第32話 緊急経営対策

   仕事の出来ない人は / 早期退職者募集


 2009年2月5日(木)午後4時に 厚生棟の食堂で 臨時夕会が開かれた。


 夕会の壇上に立った若松社長は 暗く沈んだ抑揚のない声で 会社の経営状況と 緊急経営対策について話し始めた。


 社長は 会社の経営が危機的な状況にあり このままでは消滅してしまうと述べ 会社の再建のための対策として 赤字額の大きい国内外の4つの工場を閉鎖することと 早期退職者募集を行うことを伝えた。


 早期退職者の募集人数は これまでにない大人数を予定していることと これに過去最大規模の支援金を用意することが伝えられた。



 2月6日(金)午後1時に 厚生棟の食堂で R&D部門担当役員の楠田取締役から R&D部門の社員へ 早期退職者募集の件についての説明会が開かれた。


 昨日の社長の話方に比べると 楠田取締役は 淡々とした口調で話をし R&D部門の社員へ 昨年に彼が社長とコミットしたR&D部門の目標を達成できなかったことを詫びた。


 また彼は 3月に ODD開発センターがR&D部門から切り離されて 熊本事業場のODD事業部に集約されることを伝えた。


 この日に熊本事業場でも同様に 担当役員からODD事業部の社員へ早期退職者募集の説明会が行われ ODD開発センターのODD事業部への集約と 事業部の半数が他部署に異動になることが伝えられた。


 担当役員は強い口調で「仕事のできない人は ここを去ってくれ。 仕事のできる人も ここにいられるとは限らない。」と言った。


 ODD事業部は これまで会社の経営に大きく貢献してきた事業場の1つであったが 最近は 海外の競合メーカーの台頭や BD光ディスクドライブの市場での需要の伸びが見込まれず 事業計画の達成は困難な状況になっていた。


 今回の早期退職者募集で ODD事業部の募集数や異動者の割合が多いのは ODD事業部の経営状況が影響しており 川緑に「金の切れ目は 縁の切れ目」という言葉を思い出させた。



 2月9日(月)午後3時に 川緑は 実験室で 機能性樹脂プロジェクトのメンバーと ODD事業部の組織再編の意味と ODD事業部からの開発委託テーマの今後について話し合っていた。


 ODD事業部の再編は 今後 事業部が九杉社の子会社となるか または 杉下電気社に併合されることが予想された。


 いずれの場合でも 機能性樹脂プロジェクトは これまでの様に 事業部から開発委託を受けて仕事をすることは難しくなると予想された。


 ODD事業部は 機能性樹脂プロジェクトのお得意様であり 互いに 必要とされていた関係にあったので 事業部の今後は プロジェクトの存続にも影響するものであった。


 プロジェクトのメンバーは 皆 重苦しい雰囲気に包まれていたところへ 神奈川県茅ヶ崎市にある九杉社の事業場に勤める柳原主任技師がやってきた。


 川緑と同年代 中肉中背、面長の日焼けした顔に黒縁の眼鏡を掛けた柳原主任技師は オフセット印刷用の版を作る装置の開発を手がけており 装置に用いる接着剤の開発を機能性樹脂プロジェクトに依頼していた。


 彼は「なんだか 暗い雰囲気ですね。何かありましたか?」と聞いた。


 川緑は「緊急経営対策の件で 今後の話をしていたところです。」と言うと 彼は「川緑さんは 今回の早期退職者募集に応募しないのですか?」と声を弾ませて聞いた。      


 彼の声の調子に 少し驚いた川緑は「私は 辞められないのですが 柳原さんは 応募するんですか?」と逆に聞き返した。


 彼は「もし 私が会社を辞めると言うと 家族から猛反発を喰らうでしょう。 でも 会社が私に辞めてくれと言えば 家族の攻撃の矛先は 会社に向くでしょう。」と明るい表情で言い「会社を辞めても 何とかなりますよ。」と言った。


 彼の発言は それまで緊張していたプロジェクトメンバーの肩の力を抜き 暗くなっていたメンバーの表情に笑いを与えた。  



   キーマンの退職 / 組織再編


 5月29日(金)午後7時に JR博多駅筑紫口付近にある飲食店の御膳屋で ODD開発センターのメンバー等による深田リーダーの送別会が行われ 個別に案内を受けていた川緑もこれに参加した。


 今月末にODD開発センターの深田リーダーと企画の植村リーダーが退職することが決まっていた。


 彼等は 会社の緊急経営対策を受けて 2月より ODD開発センターのメンバー全員を対象に 早期退職者の募集を行い 繰り返し個人面談を行っていた。


 彼等の面談を受けて 退職することを決めた社員も多くあり 彼等は その責任を取って退職することを決めていた。


 今回の早期退職者募集では 55歳以上の非組合員は定年扱いでの退職となり 彼等の殆どは 会社の意向に沿う形で退職することを決めていたが 2人は この時に まだ54歳であった。


 深田リーダーは 光学設計の技術者であり これまで光ディスクドライブの新商品を次々と開発して 市場に送り出していたが 送別会の席でも「今後も 自分の技術を活かせる仕事を見つけていきたい。」と語った。  


 川緑は 深田リーダーの話を聞きながら 多くの部署で 彼等のような組織のキーマンが退職してしまうと 会社の能力や機能が低下してしまうだろうと感じた。

 


 6月1日(月)に 早期退職者が去った会社では 経営幹部等により 組織の再編が行われた。


 組織再編の中で R&D部門は 従来の研究所や開発センターが統合されて 新設のコミュニケーション開発センターに集約された。


 新組織の責任者には 通信関連の事業に関わってきた 日隈役員や金森センター長が就任した。


旧材料プロセス研究所の人員は そのまま 開発センターの第四開発チームに編入された。


 R&D部門の組織再編後に コミュニケーション開発センターの責任者等は 旧材料プロセス研究所で取り組んでいた開発テーマを精査し テーマ存続の可否判断を下す方針を打ち出した。


 テーマ存続の可否判断は 別途 各プロジェクトのリーダーからのテーマ報告の場で行われることになり それまでの間は 各プロジェクトの開発活動は中断されることになった。



 開発活動を止められている間 旧材料プロセス研究所のメンバーは 会社にいる時間の大半を休憩室で過ごすことが多くなっていた。


 川緑は 会社にいる時間を UV接着技術開発のためのソフト作成に当てることにした。


 ソフトは UV接着剤を 1000×1000×1000μm サイズの立方体のモデル形状に塗布した時に 立方体の1つの面に垂直にUV光を照射した場合の内部の硬化状態を数値計算により求めるものであった。


 川緑は ソフトの作成に当たり まず モデル形状の内部に 10×10×10μm サイズの体積素片群を仮定して それらに吸収される光の量を求めることにした。


 体積素片に吸収される光の量を求めるためには 体積素片を構成する成分の光の吸収特性と 成分中に含まれる粒子によるUV光の散乱の影響を考える必要があった。


 BD光ピックアップに用いられるUV硬化型接着剤の中には 補強材として球状のシリカ粒子が含まれるものがあり UV照射時に接着剤に入射する光の一部は 球状のシリカ粒子により散乱された。


 球状シリカ粒子は その粒子径がサブミクロンから数ミクロンの範囲で粒度分布を持つものであり 波長がサブミクロンのオーダーのUV光が当たると 粒子径に応じて また光の波長に応じて光散乱が発生し それは Mie散乱と呼ばれるものであった。



 6月5日(金)午後1時15分に コミュニケーション開発センターの昼会が終わると 川緑は 近くにいた ODD開発センターの作本主任技師に声を掛けて 彼等が業務に使用している光学シミュレーションシステムを貸してくれるように頼んだ。


 作本主任技師は 普段 業務に光学シミュレーションシステムを使用しており 川緑に「シミュレーションシステムは 空いている時間に使ってもらっていいですよ。」と言った。 


 早速 川緑は 10×10×10μm サイズの1つの体積素片の中心に1個の球状シリカ粒子を配置したモデルを考え、体積素片の1つの面に垂直にUV光が入射する場合に発生する散乱光を求めた。


 シミュレーションシステムに 球状シリカと接着剤の屈折率の波長依存性のデータと 球状シリカの粒子径と 入射する光の波長を入力し それぞれの条件で発生する散乱光の角度依存性のデータを出力した。


 データは UV光の入射方向に対して 球状シリカ粒子の中心点から0度から180度までの角度範囲を500等分したそれぞれの角度に対応した散乱光の特性であった。


 必要なデータを取得した川緑は 作本主任技師にお礼を言って 戻っていった。



 自分の机に戻ってきた川緑は 入手した散乱光のデータを基にして モデル形状のUV硬化型接着剤中の体積素片に吸収される散乱光の量を求める作業を始めた。


 川緑は A4用紙に 立方体の体積素片を描き その中心位置に球状シリカ粒子を1個描いて 更に UV光が散乱するイメージを図示すると、球状粒子の周りにある注目する体積素片に吸収される散乱光の量を求める計算を始めた。


 川緑は 計算を始めると 直ぐに 吸収される光の量を求めるためには 解決しないといけない課題が多くあり この問題は 一筋縄ではいかないことが分った。


 課題の1つは 見かけ上 球状シリカ粒子の中心から全方向に散乱する光が 注目する体積素片を通るときに吸収される量を計算できるように散乱光を規格化することであった。


 散乱光の規格化は 光が散乱する方向と光の束を規定することであり 球状シリカ粒子の中心点を中心とする単位球を考えて その球面を等分した均等分割面を求める必要があった。


 但し 球面の均等分割は 全ての体積素片に吸収される光の量を精度よく求めることができる程度に細かく分割する必要があった。


 また課題の1つは 球状シリカ粒子に入射する光と散乱する光の量の整合性であった。


 モデル形状のUV硬化型接着剤に照射されるUV光は 球状シリカ粒子により散乱されるものと 直線的に透過するものに分れるので、それぞれの光の割合を求める必要があった。


 球状シリカ粒子にUV光を照射した時に 光が当たる粒子の面積は求まるが そこに当たる光の一部は 粒子を回り込み その割合は 光の波長により また 粒子径により異なるので それぞれの条件での光の回り込みの割合を求める必要があった。 


 これらの課題に直面した川緑は ソフト作成の手を止め これらの課題を解決するためのアイデアを考え続けた。 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る