第19話 ラインの増設
歩留まり改善 / 製造条件
2001年12月17日(月)午前7時30分頃に 川緑は 0603チップインダクタのラボラインに入った。
川緑はC勤務の製造スタッフに「おはようございます。試作の出来はどうでしたか?」と聞くと彼等は「いまひとつやわー。」と言った。
川緑jはラボラインの隅へ行くと 机の上に置かれた製造日誌と試作台帳に目を通した。
製造日誌には 昨日からのラボラインの状況に変化の記載は無く 試作台帳には 試作品の良品歩留まりがやや低下していたことが記録されていた。
川緑は ラボラインの状況について 比較的安定した状態にあるが 現状の試作品の良品歩留まりでは 量産化は難しく これまでとは違う対策が必要だと感じた。
この日の午後2時に コイルBTの会議室で 0603チップインダクタ開発関係のメンバーが集まり 定例の歩留まり対策会議が開かれた。
コイルBTの浦崎主任技師と製造部の古田班長と開発チームの池本技師等は 開発品の量産化の判断期限が迫る中 良品歩留まりの改善が見られない現状に 一様に暗い表情をしていた。
会議が始まると直ぐに 川緑は「一つ試したいことがあります。」と発言した。
川緑は「試作品の歩留まりの低下は 電着UVレジストの硬化不足に原因があるかもしれません。」と言い「もしかしたら 電着前の硫酸活性処理が影響しているのかもしれません。」と言った。
川緑は「そこで 一度 硫酸活性処理を止めて 試作状況を確認したいのですが。」と提案した。
硫酸活性処理は 電着UVレジストの電着前の工程に設けられたものであり 素子の銅メッキ表面をクリーニングするための処理であった。
硫酸活性処理は 櫛状の治具に固定した素子を硫酸水溶液中に浸漬、揺動する工程と 次に純水中に浸漬、揺動する洗浄工程と その後に 水切りして乾燥する工程でからなっていた。
川緑は 硫酸活性処理工程で 素子表面に付着した硫酸水溶液が 純水洗浄後にも ごく僅かに残存しているかもしれないと考えた。
特に コイル形状の銅メッキの溝の部分に硫酸水溶液が残存していれば 乾燥時に 残った硫酸は 純水の揮発に伴い濃縮され 素子の表面に僅かに局在するはずだと考えた。
そう考えると 後工程で電着されたUVレジストは この強酸に接触する部分が酸化されてしまい その後の硬化が不十分となり UV露光時に正常に反応しないことが推測された。
硫酸活性処理を止めて見ようという川緑の提案は この仮説が正しいものかどうかを確認するものであった。
川緑の提案に反応した古田班長は「直ぐやってみましょうや!」と言い 会議の参加者等も同意した。
12月19日(水)午前7時30分頃に 川緑は 0603チップインダクタのラボラインへ行き 古田班長を見つけると「どうですか?」と 最近の試作の状況を聞いた。
振り向いた古田班長は笑顔で「いい感じじゃわー!」と答えた。
彼は 一昨日のC勤務から 0603チップインダクタの生産工程の中で硫酸活性処理を外しており それ以来 試作は順調に流れており 良品歩留まりは95%くらいに跳ね上がったと言った。
また彼は 電着UVレジスト浴の1バッチで処理できる素子の数が これまでの数量の2倍から3倍に増加したと言った。
最近の試作の結果は 硫酸活性処理により素子の表面に残存する僅かな硫酸が 電着UVレジストの硬化に影響を与えるという仮説が正しかったことを示していた。
また これまでは 素子に付着した硫酸が電着浴のUVレジストを劣化させており 硫酸活性処理を除いたことにより 電着処理できる素子の数量も大幅に増加できたことも示していた。
古田班長の話を聞いた後に 川緑は ラボラインで作業をするA勤務の3名のスタッフの作業を見ると 彼等は これまでと比べて坦々と作業を行っているように見えた。
数日前までは 製造スタッフは いつ起きるか分らない不良品の発生を見逃さないように 必要以上に気を使って 試作品の仕上がり状態を顕微鏡観察していた様に見えていた。
この日の製造スタッフは 決められた手順で 決められた作業を 坦々とこなしているように見えた。
スタッフの作業の様子を見ていた川緑は 0603チップインダクタのラボラインの立ち上げは峠を超えて 今後は量産化に移行できる確信した。
この日の午後に 関係者がコイルBTの会議室に集まり 0603チップインダクタの製造工程の変更が議論された。
これまでの試作結果から 硫酸活性処理による良品歩留まりの低下が確認されたが 硫酸活性処理は素子のメッキ面の洗浄が目的であり 必要な工程であった。
会議では 今後 硫酸活性処理工程の後にアルカリ中和処理工程を導入することが決められた。
新商品に社運をかける / 設備投資
12月21日(金)の午前10時に 技術棟の会議室に 0603チップインダクタ関連部署の責任者等が集まり 開発品の今後の方針を打ち合わせる会議が開かれた。
参加者は 松藤事業部長と技術部の勝田部長と生産技術部の吉沢部長と製造部の前崎部長と品質管理部の竹川部長とコイルBTの小掘リーダー等であった。
会議が始まると それぞれの部署のリーダーから 0603チップインダクタ開発品の量産化のための判断材料が報告された。
彼等は 開発品を量産化した場合の需要見込や 需要に応じた設備投資額と生産コストや 競合他社の開発状況等が報告された。
チップインダクタの需要見込は 現在の主力製品の1005サイズのチップインダクタの市場での需要動向から 将来 月に400万個に達すると推測された。
この数量の0603チップインダクタの生産を行うには 現状のラボラインを単に増設するだけでは対応できず 更に生産能力の高い量産ラインの新設と生産性の向上が必要となった。
新設する量産ラインの生産性の向上のためには ラインの搬送系の自動化が必要となり それには多額の設備投資が必要となった。
各部署からの報告が終わると 開発品の量産化の可否について 議論が行われたが それには賛否両論の意見が上がった。
量産化の可否判断は 現在の宮杉社の経営状況からすると どちらを選択したとしても それは とても重たい判断になるものであった。
この日の会議では 責任者等により 開発品の量産化の可否判断が下されることはなかった。
12月28日(金)は 宮杉社の勤務の最終日であり 川緑は 昨日に続き 0603チップインダクタのラボラインの片付けと掃除を行っていた。
宮杉社の責任者等は 今週始めに 0603チップインダクタの量産化を決定していた。
量産化の決定を受けて 製造現場では ラボラインを脇へ移動し 新設の量産ラインを設置するためのスペースの確保が進められていた。
川緑は 製造部のスタッフがラボラインを移動した後のスペースに ほうきとちりとりをもって入り掃除をしていた。
彼は 掃除をしながら 先日のテレビのニュースで流れていたスクープ報道のことを思い出していた。
数日前に テレビでは 杉下電気社が 関連する5つの系列会社を完全子会社化するという情報が流れていた。
九杉社は 独自に株式を上場する独立採算経営の企業であるが テレビの報道によると 今後は杉下電気社に吸収合併されることが報じられていた。
宮杉社は 九杉社の子会社であり 九杉社が杉下電気社の子会社になることが 宮杉社の存続にどのように影響するのかが 社内でうわさされていた。
その様な状況の中で 宮杉社は 社運をかけて0603チップインダクタの量産ラインの新設を決めていた。
宮杉社の責任者等は 大型の設備投資を行っており この正月の休みを利用して量産ラインを立ち上げる計画が組まれていた。
川緑は 掃除をしながら 今回の宮杉社の責任者等の判断を振り返っていた。
彼等は 会社経営が苦しく 先行きが不透明な中 開発品を手にしたことで 座して天命を待つより 打って出て商機を掴むことに賭けたものと思われた。
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