第29話 早期退職者募集
駆け込み寺 / 研究テーマの見直し
2007年12月25日(火)午後2時に 川緑は 実験室で 機能性樹脂プロジェクトのメンバーへ「UV硬化型樹脂」をテーマとした講義を行った。
この頃に 機能性樹脂プロジェクトは 新しく2名が加わり 川緑を含む8名の組織になっていた。
新メンバーの1人の桑野技師は 40歳台中頃、中肉中背で 話し好きなタイプであり 研究所のテーマの見直しの取り組みの中で 中止となったプロジェクトから 機能性樹脂プロジェクトへ移ってきていた。
もう1人の川畑主任技師は 40歳台中頃、中肉、中背で 眼鏡を掛けており 物静かなタイプであり 彼もまた いくつかの開発プロジェクトを変遷した後に 機能性樹脂プロへ移ってきていた。
10月1日の社長の非常事態宣言を受けての会社の緊急経営対策の取り組みは 材料プロセス研究所の幾つかのプロジェクトを中止に追い込み 機能性樹脂プロジェクトは 仕事を探す所員の駆け込み寺のようなところになっていた。
この日の川緑の講義は 機能性樹脂プロジェクトのメンバーに 樹脂材料を取り扱う仕事を行う上で必要な基本的な知識を身につけてもらうためのものであった。
彼は「UV硬化型樹脂」をテーマに講義を行い その中で UV硬化型樹脂の基本的な成分や その成分の配合の目的等について話し また 彼の独自の「硬化の理論」について説明を行った。
「硬化の理論」は UV硬化型樹脂の硬化状態を数値化する理論であり その理論を基に作られたソフトは UV光源特性や樹脂組成や塗布形状や温度や環境をパラメーターとして 任意の条件下での硬化状態を求めるものであった。
講義を終えた川緑は「講義の内容を みんなの仕事の参考にしてください。」と言うと メンバーのそれぞれを プロジェクトが抱える幾つかの開発テーマに割り当てた。
開発テーマには BD光ピックアップ用レンズプロテクターと伝熱材と精密固定接着剤等があった。
精密固定接着剤開発テーマは ODD事業部からの要請を受けて これまでの調査・研究フェーズからステップアップして開発フェーズの位置づけになっていた。
精密固定接着剤開発の開発フェーズの取り組みの1つは 現行の光ピックアップ用接着剤の仕様を調査し 別途 接着剤メーカー各社から接着剤サンプルを取り寄せ それらの基本的性能を評価することであった。
現行の接着剤の液特性や硬化性や硬化物特性等の基本的性能は 接着剤メーカーより入手していたが それとは別に 独自に評価基準を設けて 接着剤の評価を行うことにした。
独自の基準での評価は 異なるメーカーより入手した接着剤の特性を 同じ土俵で比較することを目的としたものであり またプロジェクトのメンバーに評価方法を習得してもらうことを目的としていた。
また精密固定接着剤開発の取り組みの1つは 次世代の精密固定接着剤やその他の樹脂材料開発のための「ナノ粒子」の調査であり 川緑は 分散技術を有する城本主任技師を担当にした。
「ナノ粒子」は 世界中で注目され始めていた材料であり 金属や金属酸化物からなるナノサイズの粒子径をもつ粒子であった。
「ナノ粒子」は サイズの効果により 高分子材料との相互作用が小さいために 樹脂材料に高密度に分散、充填することが出来 樹脂材料に これまでにない性能を付与できることが期待された。
「ナノ粒子」は そのサイズの効果により 紫外線等の光を照射した時に 光が粒子を回り込み 透過することが出来 これを分散させたUV硬化型樹脂の硬化性を改善させることが期待された。
このように「ナノ粒子」は 樹脂材料の性能を飛躍的に改善する効果が期待され 精密固定接着剤やその他の樹脂材料への適用は それらの性能を大きく変える可能性があった。
12月27日(火)午後1時に 実験室で 川緑は プロジェクトのメンバーと 接着剤メーカー各社から取り寄せた接着剤サンプルの評価に着手した。
彼等は 取り寄せた接着剤サンプルについて それらの粘度と比重等の液特性の評価や 硬度、硬化収縮率、吸水率、弾性率、伸び率、ガラス転移温度、線膨張係数等の硬化物特性の評価を始めた。
サンプルの硬化物特性の評価結果は 接着剤の硬化状態に依存するので 彼等は 事前に それぞれのサンプルの硬化条件と硬化状態との関係を求めていた。
彼等は それぞれの接着剤サンプルについて UV硬化条件を3水準とって硬化した試験片を作製し それらの弾性率を求めて 得られた結果を基に それぞれのUV硬化条件を設定していた。
設定した条件で硬化した接着剤サンプルの弾性率の測定やその他の硬化物特性の測定は 福岡県の工業技術試験場の実験設備を借りて行うことにした。
設備を借りての実験は プロジェクトのメンバーの全員が2人ずつ組を作り 交代で行うことにした。
多くの接着剤サンプルの液特性や硬化物特性の評価は 多くの人手と時間を要するものであったが それは 精密固定接着剤を開発するために必要な作業であった。
ぶら下がっている人は / 早期退職者募集
2008年1月28日(月)午前9時に 川緑は 接着剤サンプルの位置固定精度を評価するために 独自に考案した実験を始めた。
光ピックアップの製造工程では 光学部品の基板上への固定は 主に 部品の面と基板の面とをUV硬化型接着剤を用いて接着し 固定する仕様となっていた。
光学部品の接着、固定は XYZΘステージ上に部品をエアチャックで保持し 部品の位置をモニターしながら XYZΘステージにより部品の位置調整を行い ディスペンサーを用いてUV硬化型樹脂を塗布し UV照射するプロセスで行われていた。
UV硬化型接着剤は 硬化の際に接着剤の中の反応性の分子同士が結合して接近するために 接着剤は収縮しようとする一方 部品と基板が保持されているので 収縮方向に応力が残留していると予想された。
もし 残留応力があれば その後の光ピックアップの環境試験の際に 応力が緩和されて 接着剤が変形するので 光学部品が位置ずれを起こし LD光の光路にずれを生じ 光ピックアップの性能を低下させることが考えられた。
そこで 川緑は それぞれの接着剤が どれくらい収縮するものか 残留応力は どれくらいであり また 応力が解放された時に 部品はどれくらい動くものかを調べる実験を始めた。
実験の1つは 現行の接着仕様に準じた接着モデルについて 硬化収縮量を求めるものであった。
実験では まず100×100×2mmサイズのガラス板を水平面上に乗せ 2×20×1mmサイズのアルミ角柱を その2×20mmの面が ガラス板から1mmの距離に平行になるように 支柱を用いて シーソーの様にバランスさせた。
アルミ角柱の一方の端に ガラス板と橋渡しする様に 直径1mm×1mmサイズに UV硬化型接着剤を塗布し 接着剤を塗布した部分のアルミ角柱の上に 小さなミラーを乗せた。
LEDポインターを用いて ミラーの真上からLED光を当てて その反射光を 反射ミラーを用いて 近くの壁に設けたスクリーンに投影した。
次に ガラス板とアルミ角柱の間にあるUV硬化型接着剤に UV照射機を用いて UV光を当てた。
UV光を当てると直ぐに 接着剤の硬化収縮が始まり スクリーン上に投影されたLED光の位置は 移動を始め 接着剤の収縮が止まると LED光の位置も静止した。
川緑は スクリーン上のLED光の移動距離と 実験の設定条件から UV硬化型接着剤の接着面に垂直な1軸方向の収縮率を求めた。
この様にして求めた各種UV接着剤の1軸方向の収縮率は アクリル系UV硬化型接着剤が15%程度であり エポキシ系UV硬化型接着剤が5%程度であった。
得られたそれぞれの接着剤の硬化収縮率は 接着剤のカタログに示されている体積収縮率から換算される1軸方向の収縮率と比較して1桁大きい値であった。
収縮率の違いは 接着面付近にある接着剤がアルミやガラス板の表面に 分子間力で結合しているために 表面付近にある接着剤は 面方向に収縮することが出来ずに その分 接着面に垂直な1軸方向に集中して収縮することに起因していた。
実験のもう1つは 接着剤が硬化収縮する時に発生する力を求めるものであった。
実験では まず2×10×1mmサイズのアルミ角柱を2つ用い これらを引っ張り試験機の2つのチャックに それぞれの 2×1mmの面が 1mm離れて、平行に対向するように取り付けた。
アルミ角柱の対向面を含む 2×1×1mmの空間を埋めるようにUV硬化型接着剤を塗布し その後 接着剤にUV露光を行った。
UV硬化による接着剤の収縮に伴い 引っ張り試験機のチャック間に引っ張り力が発生し その後 接着剤の収縮が止まり 引っ張り力は一定の値を示した。
UV接着剤にUV光を照射すると 直ぐに、チャック間に引張り力が発生し その力は、時間と共に増大していき ある値のところで安定した。
これら2つのモデル実験の結果と 別途 測定した各種接着剤の弾性率の値とから 川緑は 光ピックアップの現行の接着仕様での それぞれの接着剤の変移量を求めた。
現行の接着仕様について 各種接着剤硬化時に発生する残留応力が その後 解放された時に 接着剤が収縮し変移する量は 種接着剤の1mmの長さ当たり 0.1から0.2μm 程度であった。
得られた計算結果は 光ピックアップを構成する光学部品の位置固定精度には問題が無いことを示していたが その結果は 光ピックアップの光路ずれの問題を再現していないものであった。
モデル実験の結果をまとめながら 川緑は 現行の光ピックアップの光路ずれの問題が UV硬化型接着剤の硬化状態の影響によるものであると確信した。
2008年2月4日(月)午前9時に 会社の厚生棟の食堂で 全社員を対象にした朝会が行われ 小森社長が壇上に立った。
社長は 冒頭に 会社の経営状況の悪化が続いていることに触れ 会社経営の立て直しのために早期退職者を募集することと 彼が経営責任を取って社長職を辞することを告げた。
早期退職者の募集は これまでも 九杉社単独では毎年行われており 応募者には 退職金の上積みや再就職をサポートする支援制度が適用されていた。
今回の早期退職者募集について 社長は「杉下電気社グループ会社の全社で行われるものであり 退職金の上積み額や退職後のサポートは これが最後で 最大のものです。」と言った。
社長は 早期退職者の募集と同時に 余剰人員を削減したい意向を示し 社員に向かって「会社にぶら下がっている人は 手を放してください。」と言った。
社長の言葉は 多くの社員に衝撃を与えたようであり 朝会後に食堂から退室する従業員の中に「今 仕事は辞められない。手は離せない。」との声や「握力を鍛えよう。」と言った声が聞こえた。
2月7日(木)午前10時に 厚生棟の食堂で 杉下電気社の人事部の担当者による 早期退職者募集の説明会と 応募者への再就職のサポートシステムについての説明会が開かれた。
この日の午後6時に 材料プロセス研究所の会議室で 福井所長は 研究所の非組合員の全員に対して個人面談を行った。
所長は 個人面談の中で それぞれに 今回の早期退職者の募集に応募するかどうかの意思の確認を行った。
所長は 川緑との面談の中で「川緑さん 勤務の継続を希望しますか?」と聞いた。
「仕事を続けたいと思います。」と答えると 所長は 今後の会社の業績の推移によっては 杉下電気社の幹部によって 九杉社組織が解体されることと そうなれば 非組合員は どのような処遇を受けようと それに従うことになると言った。
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