第17話 大量サンプル依頼

   対立する意見 / ラインの増設

   

 2001年11月16日(金)午前9時に 生産技術部内で 0603チップインダクタの増産のためのラボラインの増設について その可否を検討する会議が開かれた。


 先日の町畑製作所社からの0603チップインダクタ 40万個の注文を受ける場合には ラインの増設が必須条件であったが 会議では それが実現可能なものかどうかを議論された。


 会議では 増設する2号ラボラインの仕様は 1号ラボラインと同じものにすることが取り決められた。


 同じラインを増設する理由は 町畑製作所社からの注文納期に答えるために 既に図面等が上がっている設備を 直ぐに発注できるからであった。


 同時に会議では 注文納期に答えるために ラボラインの工数の見直しも検討された。


 生産技術部での会議の結論は 直ぐに 宮杉社の幹部等に上がり 彼等は 2号ラボラインの増設を即決し 生産技術部に設備の発注を指示した。



 午後1時頃に ラボラインで作業していた川緑の所へ 生産技術部の坂下技師がやってきた。


 彼は「ラボラインの工数見直しの会議で決まったんですが 今後は電着UVレジストの乾燥時間と露光時間を現行の条件の半分にします。」と言った。


 ラボラインの電着UVレジストを用いる工程には 電着塗装工程と 乾燥工程と UV露光工程と 現像工程とがあった。


 乾燥工程は 櫛状の冶具に固定した0603チップインダクタ加工品を 乾燥機を用いて 所定の温度で所定の時間だけ乾燥し 水分を除去するものであった。

 

 UV露光工程は ケイトウ電機社製の500Wハロゲンランプを光源とする並行露光機と 遮光マスクを用いて 加工品の所定の部分を所定条件でUV露光するものあった。


 電着UVレジストは ポジ型と呼ばれるタイプであり UV光が当たると レジストの一部が化学反応を起こして構造が変わり その後の水現像工程で 溶解するものであった。


 坂下技師によると「乾燥時間と露光時間を半分にする」ことは 0603チップインダクタの注文納期に対応するために 2つのラボラインの工数見直しを行った結果 得られた結論であった。



 彼の話を聞いて驚いた川緑は「そんなことをしたら ラボラインの歩留まりはとんでもないことになります。」と強く反対した。


 川緑が反対したのは 1号ラボラインの現行の製造条件は いろいろな基礎実験を基に決めてきたものであり 特に 電着UVレジストの露光条件は その硬化状態と機械的強度に着目して決めてきたからであった。


 すると坂下技師は「今回の工数見直しの件は うちら担当者の判断レベルを超えてます。これをどうするかは 決定権のある人に決めてもらわんといけません。」と言った。


 

 これまでにも川緑は 別件で樹脂材料の開発や量産の機会に 工場や事業部の関係者と製造工数について議論したり あるいは口論になったりすることはよくあった。


 事業部では開発品を量産品へと移行する時に まず その商品を生産することにより儲かる金額をいろいろな角度から計算するのが常であった。


 例えば 商品を作るために必要な材料費や労務費や製造経費を吟味し 1円でも儲かるような製造工程の検討が行われた。


 製造工程の中でも 作業者の作業時間がカウントされるタクトタイムは 商品の単価だけでなく 生産性にも大きく影響する要因であり 製造工程を決める時に できるだけタクトタイムを削減しようとすることは常套手段であった。


 そして 恐ろしいことに 事業部では 商品の生産コストの安いことが 商品の品質よりも優先すると考えているように思わせる言動がよく見られた。


 そのような事業部サイドの判断の結果 後に 出荷した製品が市場で不良によるトラブルを発生し トラブル対応に追われ 大きなロスコストを発生させてしまうことは良くあるケースであった。


 坂下技師がラボラインを出て行くと 川緑は 彼が言った「ラボラインの工数見直し」の件は 何としても止めなければこのプロジェクトは失敗すると思った。


 同時に 川緑は 彼等を止めるために何をしたら良いかを考えないといけないと思った。



   鹿肉食べませんか? / 硬化状態の数値化


 11月21日(水)午前7時頃に 川緑は ラボラインで作業をしていた製造部のスタッフに頼んで 06903チップインダクタの実験用サンプルを試作してもらっていた。


 彼等に依頼した実験用サンプルは 電着UVレジストの電着後の乾燥時間と UV露光時間を変えて作製したものであった。


  坂下技師から聞いた「ラボラインの工数見直し」の話に危機感を覚えた川緑は それを止めるために もしそうしたらどうなるのかを 実験データを出して示そうとしていた。



 川緑は それぞれの工程で上がった実験サンプルを ピンセットでサンプル袋に集めていると 製造部の佐方さんがやって来た。


 川緑は 昨夜も 佐方さんからもらった自家製の漢方薬を飲んでおり 彼を見つけると「おはようございます。」と声を掛けた。


 佐方さんは「おはようございます。川緑さん 鹿肉を食べませんか?」と言った。


 佐方さんは 11月15日に狩猟が解禁となって この休日に 彼は狩猟チームのメンバーと山へ猟に行き 収獲があったと言った。


 彼の言葉に 緊張がほぐれた川緑は 笑顔になり「はい ぜひ お願いします。」と答えた。


 佐方さんは「午後7時に 会社の駐車場に迎えにきますから。」と言うとラボラインを出て行った。



 この日の午前10時に 開発チームの池本技師と川緑は 会社の社用車を借りると そこから5分程の距離にある宮崎県工業技術センターを訪れた。


 彼等は 工業技術センターに着くと 受付の窓口で 担当の若い女性に センターが保有する分析装置を予約していたことを伝えた。


 暫くすると 分析担当の中年の女性が現れ 2人を 建物の3階にある実験室へと案内した。


 実験室には 幾つかの分析装置が置かれており 彼女は 1つの装置の所へ来ると「お問い合わせのありました顕微FT-IR装置はこちらです。」と言った。


 彼女は 2人に装置の簡易マニュアルを手渡すと「では 終わりましたら内線電話でお知らせください。」と言って退室して行った。


 池本技師と川緑は 顕微FT-IR装置を使って ラボラインで作製した実験サンプルの分析を行った。


 彼等は 実験サンプルの表面に塗着した電着UVレジストについて 乾燥条件を変えた時の硬化状態の変化や とUV露光条件を変えた時の状態の変化を分析した。


 その後 分析結果と川緑の硬化の理論を基に 電着UVレジストの状態の変化を数値化した。



 午後にラボラインへ戻ると 彼等は 分析したサンプルを 櫛状冶具に固定し 製造部のスタッフに頼んで後工程に流し 仕上がりの評価を行った。


 評価の結果は 予想通りに 電着UVレジストの乾燥時間やUV露光時間を短くすると 仕上がりが悪くなった。


 彼等は 電着UVレジストの乾燥時間やUV露光時間と レジストの硬化度との関係をまとめ また レジストの硬化度と仕上がりとの関係をまとめて報告書を作成した。

   

 報告書作成の目的は 0603チップインダクタの製造規格に 電着UVレジストの硬化状態を数値化して落とし込むことであり このことにより品質を確保し 行き過ぎた工数削減を防ぐことであった。


 報告書の作成が終わると 川緑は 0603チップインダクタの量産化の動きが止まらなくなったと感じ 何としても良品歩留まり改善を達成しないといけないと思った。



 この日の仕事が終わると 川緑は 会社に隣接する駐車場へ向かった。


 駐車場に入って周りを見回していると 近くに停めてあった車から出てきた佐方さんは「いやあ お疲れさんでした。」と声を掛けた。


 車の助手席に座った川緑に 佐方さんは 後ろのシートから 紙の袋を取り出して手渡し「これを食べてみてください。}と言った。


 受け取った袋には アルミホイルに包まれた鹿肉の味噌和えが入っていた。


 川緑は「うわあ 新鮮な肉ですね。ありがとうございます。いただきます。」とお礼を言った。

佐方さんは「知らないところで 病気になると大変ですから。」と言った。


 佐方さんは 以前に 他県の工場へ長期間の製造応援に行ったことと そこで体調を壊して苦しい思いをしたことを話してくれた。



 単身赴任寮へ車で送ってもらった川緑は 佐方さんにお礼を述べて 彼を見送ると 食堂へ向かった。


 食堂に入り もらった袋を開けると 中には アルミホイルに包まれた 手のひらサイズの薄くスライスされた鹿肉の味噌和えが入っていた。


 川緑は 佐方さんに言われたように アルミホイルのまま 鹿肉をオーブンで焼いた。


 オーブンから取り出した鹿肉を食べると それは川緑の予想とは異なるものであった。


 川緑は以前に「鹿肉や馬肉は焼くと硬くなる」と聞いていたが それは程よい弾力と品の良いうまみがあり 味噌の尼辛味と合わさってとても美味しかった。


 川緑は ご馳走を頂いていると思うのと同時に 体に力がついてくるような感覚を受けた。

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