第14話 基礎研究

   設計思想の検証 / 硬化の理論

   

 2001年9月6日(木)午前7時に 川緑は単身赴任寮を出ると 合羽を着て自転車に乗り 大雨の中を宮杉社へ向かった。


 宮崎県は 日本で一番日照時間が長い県であり 降雨量が少ないと聞いていたが 連日の雨に見舞われていた。



 この日の午後に 技術棟の会議室で 技術部の責任者等への 0603チップインダクタ開発の進捗報告会議が開かれた。


 会議は 毎週木曜日に開かれており この日は 責任者等による 0603チップインダクタの開発継続のGO/NOが判断されることになっていた。


 開発が継続される場合は 現状のラボラインを拡大して  0603チップインダクタの試作数量を増加することが計画されていた。


 川緑は 用意していた報告資料を会議の参加者に配布し この2週間のラボラインでの開発経過と良品歩留まりの推移と 今後の歩留まり改善の見通しについて報告を行った。 


 彼は 報告の中で 開発品の良品歩留まりが 30%から60%の間で変動していることと 歩留まりの変動に影響する要因は まだ掴めていないことを述べた。


 また 彼は 歩留まりの変動は 各工程での試作サンプルの状態を分析することにより 改善が可能であることを述べた。


 大柄で、ふっくら体型、丸顔で いつもは温厚な表情の 生産技術部の吉沢部長は 川緑の報告が終わると口を開いた。


 彼は 強い口調で「0603は この開発を続行する。それぞれの部署で 今後の開発に必要な設備と部材を確保するように!」と指示した。


 勿論 現時点で 開発を中止するという選択肢は その場の雰囲気からしてもありえなかった。



 9月11日(火)に 川緑と開発チームの池本技師は 0603チップインダクタのラボラインで 歩留まり改善の取り組みを行っていた。


 彼等は 以前に行ったモデル実験の結果を基にして 条件を変えながらチップインダクタを試作を進めた。


 モデル実験は 実際の試作に用いる素子の代わりに銅板を用いて行った実験であり 電着UVレジストの電着条件と乾燥条件を変えた試験板を作製し評価し その後 レジストの硬化状態を分析していた。


 レジストの硬化状態の分析は 赤外分光分析装置を用いて 反射モードで行い レジストの硬化反応に関わる官能基の赤外線の吸収強度の変化を数値化していた。


 数値化したレジストの硬化状態と 川緑の硬化の理論を基に 電着条件と乾燥条件をパラメーターとして レジストの硬化状態をシミュレーションしていた。


 彼等は シミュレーション結果を基に 電着UVレジストの電着条件と乾燥条件を変えながら0603チップインダクタの試作を行っていた。


 チップインダクタの試作は 1つの電着条件と乾燥条件で作製した電着UVレジストサンプルについて その後 UV照射機を用いたマスク露光、水洗浴での現像 アルカリ水溶液浴での剥離までの一連の加工実験を行った。 


 川緑達は 一連の加工実験を終えると それぞれの工程からサンプリングした0603チップインダクタの試作品を顕微鏡で観察し仕上がりを評価した。


 シミュレーション結果と 0603チップインダクタの試作結果とを比較しながら 川緑は この新工法の設計思想は間違ってはいないと感じた。

 

 

 この日の午後10時頃に 単身赴任寮に戻った川緑は 食堂へ行くと 厨房の棚に置かれた夕食を取り出し テーブルについて テレビのスイッチを入れた。


 テレビに映し出されたのは アメリカの貿易センタービルに旅客機が追突する場面であり、それは映画のワンシーンのような画像であり 現実のものとは思えなかった。



   基礎データは要りません! / 量産の思想


 9月13日(木)午前中に 生産技術部 技術部 コイルBT 製造部のそれぞれの部門毎に 0603チップインダクタ開発進捗会議が行われた。


 この週の チップインダクタのラボラインでの試作は 良品歩留まりが30~60%で変動しており 前の週の良品歩留まりから改善が見られていないことに危機感を感じた部門長等は 部門の関係者に召集をかけて 進捗会議を開いていた。


 それぞれの部門の進捗会議で 部門長等は チップインダクタ関連の担当者に 良品歩留まりを上げるようにとの強い指示を出した。



 午後に行われた定例の部門合同の開発進捗会議には 各部門の部長等の姿は見られなかった。


 会議が始まると 生産技術の坂下技師は 川緑と池本技師に 厳しい表情で「この仕事に基礎的なデータ取りは要りません。ラインの立ち上げは ぱっぱっとやらないとだめです。」と言った。 


 彼は 続けて「あなたたちは あなたたちでやってください。こちらは こちらでやりますから邪魔をしないでください。」と言った。


 彼の言葉使いは丁寧なものであったが 川緑には その口調に 何か怒りのような威圧的なものと切迫した雰囲気を感じた。



 翌日午前8時に 開発チームの池本技師と川緑は 0603チップインダクタのラボラインへ生産技術メンバーの試作の様子を見に行った。 


 昨日の会議で 0603チップインダクタのラボラインの使用について議論され 生産技術のメンバーが彼等の開発計画を進めるために 優先して ラボラインを使用することが決められていた。


 ラボラインでは 生産技術部の坂下技師と杉原技師と辻本氏と 製造部の3名がチップインダクタの試作を行っていた。


 杉原技師は 坂下技師と同年代で 中背、ふっくらした体型、メガネをかけ 色白の丸顔に眼鏡を掛けており 初対面の川緑にも笑顔で話しかけてくるタイプであった。 


 辻本社員は 30歳くらい 小柄で細身、精悍な感じで 必要以上には話をしないタイプだった。


 川緑は 忙しく作業を行っている彼等を見ると その表情に切迫感があって 横から声を掛けづらい雰囲気をかもし出していた。


 それでも 川緑は「こちらは 工程毎のチェック項目をまとめます。そちらで 何か試作のための良い条件があったら教えてください。」と声を掛けたが その声に振り向くものはいなかった。



 この日の夕方に 川緑はラボラインへ様子を見に行くと 試作は行われておらず ラボラインの付近に製造部の古田班長が一人でいた。


 古田班長は 50歳くらい、中背、ふっくらした体型、日焼けした丸顔に 温和な表情で優しい口調で話しをするタイプであった。


 古田班長は 川緑に「今日の試作は終わりました。話はかわりますが。」と言うと 昨日の部門毎に開かれた0603チップインダクタ開発進捗会議の様子を話した。


 古田班長は 生産技術部の開発進捗会議の席で 部門長等は 坂下技師等に 0603チップインダクタの歩留まりを上げるように 厳しく指導したと言った。  


 その話から 川緑は ラボラインでの生産技術部のメンバー等の切迫した雰囲気の理由が分った。


 古田班長は 昨日の製造部の開発進捗会議の席で 製造部部長から 商品開発を進めるようにハッパを掛けられたと言った。


 古田班長の話に 川緑は 部門の責任者等が 新商品の良品歩留まりの改善に進展が見られないことに痺れを切らしていることと 社外の川緑に 直接 ものを言うことを避けていることが判った。


 同時に 川緑は 古田班長が それぞれの部門の状況を伝えてくれることをありがたいと感じた。



 9月17日(月)午前9時頃に 川緑は ラボラインを見に行くと そこでは生産技術部のメンバー等が ラボラインの設備を隣の建屋の広いスペースへ移し始めていた。 


 坂下技師に「一体 どうしたんですか。」と聞くと 彼は「これからは 製造のスタッフに入ってもらい、自分たちが取り決めた製造条件で チップインダクタの量産試作を始めます。」と言った。 


 彼等が新しく取り決めたチップインダクタの製造条件は 電着UVレジストの現像工程に これまでとは異なる現像液を使って現像を行うものであった。


 坂下技師は 川緑の方を向くと「あなたの仕事を手伝うために うちの辻本君は 忙しいのに時間を取られとるとですよ。」と強い口調で言った。


 川緑は これまで チップインダクタの歩留まり改善のための実験に必要な 冶具の設計や 部材の発注を辻本氏に依頼しており 彼は そのことを指摘してた。


 彼は 続けて 川緑に「あなたの仕事は 狭いところにのめり込んでいて それでは ものづくりはできません。」と言った。 


 坂下技師の態度には 上からの強いプレッシャーや 会社の存続を掛けるという責任感が感じられ 今回の新しい現像液を用いて 何とか 量産に漕ぎ付けたいという気迫が感じられた。

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