第16話 歩留まり

   でくっとですよね! / ばらつく歩留まり

   

 2001年10月31日(水)午後1時頃に 川緑は ラボラインで 町畑製作所向け0603チップインダクタ サンプルの試作状況を観察しながら 良品歩留まりの変化をチェックしていた。


 サンプル試作のために 歩留まり改善検討は中断されていたが 連日 ラボラインで大量の試作サンプルを流したことにより 良品歩留まりの変動のパターンが見えてきた。


 ラボラインでは 電着UVレジストと絶縁塗装用電着塗料のそれぞれの電着浴の運用は 所定のサンプル数量を投入した時に それぞれの電着浴の入れ替えを行うことにより管理していた。


 電着浴の入れ替え時期は サンプルの投入数量により消費されるレジストや塗料の推測量を基に暫定的に決められていた。


 電着浴に投入するサンプル数量が所定の数に達する前に サンプルの仕上がりが悪くなった場合は その時点で電着浴の入れ替えを行っていた。


 電着浴の入れ替えを行った直後は 試作サンプルの良品歩留まりは改善する傾向が見られた。


 電着浴の入れ替えと良品歩留まりの変化を観察していた川緑は それらの関係が それぞれの電着浴の状態変化に依存するものだろうと思った。


 彼は 電着浴の状態変化が 電着UVレジストや電着塗料のその後の乾燥工程で それぞれの硬化状態に影響しているのではないかと考えた。


 そう考えると 川緑は これらの樹脂材料が正常な硬化状態になり 本来持っている強靭さと柔軟性を発揮できれば きっと良品歩留まりは改善されて 安定したモノづくりが可能になると思った。



 川緑がそのようなことを考えているところへ 製造部の古田班長がやってきた。


 彼は真っ直ぐ川緑の所へ来ると「0603チップインダクタは でくっとですよね?」と聞いた。 


 彼の表情は いつもと変わらず落ち着いたものだったが その目には真剣な雰囲気が感じられた。


 当初の計画では 11月に0603チップインダクタの量産設備を導入する予定であったが 町畑製作所社向けのサンプル対応に追われて 計画に遅延が生じていた。


 古田班長は 開発品の量産への移行が出来るのかどうかを川緑に確認していた。


 川緑は自分自身に「この開発品の設計思想は正しい。 設計思想が正しいのなら樹脂材料が本来持っている強靭さと柔軟性を引き出せば 必ず量産はできる!」と言い聞かせた。


 川緑は そう言い聞かせると 古田班長に「出来ますよ。」と答えた。



 11月7日(水)午前8時30分に宮杉社の食堂で 全社員が集まり朝会が開かれた。


 食堂に入ると いつも設置されていたテーブルと椅子は 折りたたまれ 食堂の端に片付けられており 先に入った社員等は 空いたスペースに立ち並んでいた。


 朝会が始まると 品質管理部の竹川部長は 食堂のステージに設けられた壇上に立ち 宮杉社の経営概況について話を始めた。


 部長は 今の経営状態が続くと 債務超過に陥ってしまい そうなれば親会社の九杉社からの出資が打ち切られてしまい そうなれば来年の4月には会社の門が閉ざされてしまうと言った。


 部長の話が終わると散会となり 集まった社員等は それぞれの職場に戻り始めた。

彼等は皆 少し前かがみの姿勢で歩き 重苦しい表情をしていた。



 午後2時頃に ラボラインにいた川緑は 急に頭がふらふらして 目の焦点が合わなくなくなった。


 川緑は 製造のスタッフに断りを入れて 会社の保健室へ行くと 保健婦さんに見てもらった。

「少し疲れているようです。暫くそこで休んで様子を見ましょう。」と言われた川緑はベッドに横になった。


 午後4時頃に 頭のふらつきが治まり ラボラインへ行くと そこにいた古田班長は 川緑を見るなり 「顔の色がない。大丈夫ね?」と聞いた。


 川緑は 古田班長等に「大丈夫です。でも ちょっと頭がぼんやりしてるので 今日は帰ります。」と言って退社した。



   漢方薬やりませんか? / 体調を壊す


 翌11月8日(木)午前7時頃に出社した川緑は ラボラインへ向かっていると 製造部の佐方さんが声をかけてきた。


 佐方さんは 50歳台前半、中背で細身で 話をする時に温和な表情を見せる人であった。


 彼は「川緑さん 体調を壊したって聞いたんですが 漢方薬をやりませんか?」と言った。 


 「はあ?」と言った後 川緑は どう答えたらよいか分からずにいた。


 すると 佐方さんは 彼が鉄砲撃ちをやっていて 山に行ったときに 薬草を取ってきて 自家製の漢方薬を作っていると教えてくれた。


 川緑は「ありがとうございます。いただきます。」と言って受け取った漢方薬は 五合の酒瓶に入った茶色の液体だった。



 漢方薬を持ってラボラインに入ると 開発チームの池本技師が疲れた顔をして立っていた。


 「何かあったんですか?」と聞くと 彼は「昨夜は ラボラインが安定しなくて 徹夜になりました。」と言い 電着浴の入れ替え等 いろいろの対策を講じたが 歩留まりは改善しなかったと言った。 


 川緑は 彼に 今日は帰って休むように言ったが 彼が退社したのは 午後だった。



 11月9日(金)午前5時に単身赴任寮の自室で目覚めた川緑は 鼻の奥に違和感を感じて 鼻をかむと鼻血が出ていた。


 夜寝ている間に鼻から出血したようで 彼が起きた時にはすでに出血は止まっていた。

起き上がると 川緑は なんだか疲れが取れている感じがした。


 昨夜 寝る前に 川緑は 佐方さんにもらった自家製の漢方薬を飲んでいた。


 佐方さんは「寝る前に おちょこ一杯分だけ飲んでください。それ以上飲むと鼻血がでます。」と言っていたので 川緑は おちょこに一杯分だけ飲んでいた。



 出社した川緑は 会社で佐方さんを見つけて 漢方薬が効いたことを伝えてお礼の言葉を述べた。 


 佐方さんは おちょこ一杯で鼻血を出したことに「若いからですね。」と言った。 


 「あの漢方薬には 何が入っているんですか?」と川緑が聞くと 彼は「2種類の動物と 2種類の植物が入っています。」と謎めいた回答をした。



  11月12日(月)午後4時頃 川緑と開発チームの池本技師は ラボラインでの0603チップインダクタの試作状況を見守っていた。


 先週までに 彼等が行った幾つかの歩留まり改善策が功を奏して この日の試作は 良品歩留まり90%程で 順調に進んでいた。


 歩留まり改善策の1つは 電着UVレジストをUV露光した後の水現像工程へのシャワー洗浄装置の導入であった。


 それまでの水現像工程では 加工品を櫛状の冶具に保持したまま 水洗浴に浸漬し遥動させることによりレジストを溶解現像していた。


 しかし 先の町畑製作所向けのサンプル試作時に 良品歩留まりを低下させる要因の1つに 水現像不良による素子へのレジスト残りが見られた。


 そこで 川緑は 生産技術の辻本氏に頼んで 水滴を微粒化して噴霧できるシャワー洗浄装置の導入を依頼していた。


 シャワー洗浄装置は 0603チップインダクタ加工品のコイル部分の溝の中に付着したレジストを残らず除くためであった。



 また 歩留まり改善策の1つは 電着UVレジストと電着塗料の状態変化を分析し それぞれの使用限界を見極めることであった。


 それぞれの樹脂材料は 電着作業を繰り返すことにより 徐々に 成分量や液特性が変化して あるところで良品を作ることができなくなった。


 それまでは ラインを流しながら 不良品が発生した時点で それぞれの樹脂材料を入れ替えていたが それぞれの樹脂材料の状態変化を分析することにより 不良品が発生する前に 樹脂材料を入れ替えることにした。


 これらの対策により ラボラインは 以前に比較して 安定して流れるようになっていた。


 それでも 更に良品歩留まりを上げないと 今後の0603チップインダクタの量産化は厳しいものになることが予想された。


 量産時に 10%の不良品が発生するなら 量産になったときに発生する不良品数は膨大なものとなり それを選別するだけでも大変な作業になるからであった。



 ラボラインを見ながら 更なる歩留まり対策を考えていた川緑に コイルBTの浦崎主任技師から電話があった。


 彼は 町畑製作所社から 正月明け納期で 0603チップインダクタ40万個の注文が入ると言った。


 今回の注文量は 現状のラボラインの生産能力からすると とても納期対応できるものではなかった。

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