第31話 非常事態宣言
自主テーマ / UV接着技術開発
2008年10月2日(木)午前9時頃に 居室の机で事務作業をしていた川緑のところへ ODD開発センター企画の植村リーダーがやってきた。
彼は「川緑さん 昨日の君からのUV接着技術開発の提案の件なんだけどね。」と切り出した。
彼は 川緑のセンター長への報告会の後に 開発センター内で 今後の対応が協議されたと言った。
彼は「君が求めた研究投資額も 光ピックアップの開発投資額に比較すると微々たるもんなんだけどね 今のODD事業部の経営状況から不確定な案件に投資できないとの判断があったんよ。」と言った。
彼は「それでもね ODD事業部からは 君にUV接着技術開発をやってもらいたいとの意見もでたのよね。」と笑顔で言い「申し訳ないけど 今回の件は 材料プロセス研究所の自主テーマとして推進してもらえんね。」と要望を述べた。
彼等の判断の背景には 先の早期退職者への対応に 内部留保の切り崩しを行ったことによる会社の体力の低下や 先月のアメリカの金融会社リーマン・ブラザーズの破綻による世界的な株価の下落と急速な円高の影響があった。
この日に 川緑は 実験室に 機能性樹脂プロジェクトのメンバーを集めて これまでのODD開発センターやODD事業部との 開発委託テーマの取り扱いに関するやり取りの内容を伝えた。
彼は 懸案のUV接着技術開発テーマが 研究所で自主的に進めるテーマとなったことと 事業部からの開発費の支援が受けられなくなったことを伝えた。
川緑は「UV接着技術開発のテーマは 人手を掛ける事ができなくなりました。皆さんには 事業部から開発委託を受けているテーマの推進をお願いします。」と言った。
彼は「残念ですけど UV接着技術開発のテーマは 私のできる範囲で対応します。 それでもこの取り組みは 今後の材料やデバイス開発に重要な役割を果たす技術基盤となるものです。研究の成果は共有しますので 皆さんのテーマ推進の参考にしてください。」と言った。
11月4日(火)午前9時に 厚生棟の食堂で 全従業員を集めて 臨時の朝会が行われた。
疲れた表情の若松社長は「非常事態を宣言します。」と言うと 会社の経営状況を話し始めたが それは ひどい状況であり 社長の口調や表現は奇異なものに感じられた。
彼は「会社の現状に対して どうしたらよいのか分からない。」とか「倒産してもおかしくない。」とか「非組合員の賃金カットも 焼け石に水だ。」等といった言葉を口にした。
この日に 材料プロセス研究所では臨時の昼会が開かれ 企画の落合リーダーは 会社が実施する緊急経営対策の内容を説明し その中で 各プロジェクトの研究費を当分の間凍結することと 組合員の超勤時間をカットすることを伝えた。
昼会が散会すると 所員等は 元気なくそれぞれの仕事場に戻って行き 彼等の中には「研究費が使えないってことは 仕事をするなということでしょう。」といった声も聞かれた。
この様な会社の状況下で 川緑は 自主テーマのUV接着技術開発に着手した。
開発を始めるのに当たり 彼は UV接着技術開発の取り組みの目標と課題を設定した。
彼は 目標を いろいろな光学部品の接着仕様を数値計算によって求めるシステムを開発することとし そのための課題は UV接着剤の硬化状態と位置固定精度を関連付ける理論を構築し その理論を基に 数値計算ソフトを作成することとした。
次に彼は UV硬接着剤の硬化状態を数値計算するための塗布形状のモデルとして 1000×1000×1000μm サイズの立方体形状を設定した。
この寸法サイズは 光ピックアップで光学部品の接着に用いられる接着仕様に近いサイズであり また UV接着剤の硬化状態や機械的強度を精度よく検証するために適当なサイズであった。
川緑は 1000×1000×1000μm サイズのモデルの内部を10×10×10μm サイズの体積素片に分割し それぞれの体積素片の硬化状態を計算するソフトの作成に取り掛かった。
研究費が使えない今 彼にできることは 理論の構築と 計算ソフトの作成だけであった。
11月10日(火)午後4時頃に 実験室で パソコンに向かって計算ソフトの作成を行いながら 川緑は 実験室で作業中の機能性樹脂プロのメンバー等の会話を聞いていた。
彼等の会話の焦点は 会社の緊急経営対策であり 彼等は 残業が出来なくなり 早く帰宅すると 生活のリズムが変わって 眠れなくなったり 体長が悪くなったりしたとの経験を話していた。
彼等の体調不良の理由は 会社の今後に危惧するところからきているのだろうと思いながらパソコンのモニターを見ていた川緑に 研究所の新村主任技師から 勉強会の案内のメールが届いた。
新村塾 / プログラミング勉強会
11月12日(水)午後5時に 会議室で 材料プロセス研究所のメンバーを対象にした 新村塾という名の勉強会の第1回が始まった。
研究所の新村主任技師は 40歳台中頃、中肉中背、眼鏡を掛けており 中途入社組という彼は 自然科学に強い興味を持っており 丁寧な言葉遣いが印象的な人物であった。
彼は 研究所内の業務改善取り組み活動の一環として 定時後に Visual Basic の使い方の講習会を計画し 所内のメンバー等にメールで参加を募集していた。
この講習会は 業務ではなく 自己啓発のための時間外活動として 定時以降に行われるものであり 第1回目の講習会には 川緑を含め 研究所の8名が参加した。
参加者等は 会社の緊急経営対策で残業がなくなったので 定時以降の時間を利用して 自分の技術レベルの向上を図りたいという気持ちだけでなく 何か前向きに取り組めることを実践したいという気持ちがあって集まったものと思われた。
講習会は UV接着技術開発を進めるための数値計算ソフトの作成を考えていた川緑にとって 渡りに船の様なものであった。
この日の講習では 参加者等は 新村主任技師の指導を受けて NET上のVisual Basicサイトから お試し版として その機能が限定された無料ソフトのダウンロードを行った。
11月27日(木)午後5時に 会議室で 新村塾が開かれ 新村主任技師は 塾活動で実践された Visual Basic で作成したソフトを用いた実験例を紹介した。
実験例は 新村主任技師の指導を受けて川緑が行ったものであり 作成ソフトを用いて 幾つかのUV照射機から照射されるUV光の強度分布の測定を行ったものであった。
そのソフトは XYオートステージとステージ上に固定したUV光量計と連動しており スポット照射タイプのUV照射機から照射される光を ステージを自動制御しながら計測するものであった。
UV光の測定は 光量計の受光部に φ100μm 径のピンホールを開けたマスクを乗せて行い UV照射距離 10、20、30、40mmの地点のそれぞれの露光面 5000×5000μm の範囲を 縦横100μm ピッチで切った格子点の合計2500点について行われていた。
自動制御ソフトを用いた実験は 手作業で行うと数百時間かかる操作を 一度 測定条件を設定すると 半日程で 自動的にデータを取得してくれるものであった。
実験により得られた露光面のUV光の強度分布は それぞれUV光源によって また それぞれの照射距離に異なるものであった。
川緑の実験例は 新村主任技師が意図する業務効率の改善活動に大きく貢献するものであり 得られた実験結果は UV接着技術開発を進めるために不可欠なデータであった。
2009年1月22日(木)午前8時30分頃に 川緑は 九州自動車道の筑紫野の高速バス停からバスに乗り、佐賀駅バスセンターで路線バスに乗り換えて 午前10時頃に 鍋島町にある佐賀県工業技術センターに着いた。
この頃 会社の非常事態宣言による研究費の凍結は 一部緩和されており 小額の研究費の出費は承認されるようになり 川緑は UV接着技術開発のための実験にやって来ていた。
川緑は 工業技術センターの材料環境部を訪ね 事前予約していた全自動微小硬度計と顕微FT-IR装置を借りて 持参したUV接着剤硬化物サンプルの微小なエリアの硬度測定と硬化状態の分析を行った。
全自動微小硬度計は ダイヤモンドでできた針をマイクロメートル オーダーの深度で圧入し 針先に掛かる力から サンプルの微小なエリアの機械的強度を求める装置であった。
この頃に 分析機器メーカーは 新しい技術を導入した最新モデルの分析機器を売り出していた。
微小硬度計に代る最新の装置は ナノインデンテーション装置と呼ばれるものであり 試験サンプルのナノサイズのエリアの機械的強度の測定が可能であった。
また 最新のFT-IR装置は これまでのオートステージと顕微鏡を組み合わせたシステムから 受光素子をアレイ化した検出機を持ち 1回の測定で 試験サンプルの面分析が可能であった。
しかし 研究設備投資は凍結され 高額の研究費は承認が下りないために 川緑は 工業技術センターが保有する古いタイプの研究設備を借りて それなりの実験をするしかなかった。
川緑は 工業技術センターの全自動微小硬度計と顕微FT-IR装置を借りて ぼちぼちと いろいろなUV硬化型接着剤の硬化物サンプルの機械的強度と硬化状態のデータを取得して行った。
これらのデータは UV接着技術開発の目標とする UV接着仕様を数値計算により求めるシステム開発のためのバックデータとして必要なものであった。
この頃に 会社では 先の非常事態宣言を受けての経営対策の1つとして 会社の経営に貢献していない事業部の組織再編が噂されていた。
組織再編の噂の矛先は 光ディスクドライブの市場価格の下落により減収となっていたODD事業部に向けられていた。
その噂は ODD事業部からの委託を受けて活動する川緑等に 先行きを案じさせていた。
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