第13話 開発支援
ただより高いものは / 宮崎に赴任
2001年8月20日(月)午前7時30分頃に 福岡空港に着いた川緑は 電光掲示板を見ると なんと予約していた宮崎行きの飛行機は 台風11号の影響で欠航となっていた。
この日から新商品開発支援のために宮崎事業所に出張予定であった川緑は 直ぐに 事業所の開発チームの立野リーダーに電話を掛けて 到着時間が遅れることを伝えた。
受話器を戻すと 彼は 空港から博多駅へ戻り JRに乗り換えて 小倉駅経由で宮崎へ向かった。
午後1時20分頃に 宮崎事業所に到着すると 川緑は 守衛所で記帳し 技術棟に向かった。
技術棟の入り口付近には 喫煙所があり そこに開発チームの立野リーダーとコイルBTの小堀リーダーが話をしていて 川緑に気付くと「長旅でしたね。 お待ちしてましたよ。」と言った。
彼等に案内されて 技術棟の会議室に入ると、会議机の周りに十数人の関係者が座っていた。
彼等は コイルBTと生産技術部に所属する新商品開発のメンバーであった。
会議が始まると 生産技術の坂下技師が 彼の作業服の胸のポケットから 数センチ角サイズのビニール製のサンプル袋を取り出して 川緑に見せた。
サンプル袋を受け取ると 中に 0603チップインダクの試作品3個が入っていた。
それは 黒いゴマ粒の様に見えたが 川緑がいくら目を凝らして見ても その外形が丸いのか 角ばっているのかは 分らなかった。
川緑は ポケットからルーペを取り出して ゴマ粒を見ると それは直方体形状であり 長方形の4面には黒い絶縁塗料が塗られており 正方形の2面はメッキされていた。
坂下技師は「これはラボラインで作った良品です。その時はできたんですが。」と言った。
川緑がサンプルを返却すると その後 0603チップインダクタ開発の担当者等が 交代で 開発の背景や現状や課題等についての説明が行われ 会議は夕方まで続いた。
会議が終わると 坂下技師は 川緑を 0603チップインダクタのラボラインがある実験室に案内し ラインのそれぞれの工程について説明を行ったが それは短時間に行われた。
この日は 東シナ海から九州に向かって台風11号が近づいてきており 事業所では 各チームの管理職等から従業員へ 早めの退社を促していたからであった。
午後6時頃に 皆が急ぎ足で退社する中 立野リーダーと小堀リーダーは 川緑を呼び止めると「川緑さん 近くで食事でもいかがですか。」と言った。
川緑は2人について行き 会社から少し離れたところの居酒屋に入り 4人掛けのテーブルについた。
2本のビンビールが運ばれて来ると 3人はお互いに相手のグラスにビールをつぎ 小掘リーダーの「ようこそ川緑さん 期待していますよ。」の声を合図に呑み始めた。
小堀リーダーは コイルBTの業務管理と営業活動を行っていて 話し上手であり 3人の会話を先導する様子には 親分肌の気性を感じさせた。
上背があり ふっくら体形の立野リーダーは 川緑と同じく 話の聞き手側に回る傾向があり 静かに飲むタイプであった。
台風の接近もあり 早めの時間に食事会が終わると 川緑は お代を割り勘にしたいと申し出たが 彼らは そうはさせなかった。
「ご馳走になりました。」と言いながら 川緑は 彼等の仕事への期待感と その期待に応えないといけないという責任を感じており 同時に「ただほど高いものはない」という言葉を思い出した。
見えなかったものが見える / ラボライン
8月21日(火)午前8時頃に 事業所に入ると 川緑は開発チームの立野リーダーを訪ねた。
この日から開発チームの橘技師と池本技師が 川緑の活動をサポートしてくれることになっていた。
橘技師は 30歳台後半くらい 小柄で細身 メガネを掛けていて 几帳面な性格に見えた。
池本技師は 30歳台中頃 中肉中背 まじめなタイプであり 今回のミッションにやる気を感じさせた。
川緑は 彼等と立野リーダーに 今日予定していた活動の概要を説明すると「では よろしくお願いします。」と言って2人を連れて生産技術へ向かった。
彼等は 生産技術の坂下技師に 実験室と実験に必要な設備や器具を借りて 0603チップインダクタの製造工程を検証するモデル実験を行うことにした。
0603チップインダクタは あまりに物が小さいために 目視での仕上がりの評価は難しく ラボラインには 仕上がりを観察するための顕微鏡が置かれていた。
しかし顕微鏡を見ながらの試作サンプルの評価は 手間がかかり結果が分りにくいものとなっていた。
そこで川緑等は 各工程での仕上がりの評価を分りやすくするためのモデル実験を行うことにした。
モデル実験には チップインダクタの試作に使用されているセラミック製の素子を用いる代わりに 50mm×40mm×1mmサイズの銅板を基材として用いることにした。
モデル実験では 銅板に電着UVレジストを電着塗装し 銅板を乾燥させ マスク露光を行い 水現像を行うまでの一連の工程について それぞれ電着条件 乾燥条件 露光条件 現像条件を変えながら試験サンプルを作製した。
彼等は 試験サンプルを工程毎に分けて 実験台の上に並べると それぞれのサンプルについて 加工条件と仕上がりを評価した。
50mm×40mm×1mmサイズの銅板を用いることにより 加工サンプルのレジストの厚みや乾燥状態や露光時の色変化や現像時のパターンの切れ具合の観察を容易にし、また 計測機器を用いて評価することが出来た。
川緑等が 新工法のそれぞれの工程の条件を決める時に 特に注意したのは 電着UVレジストの硬化状態の確認であった。
電着UVレジストは 電着浴内で電着塗装され 乾燥機内で乾燥され UV照射機でマスク露光され 水洗浴で現像され 最後に アルカリ水溶液浴で剥離される一連の工程に関与する材料であった。
これらの工程で 電着UVレジストが 求められる機能を発揮するためには その硬化状態が大きく影響した。
電着UVレジストの硬化状態は 乾燥条件によって異なり 乾燥温度や時間や乾燥機内部の風量やサンプルの配置により変化した。
また 乾燥機内での電着UVレジストの乾燥状態は レジストの電着厚等の塗布状態によって異なり 塗布状態は 電着時の印加電圧や印加時間や浴の温度等の電着条件の影響を受けた。
0603チップインダクタの試作の際に 電着UVレジストの塗布状態と乾燥状態に関わる要因を組み合わせた場合の数だけ 試作条件をふると膨大な数となり 現実問題として不可能であった。
そこで 川緑は まず モデル実験を行い 試験サンプルの目視による外観評価により それぞれの工程の暫定条件を決めて その条件を基に の0603チップインダクタの試作条件を決めることにした。
9月3日(月)午前10時頃に 川緑は 九杉社の本館の役員室で 研究所の担当役員の米岡取締役と 今月からの宮崎事業所への派遣の件で面談を行っていた。
取締役は 60歳台前半くらい やや上背があり 細身の体形で 眼鏡を掛けており 温和な口調で「今回の仕事は うまく行きそうかね?」と聞いた。
川緑は 事業所の現場の様子と 開発支援依頼の内容と 今後の見通しについて説明すると 取締役は「君には 他の事業部からも開発依頼がきていると聞いている。 川緑商店は大繁盛やな がんばれよ。」と声をかけた。
9月4日(火)午前10時福岡空港発の飛行機に搭乗した川緑は 宮崎空港からJRに乗り換えて佐土原駅で降りると そこに開発チームの立野リーダーが車で迎えに来ていた。
川緑は「お迎え頂き ありがとうございます。お世話になります。」と言うと 立野リーダーは 笑顔で挨拶し 川緑を車に乗せて 宮杉社の単身赴任寮へ送った。
寮に着いた川緑は入り口を開けて「ごめんください。」と言うと 管理人室から寮母さんが出てきた。
寮母の米川さんは 70歳くらい、小柄で、少し腰が曲がっており 温厚そうな笑顔で川緑を迎え入れると 彼を208号室へ案内した。
翌日の午前7時に 寮を出た川緑は 雨天の中 自転車で片道7kmの距離を事業所へ向かった。
会社に着くと 川緑は 技術棟のロッカーで 作業服に着替えて 開発チームの池本技師と合流し 二人は0603チップインダクタのラボラインへ向かった。
この日 彼等は ラボラインで 製造のスタッフによる0603チップインダクタの試作状況を観察した。
彼等は 0603チップインダクタの工程表見ながら 試作状況との比較を行い そこに潜む課題をチェックしていった。
川緑は 各工程でサンプリングした試作品をじっと見ていた時に不思議な事に気づいた。
先週までは 0603サイズのチップインダクタを見ても ただゴマ粒のように見えるだけあり その形状が角柱状なのか 球状なのかの見分けがつかなかった。
ところが それを毎日み続けていると その形が見えるだけでなく 良品か不良品かの区別もつくようになっていた。
物づくりの現場で 何かを注意深く観察していると これまで見えなかった小さなものが見えたり 僅かな違いが見えるようになることに 川緑は不思議な感じを覚えた。
この経験は 川緑に いろんな製造業界で 物づくりの現場で仕事をしている人達は 他の人には見えないものを見ながら作業をしているのだろうと思わせた。
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