第21話 引継ぎ
工場見学 / 量産ラインの立ち上げ
2002年2月4日(月)午前7時頃に 川緑は出社すると 直ぐに新設された0603チップインダクタの量産ラインを見に行った。
昨日の夜に 川緑は 単身赴任寮の風呂に入っていたが まだ鼻に残る鹿の血の匂いを気にしながらラインの稼働状況を確認した。
量産ラインは 従来のラボラインと横並びに併設されており それらの違いの1つは 工程でバッチ処理される数量であり また 違いの1つは 搬送系であった。
1バッチ処理数量は ラボラインでは16個の素子を固定した櫛状の治具を5枚単位で処理していたが 量産ラインでは20個の素子を固定した櫛状の治具を10枚単位で処理できる設計となっていた。
搬送系は ラボラインでは作業者が工程間をハンドキャリーしていたが 量産ラインでは自動搬送システムが取り入れられていた。
製造スタッフ等は それぞれの工程にある作業台の上に立ち それぞれの作業を行っていた。
彼等の作業は ラボラインでの作業に比べると 動きに無駄がなくなり その分だけ 作業ミスも少なくなっていた。
3月15日(金)午前9時頃に 宮杉社へ杉下電気社から営業部門の課長等十数人が来社した。
彼等は 宮杉社の0603チップインダクタの商品認定の可否を判断するための審査にきていた。
宮杉社は 自社製品を販売する際に 杉下電気社の販売ルートを通す場合は 杉下電気社の商品認定が必要であり 杉下電気社へ認定のための審査を依頼していた。
杉下電気社のグループ会社の中で 0603チップインダクタを開発していたのは 宮杉社の他に豊岡杉下電気社があった。
豊岡杉下社は 杉下電気社の直轄の事業場であり 杉下電気社の関係者は 昨日に先方の工場を訪問し 開発品の仕上がり状況を確認していた。
この日の午前中に 杉下電気社の訪問者等は コイルBTの小幡リーダー等と 別件を含めた販売会議を行ない その後 0603チップインダクタ量産ラインの見学が予定されていた。
午前11時45分頃に 訪問者等はコイルBTの小幡リーダー等に引率されて 0603チップインダクタ量産ラインの建屋へ入ってきた。
ラインで待機していたコイルBTの州崎技師と川緑は 挨拶すると 彼等を 0603チップインダクタの量産ラインの最初の工程へ案内した。
二人は 最初の工程で 彼等に 素子を櫛状の冶具に挟む作業の説明を行い そこから ラインの流れに沿って 彼等を案内しながら それぞれの工程での作業の説明を行った。
ラインでの作業の説明が終わると 小幡リーダーは 彼等を ラインの横の検査台のところへ誘導し そこに置かれた2つの顕微鏡のそれぞれにセットされた完成品を見せた。
彼等は 交代で顕微鏡を覗くと 口々に「うわー!綺麗だ!」と言った。
顕微鏡の視野の中には 数十個の完成品が置かれており それらはシャープな直方体の形状をしていて 端子の銀色のメッキ部分と 中央の黒色の絶縁塗料部分との境界線が直線に仕上がっていた。
彼等は 昨日 豊岡杉下電気社の0603チップインダクタ開発品を見てきていたので 彼等の発した感嘆の声は それと比較してのものだと思われた。
工場見学が終わり 訪問客等がラインを離れていく時に 小幡リーダーは 州崎技師と川緑に「これから 彼等と食事することになっているんだが その時に うちらの気持ちを伝えてくるよ。」と言った。
小幡リーダーの「うちらの気持ち」とは 宮杉社が新商品に社運をかけていることと そのために杉下電気社の商品認定の承認を得たいという希望であった。
3月23日(土)午後4時頃に 古田班長は単身赴任寮に川緑を車で迎えに来た。
古田班長は 川緑を車に乗せて佐土原駅へ向かい そこで池本技師を拾うと 近くのスーパーでビールと焼酎を買い出し 目的地の松風亭へ向かった。
この日に松風亭で 0603チップインダクタ関係者等による川緑の送別会が予定されていた。
会場は 8メートル四方の和室であり 長テーブルが壁に沿って四角く囲むように配置されていた。
会場に集まったのは 製造部の宮野課長と古田班長等12名と コイルBTの州崎技師等5名と 開発チームの池本技師と 生産技術部の辻本さんと川緑の合計20名であった。
川緑が主賓席へ着くと 古田班長が立ち上がり「それでは これより送別会を始めます。小幡リーダーは大阪出張で参加できませんが 彼から飲み物の差し入れがありました。」と言った。
班長に代わり 宮野課長が立ち上がると「この度は 研究所の川緑さんのご協力を頂き 新商品の量産化にこぎつけることができました。 一同に代わり お礼を申し上げますと供に ささやかですが送別の会を設けまして ご苦労をねぎらいたいと思います。」と言った。
彼は「今後は 新商品を武器に事業拡大を図りましょう!」と決意表明を行った。
課長の挨拶が終わると 古田班長は 川緑の横に来て「これは 皆からです。」と言って 記念品と書かれた箱に入った黒色の万年筆とボールペンを手渡した。
続いて池本技師が立ち上がり「皆さん ビールは行き渡りましたでしょうか。乾杯!」と言った。
飲食が始まって暫くすると 古田班長は 川緑のところへやって来て 挨拶をするようにと勧めた。
川緑は 立ち上がって一礼し「この度は このような場を設けて頂き有難うございます。」と言った。
彼は「今回の0603チップインダクタの量産立ち上げは 当初なかなか物ができず うまくいかないことが多くありました。 それでも 皆さんは 何とかいいものを作ろうとしてくれたので 元気づけられました。有難うございました。」とお礼を述べた。
その後 川緑は 酒を持って会場を回りながら一人ひとりにお礼の言葉を述べた。
よくまとめたな / 量産支援の完遂
3月28日(木)午前9時頃に 技術棟二階の開発チームの居室で 身の回りのものを片付けていた川緑に 生産技術部の坂下技師から電子メールが届いた。
メールには 今回の0603チップインダクタのラインは 川緑が居なければ立ち上がらなかったこと、ラインの立ち上げの時に 川緑にきつく当たって申し訳なかったことと、今後もよろしくお願いしますとの内容が丁寧な文面で書かれていた。
この日の午後2時頃に 技術部の会議室で 川緑は 勝田技術部長とコイルBTの小幡リーダーへ 0603チップインダクタ開発に関する技術引継ぎ会議を行った。
川緑は 用意してきた技術引継ぎ書を提出し その内容の説明を行った。
引継ぎ書は次の12項目で構成されていた。
1.検討経緯 / 開発の背景と目的及び検討経緯と検討結果について
2.検討材料 / 開発に用いた樹脂材料の組成や化学変化について
3.ライン / 時系列のラインの改善と構成状況について
4.改善内容 / 良品歩留まり改善に効果のあった要因と 実験内容について
5.材料の管理方法 / ラインで用いる材料の可否判断のための分析方法について
6.材料の受け入れ / 材料受け入れ時の検査方法について
7.トラブルシュート / ライントラブル発生時の原因と対策について
8.契約書 / 開発支援確認書について
9.知財 / 特許出願内容について
10.報告書 / 月次報告書類について
11.打ち合わせ議事録 / 進捗打ち合わせ議事録について
12.今後の課題 / 材料及び設備に関する残課題について
報告が終わると 川緑は 勝田部長と 小幡リーダーに 技術引き継ぎ書への押印を依頼した。
小幡リーダーは「川緑さん 私どもの期待に答えて頂き ありがとうございました。今後は事業拡大を目指していきます。」と言った。
勝田部長は「ご苦労さん。よくまとめたな。技術部長の印は 私の方からもらっておくよ。」と言った。
部長は「1つ頼みがあるんだがね。今回の君達の検討内容を A3用紙1枚に 一目で分かるようにまとめてくれんかね。」と追加の注文をした。
「どのようなまとめをイメージされてますか。」と川緑が聞くと 彼は「君達のやったことを 時系列で分かるように 取り組み前と後で何がどう変わったかをまとめてもらいたい。」と言った。
川緑は 分厚いキングファイルに閉じられた技術引継ぎ書を見ながら それを渡された担当者は その内容を理解するのは大変だろうと思うと 勝田部長の注文は もっともな要求だと思った 。
開発経過を示すA3用紙1枚の資料があれば 担当者は 現在のラインが どのような経緯で成り立っているのかを理解しやすいだろうと思えた。
3月29日(金)の量産支援委託契約の最終日は 朝から強い雨が降っていた。
午前7時に出社した川緑は 開発チームに借りていた事務机の片付けや周りの掃除を行った。
昼には 厚生棟の会議室で 松藤事業部長との昼食会が予定されていた。
川緑は 案内のあった会議室に入ると テーブルに 大きい重箱と吸い物のお椀が用意されていた。
間もなく 松藤事業部長と人事チームの泉田リーダーが会議室にやってきた。
60歳くらい、中背、ふっくら体型の事業部長は 川緑に笑顔で「いやあ お世話になったね。」といった。
事業部長と直接対面するのは 川緑には初めてのことであり 初対面の人と話をしながら食事をするのは 川緑には馴染めないものであった。
事業部長は「君のところの米岡社長に 君を宮杉社にくれるように言ったが 断られたよ。」と言った。
川緑は「恐れ入ります。私は 今回の開発案件をご依頼頂き これに対応しておりますうちに 次に何をすべきか見えてきました。 またお世話になります。」と伝えた。
今回の0603チップインダクタの新工法の開発は 電着UVレジストや電着塗料が 微小な電子部品の製造に有効な手段であることを立証したものと思われた。
同時に 今後のモバイル機器の動向を背景とした電子部品のトレンドが「軽薄短小」であるなら それらの電子部品をより良い品質に より生産性の高い製法で作るためには 今後 それに適した新しい樹脂材料の開発が必要だと思われた。
昼食会が終わると 川緑は これまでお世話になった人たちの所をまわった。
0603チップインダクタのラインへ行くと 川緑は 作業中の製造のメンバーへ「お世話になりました。」と言って頭を下げた。
製造課の下津さんは「今度 川緑さんが来るときには 100万個を作ってますよ。」と言った。
川緑は 佐方さんを見つけると 名刺に自宅の電話番号を書いて渡し「福岡に行かれるときは ぜひ連絡してください。」と伝えた。
生産技術部の居室へ行き「たいへんお世話になりました。」と言うと 振り向いた吉沢部長が「外は涙雨やね。 どうせ また すぐ来るやろ。」と言った。
開発チームの居室に戻った川緑は 生産技術部で会えなかった坂下技師に お礼のEメールを送ると ノートパソコンの電源を落とした。
川緑は ノートパソコンをバッグにしまうと 技術棟を出て 迎えに来ていたタクシーに乗ると宮杉社を後にした。
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