第23話 開発に着手

   接着剤設計思想 / 硬化の理論 

   

 2004年2月13日(金)午前9時に 研究所のオプトデバイス開発チームの作本主任技師と古澤氏と 材料チームの川緑は 熊本事業場を訪れた。


 事業場の光ディスクドライブ事業部の山岡技師は 川緑達を見つけると「いい結果は出ましたか?」といいながら 彼等を会議室へと先導した。


 会議室の席についた川緑は 懸案のBD光ピックアップ用の青色LD光耐性接着剤サンプルの試験の途中結果をまとめた報告書を提出して 報告を始めた。


 接着剤サンプルは 国内の樹脂材料メーカー6社から取り寄せたものであり アクリル系樹脂とエポキシ系樹脂とシリコーン系樹脂等であった。


 接着剤サンプルの青色LD光耐性の試験は φ10mm×1mmサイズの石英ガラス2枚を 接着剤を用いて10μm 間隔で貼りあわせた試験サンプルを用いて行っていた。 


 青色LD光耐性の評価は 試験サンプルを80℃の加熱炉の中に置き サンプルの中心部の接着面に垂直に 青色LDの集光光を1000時間連続照射し 試験サンプルの405nmの波長の光の透過率の変化を測定するものであった。


 青色LD光耐性の合否は 青色LDの連続照射後の試験サンプルの透過率の減衰率が2%以内かどうかで判定されるものであった。



 この日の報告では 各種接着剤を用いた試験サンプルについて 青色LD光の連続照射実験の途中100時間光照射後の透過率のデータが示された。


 100時間の照射で 生き残った試験サンプルは3種類だけであり その他の多くの試験サンプルは 透過率の変化が2%を大きく超えて不合格となっていた。


 報告を受けた山岡技師は「うーん。」と声をだして腕組みをすると「僅か100時間で この結果ですか。プロジェクトの先行きが心配です。」と言った。



 川緑は 今回の青色LD光耐性の連続照射実験を行う前に それぞれの接着剤について その硬化性を厳密に調べていた。


 2枚のガラス基板を接着する仕様では 接着剤の厚みによってその硬化性が変化することは 川緑には 容易に推測できたので これらの接着剤を用いた試験サンプルの作製に当たって 事前に それら接着剤の硬化条件と硬化状態を把握する実験を行っていた。


 実験では まずφ10mm×1mmサイズの臭化カリウム基板2枚を それぞれの接着剤を用いて貼りあわせて それぞれ硬化温度と硬化時間を変えて硬化した試験サンプルを作製した。


 次に 赤外分光分析装置を用いて 硬化前後の接着剤の赤外スペクトルを測定し シリコーン系接着剤の硬化状態に関わる吸収のピーク強度の変化率を硬化度として数値化した。


 得られた数値データは それぞれの接着剤が メーカーが推奨する条件よりも更に高温で硬化しなければならないことを示していた。


 川緑は 彼の硬化の理論を基に それぞれの接着剤に最適な硬化条件を設定し その条件で試験サンプルを作製することで 接着剤に それが本体有する強靭さを与えていた。



 今回の青色LD光の100時間連続照射実験の結果について 川緑は 接着剤が本体の強靭さを有する時に そもそも接着剤が青色LD光に耐えるものかどうかを 接着剤の分子鎖の結合エネルギーを基に検証していた。


 アクリル系接着剤は これを構成する基本骨格は 炭素原子と炭素原子を繋ぐ単結合鎖からなり その結合エネルギーは 353kJ/mol であり シリコーン系接着剤は これを構成する基本骨格は ケイ素原子と酸素原子を繋ぐ単結合鎖からなり その結合エネルギーは 444kJ/mol であった。


 一方 青色LDから照射される光の波長は 405nmであり この値を 光の波長とエネルギーの換算式に代入し 1mol 当たりの値に換算すると 295kJ/mol となった。


 接着剤の基本骨格と青色LD光のエネルギー比較結果からは、これらの接着剤を構成する基本骨格は 青色LDの光を当てても切れることは無いこと予想された。


 ところが 各種接着剤の青色耐性の試験結果は 殆どの接着剤が 青色LDの光に対して耐久性がないことを示していた。


 会議での今後の方針打ち合わせでは 青色LD光100時間照射試験に生き残った3種類の接着剤について 山岡技師の所で 引き続き1000時間までの光照射試験を行うことが決められた。



   歩留まり50%ですかー! / 事業部の選択


 4月6日(火)午後14時に 川緑は 研究所の会議室にいて 熊本事業場の会議室にいる山岡技師等と青色LD光耐性接着剤の開発についてのTV会議を始めた。


 モニターに 山岡技師の作成した報告資料が映し出され 通信状態の確認が済むと 彼は「それでは会議を始めます。」と言って 資料に沿って報告を始めた。


 報告資料には 3種類の接着剤サンプルの青色LD光連続照射実験結果を 横軸に照射時間を取り 縦軸に405nmの波長の光の透過率を取ったグラフにして示されていた。


 グラフには 前回の100時間照射後の透過率のデータと その後の100時間毎に1000時間までの透過率のデータがプロットされていた。


 1000時間の青色LDの光照射実験の結果 405nmの透過率の減衰が合格ラインの2%以内を保ったのは 新野化学社製のシリコーン系接着剤の1種類のみであった。


 報告の最後に山岡技師は「川緑さん 今回のBD光ピックアップの開発には 既に多額の開発費が投入されています。開発の命運が 1種類の接着剤にかかっているのは怖い話です。」と言った。 


 TV会議の参加者の多くからは 同様の心配の声があがったが 今後の方針打ち合わせでは とりあえず 試験に合格した1つの接着剤が間違いなく青色耐性を有するものかどうかを 今後 N=2の試験サンプルを追加作製して確認試験を行うことになった。


 

 5月18日(火)午前10時20分頃に 熊本事業場の光ディスクドライブ事業部の会議室に BD光ピックアップ開発関係の技術者が集まり 青色LD光耐性接着剤の開発の進捗会議が行われた。


 会議が始まると オプトデバイス開発チームの古澤氏から 前回の青色LD光1000時間照射に耐えたシリコーン系接着剤を用いた N=2の試験サンプルの試験結果が報告された。


 確認試験は 2個の試験サンプルを 80℃の環境で 青色LD光を1000時間連続照射し それぞれ 405nmの光の透過率の測定が行われていた。


 試験の結果 1つの試験サンプルは 透過率の減衰が初期の2%以内で合格であったが もう1つのサンプルは 青色LD光照射500時間あたりから透過率の低下が見られ 600時間では 透過率の減衰が初期の2%を超えて不合格となっていた。


 試験結果を聞いた技術のメンバーの一人は「光集積素子の良品が出来る確率が50%ですかー!」 と言い 青色耐性接着剤の開発の継続に難色を示した。


 また技術のメンバーの一人は「この設計はリスクが大きすぎます。光集積素子の設計を見直して 接着剤に青色LDの光が当たらない構造を検討すべきです。」と言った。


 今後のBD光ピックアップ用光集積素子の方針打ち合わせでは 事業部側は 光集積素子の設計変更を行う方向に舵を取ることとし 保険として 研究所の川緑に青色耐性接着剤の開発の続行を依頼することとなった。



 8月6日(金)午前10時に 川緑は筑紫野市にある福岡県工業技術センターを訪れた。


 彼は 先の試験で 最後に残ったシリコーン系接着剤を用いて 別途 青色LD光照射試験を行ったサンプルを持参しており 工業技術センターの研究設備を借りて その原因を分析することにした。


 今度の試験サンプルは 従来のガラス板2枚を貼り合わせたサンプルとは異なり φ10mm×1mmサイズの臭化カリウム基板2枚を貼り合わせて作製したものであり 80℃の加熱炉中で 1000時間の青色LD光照射試験を行ったものであった。


 試験サンプルは そのφ10mmの基板面の中心付近の約φ0.1mmのエリアに青色LDの集光光が照射されていた。 


 川緑は 光学顕微鏡と顕微FT-IR装置を借りて 試験サンプルの青色LD光が照射されていたエリアの接着剤の状態を観察し分析を行った。


 試験サンプルの観察と分析の結果 青色LD光が照射されたエリアには 多くのφ0.01mmサイズの気泡と 1つの外形0.01mm角の黒い異物が観察され、その異物は有機物ではないことが判った。


 異物周辺の接着剤の黄変から この異物がLD光を吸収して発熱し接着剤を変色させていたことと 接着剤中に気泡が発生したことが 試験サンプルの光の透過率を低下させていたことが判った。



 8月9日(月)午前9時頃に 川緑は 検討中のシリコーン系接着剤のメーカーである新野化学社の福岡営業所の西森課長に電話して 接着剤の改善策の相談を行った。


 相談の1つは シリコーン系接着剤に含まれる揮発性の成分の除去の依頼であった。    

その依頼は 接着剤中の揮発しやすい成分の除去により 試験サンプル中の気泡の発生を防ぐためのものであった。

 

 また相談の1つは 接着剤中に含まれる黒い異物の除去の依頼であった。

その依頼は 接着剤中の異物の除去により 試験サンプルの変色を防止するためのものであった。

 

 川緑の相談を受けた西森課長は「もし 弊社の接着剤が 御社で採用となった場合には その使用量はどれくらいになりますか?」と聞いた。


 「多くても 月に50kg程度です。」との回答に 課長は「私どもの技術の者と相談をしまして 折り返し連絡差し上げます。」と言った。



 翌日に 新野化学社の西森課長から川緑に電話があり 問い合わせへの回答があった。


 課長は 問い合わせのあったシリコーン系接着剤には 川緑の指摘したように 揮発し易い低分子成分と 接着剤を合成するときに添加される黒い色の重合触媒の残渣が含まれていると言った。


 また課長は「揮発成分と触媒の残渣の除去の件は 弊社の技術部が難色を示しておりまして もし どうしてもとのご要望であれば 専用設備が必要となりますので 接着剤の価格が100倍くらいになります。」と言った。 


 川緑は 西森課長に「この件は事業部と相談しまして 別途 連絡差し上げます。」と伝えて電話を切ったが 同時に 100倍の価格になると 事業部が手を引くのは間違いないと思った。

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