織の再編があることと その時にODD事業部が切り離されてしまうことを予感した。


 機能性樹脂プロジェクトは これまで「機能性樹脂材料を開発することにより事業部に貢献する」という方針を基に 開発業務を推進しており ODD事業部は その方針に合致した事業部であったが その方針は 新設の開発センターのものとは異なるものであった。


 川緑は 今後のODD事業部の動向は 機能性樹脂プロジェクトの存続に関わるものになると感じた。 



 9月7日(月)午前9時10分頃に 川緑は 佐賀県工業技術センターの材料環境部を訪れた。


  これまで R&D部門のテーマ見直しのために凍結されていた開発業務活動が解かれ 川緑は活動を再開し 材料環境部が保有するオートステージ付き顕微FT-IRを借りて実験を始めた。


 川緑は 別途 進めているUV硬化型接着剤の硬化状態を計算するシステムで得られるデータと 比較するために 実際の接着剤硬化状態の分析を始めた。


 実際の接着剤硬化物は 黒色のエポキシ樹脂を固めて 外寸が 5×5×10mmサイズで その5×5mmの面の中心に 1×1×1mmサイズの穴を設けた型枠を作製し その穴にUV硬化型接着剤を塗布しUV露光して作製したものであった。


 分析サンプルは 接着剤硬化物を 型枠とともに ミクロトームを用いて その露光面に平行に10μm ピッチで切り出した薄膜であった。


 彼は 分析サンプルの 1×1mmサイズの1つの角を含む0.5×0.5mmのエリアについて 顕微FT-IR装置を用いて面分析を行った。


 この日以降 川緑は BD光ピックアップに用いられる全てのUV硬化型接着剤について 同様の作業を行い それぞれの接着剤について 硬化状態のデータの集積を続けた。



   検証実験 / 散乱光の割合


 11月6日(金)午前8時に 川緑は コミュニケーション開発センターの責任者等を尋ねて回り BD光ピックアップ用レンズプロテクタの技術引き継ぎ書に添付した研究委託契約書に検印を貰っていた。


 この時期にレンズプロテクタの技術引継ぎが行われる背景には コミュニケーション開発センターの責任者等の思惑と ODD事業部の責任者等の考えがあった。


 来年1月に杉下電気全社の組織再編が予定されており 杉下電気社と幾つかの事業分野で関係している九杉社内では 自社の事業の分割と再編が噂されていた。 


 九杉社の組織再編により コミュニケーション開発センターが どのように変わり 変わった後のセンターのミッションがどのようなものになるかは不透明な状況になっていた。


 そのような状況下で コミュニケーション開発センターの責任者等には 現在継続中の他の事業場との契約を年内に完了させて 来年の社内の組織再編に対応したい意向があった。


 一方 ODD事業部の責任者等は 開発センターに樹脂材料技術側面からのサポートを期待しており レンズプロテクタの件は引継ぎを完了させて 別の案件を依頼したいと考えていた。



 この日の午後3時に 川緑は ODD事業部の金井グループマネージャーへ電子メールで レンズプロテクタの技術引き継ぎの手続きが完了したことと 来年の研究委託事案の問い合わせを行った。


 午後6時頃に 金井グループマネージャーから川緑に返信メールがあった。


 彼は 来年の開発センターへの開発委託テーマに「UV接着技術開発」のテーマと「UV硬化型接着剤のUV光源LED化」のテーマを依頼する意向を伝えてきた。


 彼は BD光ピックアップの品質改善と良品歩留まり向上のためのUV接着技術の開発と UV光源のランニングコスト削減のためのLED光源の導入検討を 開発委託テーマとして取り上げていた。


 またメールには「ODD事業部は 開発センターに開発テーマを委託するに当たり 予算を計上します。 つきましては 川緑さんの希望する研究設備とその価格をリストアップして連絡してください。」と書かれていた。



 11月10日(火)午後1時に 川緑は UV型接着技術開発に必要な接着剤内部の硬化状態を数値計算するための実験を始めた。


 彼は 接着剤中にある球状シリカ粒子により散乱される光の量を正確に求めるために 実際にUV硬化型接着剤に用いられている球状シリカ粒子を用いた実験を始めた。


 これまでに 川緑は モデル形状のUV硬化型接着剤の露光面の1つの隅にある体積素片中に1個の球状シリカ粒子が配置されたモデルについて その粒子が散乱する光の内 全ての体積素片に吸収される光の割合を求めていたが それは 球状粒子の散乱断面積を幾何学的な断面積としていた。


 実際の光の散乱は 光の波長や粒子径や粒子の形状の影響を受けるので 得られた数値データは 実際に近い散乱断面積を用いて補正する必要があった。


 彼は 散乱断面積の補正を 透明な媒体中に粒度の異なる粒子群からなる球状粒子を配置したモデルの透過率の計算結果と 実際に球状粒子を透明な媒体に分散したサンプルの透過率の測定結果とを比較することにより行った。


 球状粒子を配置したモデルは 実際の3種類の粒度分布を持つ粒子群に合わせて 粒子径を 0.01μmから10μmまでを16水準に指数分割したそれぞれの粒子の粒子群を設定し それを透明な媒体に均等に分散したモデルを用いた。


 川緑は 3種類の球状粒子を所定の重量だけ分散したモデルについて 粒子の幾何学的な散乱断面積を基にして 1cmの厚を直線的に透過する光の割合を計算により求めた。


 また 彼は 実際の球状粒子を所定の重量だけシリコーンオイルに分散した試験サンプルを作製し 1cm厚の石英セルに入れて 分光光度計を用いて透過率を測定した。



 川緑は 3種類の球状粒子を分散したモデルについて 波長300nmと400nmと500nmの透過率の実測値と計算値とを比較した。 

 

 透過率の比較結果は 計算値に比較して 光の波長が大きい程 また平均粒子径が小さい程 実測値の値が小さくなる傾向を示した。 


 そこで 彼は 透過率の計算に用いた球状粒子の幾何学的散乱断面積に 波長によって変わる係数と粒子径によって変わる係数を加えて 透過率の計算値を実測値に近似させた。


 このようにして得た散乱断面積の補正値を基にして 川緑は 懸案のUV硬化型接着剤のモデル形状を構成する全ての体積素片に吸収される光の割合を求めるソフトを作った。


 川緑は このソフトと 彼の「硬化の理論」を組み合わせて UV硬化型接着剤の硬化状態を数値化するシステムを完成させた。



 懸案のBD光ピックアップの接着仕様を求めるシステムの開発には UV硬化型接着剤の任意の体積素片の硬化状態と機械的強度を紐付けする理論の構築が必要であった。


 その理論の構築には 最新の研究設備が必要であり ODD事業部の支援が不可欠であった。


 川緑は 研究設備が手に入り 1年間の研究活動が許されるなら UV接着技術を構築して BD光ピックアップの接着仕様の最適化を行うだけでなく 将来に出てくると思われる 更に微小な光学デバイスの設計に役立つシステムを開発できると思った。

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