第12話 宮崎事業所案件

   すぐに来てくれんかね / 微小電子部品の開発依頼


 2001年8月3日(金)午前10時頃に 材料部品研究所の居室で事務作業を行っていた川緑に 九杉社の子会社である宮崎杉下(宮杉)社の勝田技術部長から電話があった。


 彼は「川緑君 君 すぐに来てくれんかね? まず 3か月間来てもらえんだろうかと思うとる。この話は誰に通したらよかろうか?」と言った。


 宮杉社は セラミック基材を用いたコイルやコンデンサーや抵抗等のLCR電子部品の製造販売を生業とする事業場であった。


 1995年に 川緑が中途入社した時は 宮杉社は 九杉社と杉下電子部品社との共同出資の会社であり その事業は国内市場の15%程のシェアを有していた。


 しかし その後 LCR電子部品市場のグローバル化に伴う 商品価格低下の影響を受けて 宮杉社の業績が低迷すると 杉下電子部品社からの出資が打ち切られ  九杉社の子会社となっていた。

   

 勝田技術部長は 50代中頃、中背細身でメガネをかけた紳士風の外見の方であり、3年程前に彼が宮杉社の商品企画課の課長であった頃に 川緑と面識があった。


 突然の相談に戸惑った川緑は 彼が言ったことをオウム返しに「すぐ来てくれ?」とか「3か月間?」と言ったので、近くにいた研究所のメンバー等が 川緑の方を振り向き 何事かと聞き耳を立てているのが判った。


 川緑は「今 上司の野島チームリーダーは席を外していて 昼休みには戻ると思います。」と言い 上司の内線番号を伝えると「お手数ですが そちらへ電話してみてください。」と言った。



 8月7日(火)午前8時福岡発の飛行機に乗ると 川緑は宮崎空港から電車に乗り JR佐土原駅で降りると タクシーで宮杉社へ向かった。


 宮杉社に着くと 川緑は 正門にある守衛所で受付を行い そこから少し離れた技術棟へ向かった。 


 技術棟の2階に上がると 右手側の一角には生産技術部の居室があり 中央奥に向かう大きな広間に技術部の居室があった。


 技術部は 各チームの机が島を作るように 向かい合わせで配置されており それらの島から少し離れた右手側の壁側に部課長等の机が配置されていた。


 勝田部長を見つけた川緑は彼の所へ行き「おはようございます。お世話になります。」と挨拶した。


 「ごくろうさん。すまんね 呼びつけて。」と言うと 部長は 開発支援依頼の件について話し始めた。


 勝田部長は「うちは 付加価値のある商品を開発せんと生き残っていけんのよ。それで市場のニーズに合わせた新商品0603チップインダクタの開発を進めとるんじゃが。」と言った。 



 宮杉社が生業とする電子部品事業の市場のトレンドは 携帯電話等のモバイル機器の軽薄短小化に伴い より小型で高性能な商品へと向かっていた。


 0603チップインダクタとは その外寸が0.3mm角×0.6mmの大きさの角チップコイルであった。


 このサイズのコイルは 世界最小であり それまでの主力製品の1005チップインダクタ(外寸が0.5mm角×1.0mm)よりも小さいために 従来の製造方法では作れないものであった。



 勝田部長は「ここ1年間ラボラインで開発を進めとるんじゃが まだ物ができておらんのよ。君 この商品ができるものかどうか 3か月間で見極めてくれんかね。」と言った。


 3か月間という期限は 新商品の量産設備を発注するためのタイムリミットであり この時期を過ぎるとビジネスチャンスを逃してしまうとのことであった。


 部長の説明は 淡々としたものであり 今の事業場の状態を川緑に正確に伝えようとしていて その話し方に意気込みや焦りといった感情は見られなかった。


 部長は「新商品の詳しい話は うちの技術に聞いてみてくれんね。」と言って 川緑に会議室に行くように指示した。



   新規工法 / 設計思想


 技術棟2階の会議室のドアをノックして中に入ると 席についていた関係者等が川緑を振り返った。


「材料部品研の川緑です。お世話になります。」と言って交換した名刺から 3名が開発チーム、3名が生産技術チーム、2名がコイルビジネスチーム(コイルBT)の所属であると分った。


 会議が始まると 川緑に資料が渡され 生産技術チームの坂下技師が新工法の説明を始めた。


 50歳くらい、中背細身、日焼けしており 眼光の鋭い坂下技師の説明は 簡潔で明瞭であり 川緑に できる技術者という印象を与えた。


 坂下技師から説明があった新工法の工程は 次のようなものであった。

1)素子の成型、焼成

2)素子の銅メッキ処理、洗浄、乾燥

3)レーザートリミングによるコイル形状形成

4)素子の前処理(硫酸水溶液浸漬、水洗、乾燥)

5)電着UVレジストの電着、乾燥

6)レジストのマスク露光

7)レジストの水現像

8)電着塗料の電着、乾燥

9)レジストのアルカリ水溶液剥離、洗浄、乾燥

10)端子メッキ、洗浄、乾燥


 工程4)から工程9)までは 金属製の櫛状の冶具を用い 素子を冶具の刃先と刃先との間に挟んだ状態で処理を行うものであった。



 0603チップインダクタの新工法は プリント回路基板の製造に使用される電着UVレジストを用いる工法であり その製法を 微小な直方体形状の角チップコイルに応用しようとするものであった。


 坂下技師によると 新商品開発の課題となっているのは 電着UVレジストのマスク露光後の水現像時に マスクのパターンがうまく形成されないことであった。


  また彼によると 0603チップインダクタの量産可否の判断条件は  ラボラインでの歩留まり30%以上を確保できることと その後の歩留まりを改善する方策があることであった。



 坂下技師の新工法の説明が終わると 川緑は 会議の参加者を見回して「この工法は どなたが考えたものですか。」と聞いた。


 すると 正面に座っていた坂下技師が 両肘をテーブルの上につき 両手を顎の下に組んで「誰が というより みんなで考えたものです。」と答えた。


 彼の質問への回答や説明の様子から 川緑は 坂下技師が中心になって新工法を考案したことが判った。


 川緑は 資料に記載さえた新工法の工程を一つずつ見ながら それぞれの工程をイメージして それらの加工方法に無理がないか 設計思想に無理がないかを吟味した。


 

 暫くの間 工程表を見ていた川緑は「この工法は 0603チップインダクタを作るのに 良い方法だと思います。」と見解を伝えた。


 川緑は 新工法を用いてチップインダクタを作るという設計思想は正しいものだと思った。


 角チップコイルに電着UVレジストや電着塗料のような電着タイプの塗料を電着すると 印加電圧は コイルの平面部よりもエッジ部の方に集中するので コイル平面部に比較してエッジ部で塗料の厚みがやや厚くつくことが予想された。


 逆に 電着塗料ではなく 液状塗料や紛体塗料を 角チップコイルに塗布する場合は いずれもコイルの表面に液体として濡れ広がり 液体の表面張力により コイルの周りに丸くなるように塗着するために エッジ部の塗料の厚みは 薄くなることが予想された。


 このエッジの塗料の厚みが薄くなる現象は コイルの外寸が小さくなればなるほど 表面張力が強く働くので より顕著になるはずであった。


 このように コイルの絶縁被膜が エッジ部で薄くなると コイルの絶縁破壊電圧が低くなり コイルの品質低下に繋がると考えられた。


 また エッジ部の塗料の厚みが薄くなると 川緑の「硬化の理論」によれば エッジ部では平面部に比較して 硬化状態が悪くなるために コイルの性能に悪影響を及ぼすことは 容易に推測された。


 新工法に用いられる電着タイプの塗料では コイルのエッジ部を厚く被覆することができるので 角チップコイルの加工工程で 十分な強度と耐性を発揮し 耐圧性能等の品質の良いコイルを作ることができると予測できた。


 このように考えると 新工法は 0603チップインダクタのような微小な電子部品を作るための設計思想としては 正しいものであると思われた。



 新工法の設計思想を吟味しながら 川緑は東西ペイント社にいた時の上司の言葉を思い出した。


 その言葉は「もし その設計思想が正しければ いつかは いいものを作ることができる。 しかし その設計思想が間違っていたなら いつまでたっても いいものはできない。」というものであった。 



 8月8日(水)午前10時頃に 昨日の宮杉社での打ち合わせ議事録を作成した川緑は 上司の上島リーダーの所へ資料を持って行き その内容を報告していた。


 そこへ 宮杉社コイルBTの小堀リーダーから川緑に電話があった。


 小堀リーダーは 中肉、小柄でやや丸顔、メガネをかけ はっきり聞き取れる声で話をする方であり 対外的な営業活動やコイルBTの業務の進捗管理を行っていた。


 彼は「宮杉社の存続は 新商品開発の如何にかかっています。私達は 0603チップインダクタに事業部の進退をかけます。川緑さんには 是非ご協力をお願いしたい。」と彼等の意向を伝えてきた。


 川緑は「ご依頼の開発支援の件を受けるかどうかは 研究所の判断になります。 ご支援させて頂くことになりましたら きるだけのことをやります。」と伝えた。



 小堀リーダーの電話があってから間もなく 研究所担当役員の米岡常務取締役から 上司を経由して 川緑に宮杉社の開発支援の指示があった。


 上司は川緑に 研究所の宮杉社への支援業務について 8月中は出張対応を行い 9月以降は派遣対応で宮杉社に駐在することになると説明した。


 通常 組合員の派遣等による異動の際は 組合が間に入り 本人 及び異動元と異動先の担当者等の意思確認等を行うのが通常であった。


 しかし 今回の案件が緊急を要することと 米岡取締役が宮杉社の社長も兼務していたために 川緑の支援業務への対応は即決された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る